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 どんなに気が重く感じても、夜は必ず来るものだ。

 夕食を終えて自室に下がった和真は、天頂を目指して上りゆく夜空の満月を苦い思いで見つめていた。そろそろ香山家へ向かわなければ、未成年の外出にはふさわしくない時間帯に差し掛かる。億劫に感じる気持ちを抑えつけて、ようやく和真は腰を上げた。

 家を出て、虫の声を聞きながら歩む夜道が、これほど憂鬱に感じられたことはない。深青のもとに行かずに済むのなら、いっそそうしたいくらいだったが、連絡も理由もなく役割を投げ出すほど無責任なつもりはなかった。

 昨日までは嵐の中でも駆け出して行きたいくらいだったのに、一晩で様変わりしたものだ。それほどまでに、自分と深青との間にあるものは、もろく、曖昧だったと思い知る。

 もう何度めになるか分からないほど思い返した今朝のやり取りを再び想起する。狼狽して薔薇色に染まった深青の頬、文也の軽薄な態度、そして燃えるような羞恥と嫉妬。消化しきれないわだかまりを抱えたまま、深青のもとへ赴かなければならない己は、まるで鎖につながれた罪人のようだと思った。言いわたされる罰は、一体どんなものだろう。

 今夜もまた裏口からひと目を忍んで入り込む。通い慣れた道を満月の光が照らしていた。庭を抜けた薄暗がりの向こうに、戸を開いて和真を待つ深青がいた。

 彼女が待っているのは本当に自分なのだろうか……。

 どんな顔で彼女の前に立てばいいのかと、弱音を吐く心をねじ伏せ、平然とした風を装って、室内から漏れる光の中に入っていった。

 六畳一間の深青の部屋は嵐の前となにも変わらなかった。ぴたりと閉じられた障子、二つ並べられた座布団、明かりの下に深青が座る……すべてがいつもどおりだ。それなのに、他の男と口付けしたときもこうだったのだろうかと、いちいち考えてしまう自分がいる。

 今夜の深青は萌黄色の着物を着ている。和真以外の男と相対したとき、その着物は、少しでも乱れたのだろうか。ちりりと焦げ付くような痛みを胸が訴えた。


「和真、座らないのか?」

「あ、ああ……」


 腰を下ろせば深青との距離はぐっと近づく。それを無意識に恐れている。しかし、今さら避けて通ることなどできない。和真は、ほんの数秒のうちに覚悟を決めて、座布団に腰を据え、深青と正面から向き合った。

 触れ合いそうな間合いが二人の緊張を高める。深青は常と同様に羞じらい、視線をはずす。常と同様ならば和真は、深青の唇の自然な赤さにたまらない渇望を覚えるはずだった。だが今日に限っては、その赤から視線をそむけてしまいたい心持ちになる。

 深青の頬に添える手さえ震えそうになった。彼女は和真の変化に気がつく素振りもなく、まぶたを閉じる。身体に染み付いた習慣が、和真の心を置き去りにしたまま、彼女の顔を引き寄せる。あと十センチ、深青の吐息に触れた。五センチ、互いの前髪が重なる。三センチ、彼女のまつげが震える…………。

 唇の同士が触れ合う瞬間を目前にして、和真は深青の身体を己から引き剥がした。


「――っ、和真……?」


 はっと我に返れば、眼前には、わけがわからず目を丸くする深青がいる。心の中には、ひたすら駄目だと叫ぶもう一人の自分がいる。心と身体があまりにもちぐはぐな自分を悟って、和真は頭を抱えた。こんな心境のままで、どうして恋い慕う女の子に口付けなどできると思ったのだろうか。心の伴わぬ行為は、こんなにも虚しくて、苦い。


「深青は、こういうことを、他の男とできるのか……?」


 隠しきれない懊悩がとうとう和真の口から溢れ出た。投げ出された疑惑が波紋となって、二人の間に数秒の沈黙を生む。しばしののちに、困惑をあらわにした深青が、その沈黙を破った。


「…………なにを、言っているんだ……? そんなことをするはずが……」


 ないだろう? とは言わせなかった。


「二晩もあいてしまったのに、お前はこうしてぴんぴんしている。他の男とキスをしたんだろう?」


 深青の表情が硬直した。忙しなく動く瞳が動揺を如実に表していて、言うべき言葉を探すように彼女の唇がわなないた。


「そ、れは……違う……その、そんなことはしていない……。ただ、その……なぜか、平気になっていて……毎日じゃなくても……大丈夫に――」


 その奥歯にものが挟まったようなもの言いに、耳をふさいでしまいたい衝動に駆られる。誤魔化すならもっと上手に誤魔化せばいいものを。彼女の口から直接否定の言葉を聞いても、これほど信じられないなんてことがあるだろうか。

