はじまり
街行く人々の中に、無機物が交じるようになったのはほんの数年前。隣を歩いている人間が人間でないとしても、今の時代はもう誰も何も思わない。人型アンドロイドに偽りの自我を持たせ、限りなく人間に近づけることに成功させた高麗一族の存在は、自他ともに認められる最高権力となった。
ただ歩いている人の中から機械を判別することも難しいほどではあるが、言葉を交わせばやはり機械じみている。高麗一族は、これからまだまだ人間に近づける気でいる。それを止める理由も人も、術もない。世間もそれを待ちわびているようだ。人を造る人とはもうそれは神と言わざるを得ない。
この人型アンドロイド「ドール」は病院や警軍で存分に活用されている。義手や義足はもちろん、今では血液なんかもどうやら作れるらしい。医療にこの技術が導入されたのはドールの開発とほぼ同時だ。一番最初に活用したと言われているレグホーン病院は当時話題になった。
その病院で働いていた両親に、幼いころ「どんな仕事をしているのか」と尋ねたことがある。まだ小さかったゆえか、両親は難しいことは何も言わなかった。ほんの少し困ったような表情を浮かべてから、ただ薄く微笑んで「人を助けるために必要なことだ」と呟いた。
そして警軍では、犯罪者リストに載っている者を記憶させているドールに見回りをさせている。人手不足の軽減や危険な現場への出向など、存分に役立たせているのだ。
(なるほど、それだけならばドールも悪くない)
青磁は眉間に寄ったしわを意識的に伸ばし、独りごちた。
雨で湿り気のある空気を鼻から吸い込み、一寸体に留めてから口から吐き出した。
目の前にいる大嫌いな先輩の背中越しに、胸糞悪い男を見下ろした。
地べたに座らせている彼は、何事もないように優しげな笑みを湛えている。両手が拘束されていなければ手を口元に添えるような、上品な笑い方だ。
「悪用する奴だっている」
「そりゃそうだよ、人間なんておかしい奴ばっかりなんだから」
楽し気に笑う先輩の言葉に、初めて同意できそうだ。
「わかります。あなたたちみたいな人を言うんですよね」
「そうそう」
先輩は男の脳天を撃ち抜いてから笑顔で頷いた。
「人間なんて汚いもんだよ」
1
――来月朔日から、青磁は銀鼠と共に業務すること。
そう通達がきた翌日。
青磁はさっそく挨拶をしに、銀鼠の所属している東京中央区域担当犯罪処理課に向かった。
警軍訓練学校にいたときから、銀鼠という名は何度か耳にしたことがある。
「落ちこぼれの銀鼠」と言われている男。青磁の六年ほど歳が上なのだが、軍学校の卒業生ではない。にも関わらず、なぜ学校内でそんな噂が流れるのか。いや、そもそも軍学校の出ではないのに警軍になれるものなのかなど、疑問しかないのだが事実彼は警軍として現在働いている。
青磁は、「落ちこぼれの銀鼠」という噂を信じているわけではない。自分の目で確かめてみないことには、銀鼠という人の実態を把握できるはずがない。憶測だけで判断するのは好まない。とはいっても、そのように言われているということは、よっぽどの何かがあったのだろうとは思うけれど。
噂を真に受けているわけではないのだが、気分が落ち込まないといえば少し嘘になる。両親がいなくなって、警軍になろうと決めた。犯罪者を捕まえる、正しい仕事をすると決めたあの日からの念願だった。そんな晴れやかな始まりが、なんとなく躓いてしまったような感覚。新人にも満たない自分がそんなことを抱いてしまうなど烏滸がましいとはわかっている。わかっているけれど。
青磁は無意識に俯いていた顔をもたげた。長い廊下も終わり、本棟に着いた。警軍の寮と廊下で繋がっているものの、無駄に距離がある。寮に住んでいても、寝坊したけれど近いから平気だということもない。
犯罪処理課のスペースは広く、けれど皆忙しいのか人はそれほどいない。
部屋ではなくなんとなくで区切られているので、扉をノックというわけにもいかず青磁はすぐ近くに座っていた女性に声をかけた。書類整理をしていたのだろう、デスクに向けていた顔を上げる。
「すみません、銀鼠さんはいらっしゃいますか?」
「ネズミさん? ここにはいませんよ」
物腰柔らかな女性は、微笑みながら首を振った。銀鼠と親しいのか、銀鼠を「ネズミさん」と言った。確かに鼠という漢字ではあるが、その略はどうなのだろう。読み方は「ぎんねず」なのだけれど、だからといって「ねずさん」というのも変だろうか。
そんなことはどうでもいい。青磁は内心で自分を諫めた。
「アポは取っていますか?」
「あ、いえ。すみません」
そうか。連絡手段がないからどうしようもないのだが、アポイントメントは取るべきだった。軽率だった。
「彼はついさっき仕事に出ました。ネズミさんのパートナーですか?」
よくわかったものだ。青磁が新人にも満たない警軍だということを彼女にはお見通しだったのだろう。制服を着ていない覚えのない顔の青磁を、先輩を訪ねてきた新人だとすぐ把握したようだ。一般人はここには来られないのだから、当たり前と言えばそうだろう。
「はい、そうです。挨拶にと思ったんですけど」
頷くと、彼女は困ったように笑った。長い茶髪がさらりと揺れる。青磁の相手をするためにわざわざ立ち上がった彼女は思っていたより背が高く、腕も腰も細いが、軍服を着ている。清楚な白が上品に体を覆っていて、か弱さが微塵もない。
「それはまた……ご愁傷様ですね」
「はい?」
「あまり期待はしないほうがいいですよ」
新人は先輩とコンビを組むという制度がある。組む年数はそれぞれで異なるが、最低限一年間は一緒に行動することを義務付けられている。誰と組むかは上層部によって様々な能力のバランスを考慮して決められるため、こちらには従う以外の選択肢はない。
青磁が訝しむ顔をしたからか、彼女はふっと笑みを曇らせた。
「ごめんなさい、幸先の悪いことを言いましたね」
「いえ」
「ともあれ、せっかく挨拶にいらしたんです。今から会いに行ってみてはいかがですか?」
「でも銀鼠さんは仕事へ行ったんですよね? 私が行ったところで邪魔にしかならないんじゃ」
彼女は再び微笑んだ。彼女が笑うたびに桃色の花が舞っているような錯覚を見る。それほど華やかだった。
「あの人はそういう風には思わないですよ。お時間があるようでしたら、彼の働く姿を見てきたらどうでしょう?」
時間ならある。なにせ厳密にはまだ警軍ではない。学生と社会人の間だ。
青磁はこくりと頷いた。
「場所、教えていただけますか」
「はい。現場には単独で向かっているので、すぐにわかると思います」
邪魔になりそうであれば、立ち去ればいい。
場所を教えてくれた親切な彼女に丁寧にお辞儀をして、踵を返した。場所はここからさほど離れてはいない廃ビルだ。
早足で本部を出て、小走りで目的地へ向かう。空には雲が多いが、幾分か青空が垣間見える。雨の多い時期を経て暑くなろうとしている空気は湿っぽく、青磁の肌をねっとりと撫でた。
彼女は期待しないほうがいいと言っていた。
それはつまり、銀鼠という男は噂通りの落ちこぼれだということなのだろうか。しかし仕事は単独で任されている。それなのにご愁傷様とまで言われるとは、いったいどんな人なのだろう。
少しの不安が、大きくなってきた。
***
ものの五分ほどで目的地が見えてきた。
「?」
ふと視界の隅に人が引っかかる。歩幅は少しゆるめるだけにとどめて、顔も前を向いたまま目だけをそちらへ投げる。道を挟んだ奥に、男が一人立っていた。何かを見上げているようだ。その視線を、青磁も追う。その先は廃ビルの屋上だ。
「え」
青磁は声を上げた。なるほど、あの男は見つけてしまったのか。
人が今にも落ちそうだった。
青磁は息を呑んだ。どうすべきかと一瞬考えて動きを止める。ビルの壁面にくっついている階段を数秒見つめてから走り出し、一気に駆け上がった。五階分の階段はさすがにきつい。登り切って足を止め、息切れを整える。するとヒステリックな叫び声が耳を刺した。それは青磁に向けられた言葉ではない。おそらく、その声の主に近づこうとしている一人の男に向けたのだろう。