 深青の口ぶりはなにかを隠している。でなければ、普段率直にものを言う彼女が、このような迂遠な言いかたをするはずがない。

 和真は力なくかぶりを振った。


「そんな下手な言い訳は、いい」

「言い訳なんかじゃ――」

「深青、ごめん。今の深青にキスはできない。ごめん、無理だ」


 和真は身をひるがえした。障子を開いて、部屋を出ていこうとする。背後で深青も立ち上がった気配がする。けれど、和真は今すぐにここを立ち去るべきだと思った。今の和真は冷静さを欠いていて、とても話を聞いていられる状態ではなかったのだ。


「和真、聞いてくれ! 本当に私は――!」


 追いかけてくる深青の必死な声に、心の中でひたすら謝罪を繰り返した。それでも、足は止められない。

 帰宅の途を、満月がもの悲しく照らしていた。


***


 翌日の朝、細切れの睡眠を繰り返して明け方ようやく深い眠りにつけた和真をたたき起こしたのは、けたたましく連打される呼び鈴の音だった。続いてパタパタと廊下をスリッパで歩く音が聞こえて、すでに起床している母が応対に出たらしいとベッドの中から察する。

 時計を見てみれば、時刻は目覚ましの鳴る一分前だ。他人の家を訪問するには非常識と言われてもしかたのない時間帯である。

 布団にしがみつくのを早々に諦めた和真が目覚ましを切って着替えを始めていると、パタパタというスリッパの音が再び聞こえ、今度は和真の部屋の前にやってきた。


「和真? 起きてる?」

「起きてるよ。俺に客?」

「そうみたい。学校の後輩ですって。深青ちゃんのところに住み込みの――」


 文也だ。彼がこんな朝から和真に一体なんの用があるというのだろうか。怪訝に思いながらも、扉越しの母に向かって頷く。


「分かった。着替えたらすぐ行く」



 制服を身に着けて顔を洗い、最低限人前に出られる身だしなみを整えると、和真は玄関の扉を開けた。


「遅いですよ」


 朝の挨拶もすっとばして不満を述べる制服姿の後輩が、だらしなく塀にもたれて立っていた。文也は塀に預けていた背中を起こすと、扉を開けたまま押さえている和真の全身をじろじろ見回した。


「おはよう、文也。こんな朝にどうし……」

「かばんはどうしたんですか?」

「は?」

「通学かばんですよ。今から出るのに、手ぶらでどうするんです」


 飄々として他人を気遣わない文也が相手の都合を無視した発言をするのは今に始まったことではない。しかしこれほどまでに説明を割愛されると、長年の付き合いで慣れているとはいえ、和真もあっけにとられるしかなった。

 いつまでも反応を返さない和真にしびれを切らした文也は、「ほらさっさと取りに行ってください」と、和真の背中をぐいぐい押しはじめる。さすがの和真も「ちょっと待てよ!」と声を上げた。


「こんな朝からなんなんだ? まだ六時だぞ。通学の迎えに来るにしても早すぎるだろう」

「むしろぎりぎり起きてそうな時間まで待ったことに感謝してほしいくらいです。こっちは深夜からじりじり待機してたんですから」

「……深夜?」


 そんな夜更けに一体なにが起こるというのか。和真の表情を読み取った文也が、らしくない真剣な目で和真を射抜く。


「お嬢様が、倒れました」

「――っ」


 告げられた内容に衝撃を受けて、瞬間的に息が詰まった。


「どうして……」


 和真の脳裏にはいくつもの疑念が湧く。深青が倒れたのは力が不足したせいか。深青は他の男に力の補給を頼ったのではなかったのか。昨日、平気になったと言っていたのはどういうことだったのか。いやそんな――ささいな疑惑よりなによりも。幼い日、苦しげに床に伏していた深青のか弱い姿が鮮明によみがえる。あのときの苦しみをまた深青は味わっているのか。