「来ないで! 来たら落ちるわ!」
疲れと緊張で震える足のままゆっくりと屋上全体が見える位置へ移動する。屋上には柵の外にいる女と、それに向かう男しかいない。後ろ姿しか見えないが、彼が自分の先輩なのだろう。そう判断しながら、青磁は構わず進もうとした男の腕を引っ張って止めた。
彼は振り向き、悠長に首を傾げて青磁を見る。
「あれ、どちらさま?」
まず惹きつけられたのは、彼の翡翠の瞳だった。至近距離で目が合うと吸い込まれそうだ。両目の下には血涙のような、赤い刺青がある。そして処理課で親切にしてくれた女性と同じ、金に縁取られた白の軍服。白の詰襟はだらしなく前を開けているのに、中の黒いシャツはきっちり上までボタンを留めているところに絶妙な違和感があった。その違和感を誤魔化すためか、カトリックなのか判別はつかないが、長いロザリオを首から下げている。
銀鼠は青磁を不思議そうに見ながら、ふわりとした癖のある髪を軽くかき上げた。
(なんてだらしない恰好なのだろう)
視線を一瞬落としてから、青磁は気を取り直して頷いた。
「今はそんなことより、彼女を助けないと」
青磁の言葉を聞いているのか、聞いていないのか、彼のゆるい表情は変わらなかった。青磁が返答をしなかったことを怒るわけでも追及するわけでもなく、薄い唇をうにゅうにゅと動かした。
「あー、もしかして新人でしょ。なるほど、なるほど」
勝手に納得したのか、動かしていた唇を開いて笑った。なぜ今、この状態で笑えるのか。
「だから! そんなことは今どうでもいいんです!」
痺れを切らして青磁は声を荒げた。掴んでいた彼の腕を離して、女のほうへ目を向けた。
「あの、落ち着いてください」
動揺を押し隠し、青磁はゆっくりと、言い聞かせるように言った。横で、彼は緊張感の欠片もない大きな欠伸をした。この人に任せていい仕事とは思えない。
(落ちこぼれ……か)
内心で落胆しながら男を無視して、青磁は続けた。
「あの、どうしてそんなところに」
「いきなり来てなんなの。そいつの仲間? アンタなんかに話してやる義理はないわ」
「そんなこと言わずに……」
「面倒くさいなー」
と、空気の多い声で呟いた。独り言にしては大きなその声に、青磁と女は反応する。神経を逆撫でされたような、不快感が胸にわだかまり、眉根を顰める。
横目で元凶を見ると、彼はつまらなそうに目を擦っていた。青磁のことも、今まさに飛び降りようとしている彼女のことすらも見ていない。
「そんなに睨まなくても」
銀鼠は情けなく口をへの字にして呟いた。どうやら、青磁の顔は視界に入っているようだ。やれやれとため息を吐くと、上目で青磁を見る。翡翠の瞳が、彼の気だるげな態度と似つかわしくない輝きを放っていた。
「今、僕は究極につまらない」
大袈裟に肩を竦めて見せる。
「は?」
「まあでも新人が来たことだし、さっさと片づけないとね」
銀鼠は一人勝手に頷くと、止めていた足を再び動かした。まっすぐ、女の許へ近づいていく。
「来ないでって言ってるでしょ!」
「来たら飛び降りるって? 何それ」
鼻で笑うだけで、止まろうとはしなかった。
「じゃあそっちに行かなかったら飛び降りないの? だったらどうしてそこにいるの?」
銀鼠は、にやあといやらしい笑みを浮かべた。ような気がした。青磁からは彼の猫背しか見えない。
「おかしいね。アンタは死ぬためにそこにいる。僕がどう動こうが関係ない。飛び降りればいいんだよ? 何を躊躇ってるの? ほら、僕は止めないよ、さっさと落ちればいい。大丈夫、誰もアンタの邪魔はしないから」
「なっ、何を……」
青磁は言葉を詰まらせた。なんてことを言うのだ、この男は。
「アンタの生死なんて、僕には何の興味も影響もない。止める理由なんて、ない。死のうとしてるアンタに構ってる時間もない。だから早く飛び降りてくれないかな。でないと、いつまで経っても仕事が終わらない。せっかく来てくれた後輩との挨拶もできない。アンタがそこにいると迷惑なの。わかる? 僕の貴重な時間がアンタのために失われていく」
ゆっくりはっきりと言いのけるその様は、舞台俳優のようだった。
笑みで細められた目に、彼女は青ざめた顔を俯かせていた。何も言わない。
「あれー? もしかして怖くなっちゃった? だったらいいんだよ、こっちにくれば。僕らはただの第三者なんだから、アンタの好きにすればいい」
「こ、怖くなんかないわ!」
彼女の掴んでいた柵が軋んだ。
「それなら」
その彼女の手に、銀鼠の手が重なる。もう触れられるほど近づいていたのだ。触られた女はびくりと肩を揺らし、握ってくる男の顔をまじまじと見た。もう落ちることは叶わないと、どこかほっとした表情を覗かせていた。
柵越しに腰を引き寄せ、蛇が這うようにゆったりと彼の手が彼女の頬を撫でる。顔を近づけて、青磁から見るとまるで口付けでもしているようだった。
当たり前だが、まさかそんなはずもない。
「死ぬのを手伝ってあげようか」
銀鼠はそう言うと、握っていた手を躊躇いもなく押し出した。
「――え?」
バランスを崩した女の体は奥へと傾ぎ、空に放り出されていた。
「やっ……」
青磁が遠くから駆け寄ったところで間に合うわけもない。
「っ、先輩!」
青磁は何事もなかったように振り向く銀鼠の胸倉を掴み上げた。銀鼠の背中に柵がぶつかる。睨みつけるが、それでも笑っている彼を見て、頭に血が上り、銀鼠の頬に拳を叩き込んだ。避けられるか、止められると思っていたが、拳は素直に彼の頬を抉った。初対面の、自分の先輩になる人を殴るなど初めての経験だった。
「何、してんですか!」
殴られてもなお、彼の表情はゆるんだままだった。歪められた唇の端に血が滲んだ。それを舐めて、にやりと笑った。その様はやけに扇情的で、青磁はぞくりと背筋を震わせた。
なんだ、こいつは。頭がおかしい。何を考えているのかまったく掴めない。
「――いいこだなぁ」
「はっ?」
銀鼠は青磁から視線を逸らし、後ろを見た。
「あの女はねぇ、カナリヤっていうんだ。警軍に莫大な金をつぎ込んでくれる悪党の大事な娘さんなんだって」
「それがなに……」
「死んでないよ」
「え、あ、はい?」
「上司から死なせるなって言われてる。下、見てみな」
青磁は荒々しく銀鼠の服から手を放し、言われたとおり下を覗き込んでみた。
それほど高い建物ではない。目を凝らせば人の顔を判別することができる。無意識に男がいた場所にも視線を移すが、もうそこには誰もいなかった。
「え……」
カナリヤは、確かに下にいる。しかし倒れていないし、血も流していない。呆然とした様子でへたり込んでいる。
「命綱があるのに死ぬことなんて、滅多にないでしょ」
銀鼠はあっけらかんと言いながら、柵に巻かれたロープを見せた。その先はビルの下へ、彼女の腰に繋がっている。
あのときだ。
銀鼠がカナリヤの手を握ったとき。腰を引き寄せたとき。
まったくそういう素振りも把握できなかったが、おそらくあのときに細工をしたのだろう。最初から、助けるつもりだったのだ。
一瞬、なんだいい人かと思ったが騙されるな。そうであってもわざと喧嘩を売るような言動をして、あまつさえ本当に落とすこともないのだから。
「僕よく思うんだけどさ」
不意に声色を明るくした。その銀鼠の顔は悪戯っぽい笑みが張り付いていて、それでも子供のような無邪気なものではなく、凍るような暗さがあった。
「死んだら楽になるって、誰が言ったんだろうね?」
「……?」
青磁は、銀鼠の言葉の意図が読めず、首を傾げた。けれどそんな青磁には構うこともせず、銀鼠は薄ら笑いを浮かべながら続けた。右手で空を指し、左手で下を指す。
「死んだ先が地獄か天国かそれ以外かは知らないし、興味もない。けどさ、もしかしたら生きているよりもツラいところかもしれない。だったら、自殺は自分から苦しみに行くようなものだ」
天地を指していた手を、今度は己の首にかける。目を覗き込んでくるその瞳の美しさが、彼の下品な笑みとあまりにも不釣り合いで滑稽さが滲んだ。