「どうしてって聞きたいのはこっちですよ」


 和真の動揺に文也の台詞が割り込んだ。


「台風で二日あいたとはいえ、昨晩は和真先輩、お嬢様のところに来ていたはずですよね? なのに、どうしてその直後にお嬢様が倒れるんですか?」


 その問いは、和真の胸を鋭く刺した。深青のそばにいながら、昨日の和真は口付けを拒んだ、身勝手な理由で。己が招いた事態かもしれないと思うと、自分を殴りたくなった。だが今はそんなことをしている場合ではない。


「…………深青のところに、行かせてくれ…………」


 絞り出すように言うと、文也は小さく息をついて頷く。


「はなからそのつもりですよ」



 香山の屋敷へと坂道を二人で駆けながら、文也が深青の状況について説明をくれる。

 昨晩急に不調を訴えた深青は、そのまま床に倒れ伏し、異様に高い熱だけが続いているらしい。解熱剤は効かず、他の症状もない。五年前と全く同じだった。ならば、口付けで回復するのはほぼ間違いない。


「だったら、どうして…………俺なんか待たずに、文也か誰かがキスすればよかったんじゃないのか」


 足は止めないままにも、訊ねずにはいられなかった。和真としては、知らぬ間に深青の唇を奪われなかったことに安堵する気持ちが確かにある。だが、深青がそれだけつらい思いをしているなら、口付けの相手になんてこだわらず助けてやってほしいという思いもある。嵐の夜に口付けをした相手がいるのなら、そういった対応をすることに、和真以外に異を唱える者はいないだろう。

 だが、文也は信じられないとでも言わんばかりに頓狂な声を上げた。


「はあぁ――――? それ、本気で言ってるんですか? そんなことしたら、あとでお嬢様にどんな目に遭わされるか……。というか、和真先輩的に、それってナシですよね? まさか別にいいとか言ったりしませんよね?」


 疾走しながら器用に責め立てられて、和真は怯む。走りながらであるのに道の端に追い詰められてしまっては、答えないわけにもいかない。


「そりゃ、俺としては…………嫌だ。でも、台風のときは、どっちみち誰かがキスしたんだろ。だったら、深青にとっては大したことないってことじゃ……」

「ちょっと待ってください」


 言い終わらぬうちに遮られて、和真は鼻白む。


「なんだよ」


 唐突に立ち止まった文也の少し先で、和真も足を止める。文也に向き直ると、普段軽薄に緩んでいる彼の口元から笑みが消えていた。


「お嬢様が、誰とキスしたって言ったんです?」

「いや、俺は知らない。けど、深青が二日もったってことは、俺以外の誰かとしたってことだろ?」


 どうしてか文也は大げさに頭を抱えてうめいた。


「なにがどうなると、そんな発想になるんですか…………。お嬢様が誰ともキスしないで持ち堪えたって考えはないんですか?」

「昔は一晩も欠かせなかったっていうのに、それを信じるほうが難しいだろ」

「いやいやいやいや、待ってください。香山家のお医者様だって、今なら数日くらいは平気になっているかもしれないって診断されてましたよね、二年くらい前に。和真先輩だって聞いたでしょう?」

「…………」


 二人の間にしばしの沈黙が流れた。


「え……?」

「聞いてない。なんだその話は」

「えぇっ!」


 驚愕をあらわにする文也に今度は和真が詰め寄った。互いの間の距離を素早く縮めてその両肩をがしりとつかむ。自分の知らないその話にどうにも看過できないものを感じて、当惑する文也に目線で吐けと迫った。

 対する文也は、和真が知らないという事実がよほど想定外であったのか、眉間にしわを寄せてなにやらぶつぶつと呟いている。


「――てことはお嬢様があえて和真先輩に黙ってたってことか……? だったら和真先輩が今まで一晩も欠かさなかったのも……」

「途切れ途切れじゃなくて、最初からちゃんと説明しろ!」


 肩を揺さぶると、文也はようやく和真の視線を受け止めた。


「分かりましたよ……」


 あまり気が進まないような返事をしてから、彼は過去を振り返るように斜め上に視線を投げた。



「和真先輩もこれは知ってると思いますけど、お嬢様はここ二、三年微熱すら出していません。それについて二年前くらいに、お医者様の定期診察で相談しているんですよ。といっても、困った症状というわけではないので、相談というよりは、見解を聞いたってほうが正しいですけど。そしたら、『深青さんと和真くんが互いに抱く感情に変化が起きて、それが口付けの効果にプラスの影響を及ぼしたのかもしれない』ってことで……」