「普通はさ、生きていればそれなりに楽しいことがあるものでしょ? それを捨てるには大きいリスクだよね」
「それ、議論する意味がありますか?」
「ないよ」
青磁の問いに、銀鼠はあっさりと即答した。青磁が話に付き合わないと判断したのか、それ以上続けようとはしなかった。
「僕のパートナーになったんでしょ、君」
青磁は無表情で頭を下げた。
「来月からお世話になります、青磁です。よろしくお願いします、銀鼠先輩」
「せいじくんね……せーちゃんかな。よろしくね」
「はい」
銀鼠は初対面の青磁をさっそく「せーちゃん」と気安く呼んだ。本当はそんな呼び方されたくはなかったが、ぐっと堪えた。先輩に口答えをするわけにはいかない。
(――合わなそうだ)
青磁はぼんやりと確信しながらも、それを口にすることはなかった。代わりに、
「勤務中にお邪魔してすみませんでした」
「あぁいや、邪魔じゃないよ」
銀鼠がここにいると教えてくれた女性の言った通り、銀鼠は青磁を邪険にはしなかった。けれどなんだろう。なぜ優しい人だとは思えないのだろう。
そんなことは簡単だ。
銀鼠は優しい人ではない。
「んじゃ、僕らも下に戻ろっか」
「はい――て、ええ?」
銀鼠は柵を乗り越え、ビルの淵に立った。
「一緒に降りる?」
「そこから落ちるつもりですか……?」
半信半疑で問うと、彼は事も無げに頷きにっこりと笑った。
無意識に近い反射で首を横に振る青磁を、「そう?」とだけ言い残しさっさと落ちて行った。女性を落としたときと同じように、何の躊躇もなく。
命綱などつけてないではないかと、焦って下を見る。その瞬間、柵を掴んでいる青磁の手のすぐ横にロープが巻き付いた。重みにギシギシと柵が唸る。
多少の伸縮性があるようで、特に衝撃もなく、無事下に着いた。彼女を助けたロープもこれと同じなのだろう。どこから出したのだろうと目を凝らしてみると、彼の腕にロープが繋がっているだけでよくわからなかった。最初から仕込んでいたのだろうか。
もう。意味がわからない。
衝撃的なことが起こりすぎて、理解が追いつかない。
しばらく呆然としていたが、ずっとここにいても仕方がない。青磁は深く呼吸をしてから、大人しく上ってきた階段を降りた。
下まで降りていくと、銀鼠が笑顔で手を振ってきた。反応する元気もない。
「おかえり」
「なんでわざわざ落ちたんですか……階段を使えば」
「逃げられても困るし。面倒じゃん」
銀鼠もおそらく、青磁の疑問がわからないのだろう。首を傾げて、さっさとカナリヤの腕を掴む。落とされたショックが抜けない彼女はびくりと体を震わせた。立てないようだ。
「こいつはとりあえず本部に連れて行かなきゃいけない」
心底面倒くさそうにため息を吐いた。
彼のあからさまな態度に内心嫌悪する。仕事に誇りを持っていないのか。
「せーちゃん、明日暇?」
「は?」
青磁の心境など察しもしない銀鼠の問いかけに、青磁は声を荒げた。それでも彼は人の怒りに反応をしない。
「改めて話をしようよ。今日は僕、これ済まさないといけないから構ってあげられなくて」
「大丈夫です。わざわざありがとうございます」
「はは、今更そう畏まらなくてもいいよ。さっきは僕を殴ったじゃない」
はっとした。そうだった。慌てて頭を下げる。
いくら腹の立つ先輩相手であろうと、暴力が許されるわけではない。
「申し訳ございません!」
「? どうして謝るの?」
銀鼠はきょとんとしている。
「謝らなくていいよ。せーちゃんは僕の行動に納得できなかったから殴った。ただそれだけのことだ」
あっさり言いのけて軽やかに笑った。嫌味を含まない声色ではあるが、本当はどう思っているのか、青磁には判然としない。
新人に殴られて、ただそれだけと笑っていられるものだろうか。
腹の底では何を考えているのだろう。
「明日の夕方くらいにでも本部の訓練場においでよ。親睦を深めよう」
どうしたって青磁と話がしたいようだ。
どうしようもなく嫌だったが仕方がない。殴ってしまった負い目もある。
「わかりました」
頷くしかなかった。