「…………? 感情の変化? っていうのは?」

「…………それを説明させるんですね……。だからつまり……お嬢様が和真先輩に恋心を抱いているとか、和真先輩も実はまんざらでもなく思ってるとかですよ……そういう、より深い情が、お嬢様の力の源になるってことなんだそうです」


 だから、台風の夜も僕らはあまり心配していなかったし、実際二日くらい平気だったんですよ、と続けられた言葉は、だがしかし、和真の意識をすり抜けていった。


「な……」


 と、漏らした音に続けたかったのは、なぜそれを、という疑問だった。しかしその言葉は、口を無意味に開閉するだけで、声にはならなかった。代わりに、身体中の血液が頭に集中したのではないかというほどに、顔が熱くなる。秘めていたつもりの想いをさも当然のごとく指摘され、和真の頭は真っ白になっていた。


「………………‥………気がついてたのか……?」

「気がつかれていないつもりだったんですか?」


 ようやく発した台詞を、年下であるはずの文也にざっくり切り返される。恥ずかしさでのたうち回れそうな気がした。


「……まあ、和真先輩にこの話が行ってなかったってことなら、お嬢様は気がついてないんでしょうね? よかったですね?」


 おそらく他の人はみんな気が付いてますけど、と実に文也らしいフォローは、果たして慰めるつもりがあるのかないのか。

 傍目おかめ八目とはよく言ったものである。当人同士だけが気がつかずにあれこれ憂慮を巡らせて、大事なことには気がつけない。そのくせ周囲には筒抜けだなんて、当事者としては笑えない。

 和真は強烈な羞恥を誤魔化すようにわざとらしい咳払いを一つする。


「とりあえず、分かった。深青は誰ともキスしてないんだな」

「だから、そう言ってるじゃないですか」


 文也が苦笑するのを苦々しく感じつつも、その事実があれば、もうそれでいいと自分を無理やりに納得させた。


***


 香山家に着くと、応対に出た使用人が和真の顔を見るなり、「さあ奥へ」と深青の部屋へ通してくれた。その慌ただしい対応に、どれだけ自分の到着が心待ちにされていたのかを知る。

 深青の部屋には、深青の母である美里と医者が詰めていた。和真を部屋まで通した使用人が障子を開いて「和真さんがお着きです」と告げると、深青の傍らに座していた二人は待ちかねたように振り向いた。しかし、和真の視線は二人を素通りしてその向こうの深青に注がれる。彼女は、苦しげな呼吸を繰り返しながら、ぼんやりした視線を和真に向けた。


「かずま……?」


 名を呼ばれた和真は、挨拶も忘れて、そのそばに駆け寄った。


「二人にしてくれますか」


 礼儀を欠いたもの言いにも関わらず、美里と医者は心得たように立ち上がって、なにも言わずに部屋を辞していった。


「和真、なんで……」

「黙って」


 言葉を募ろうとする深青が口を閉ざすなり、和真は唇を重ね合わせた。雰囲気もなにもない、唇を合わせるだけの行為。けれども和真は、自分の力を彼女に分け与えるようなつもりで、何度も角度を変え、しつこいくらいに触れ合わせるだけの口付けを繰り返した。

 唇を合わせているだけで、至近距離で感じとる深青の呼吸が、徐々に、けれど確実に、安らかなものに変わっていく。自分だけができる、彼女を生かすための行為。その甘美な響きに喜びを覚えて、ひたすら口付けに没頭した。

 力なく横たわるだけだった深青の身体が少しずつ活力を取り戻していく。それと比例して穏やかな安堵が和真の胸中に広がる。一方で、行為が本来意図するところである甘い恋情も、また同時に湧き上がってきた。

 彼女と口付けを交わすことができるのは、自分だけだという事実に無上の喜びを感じた。和真が深青を特別だと思うように、深青にとっても和真が唯一だという事実は、なんと幸せなことだろうか。

 身のうちから溢れ出そうな愛情に急かされて、まだ熱を帯びている深青の唇を、そろりと舌で撫でた。ふっと息を乱して、身体を震わせる深青がたまらなく愛おしい。覆いかぶさるようにしてその身体を抱きしめると、深青の生命を主張するかのような熱が直に伝わってきて、和真を高ぶらせた。

 深青が熱い息を吐いた隙間に舌を滑り込ませる。


「……ぁ、かずま、待て……それは」


 深青が身をよじってわずかな抵抗を見せる。朝だからか、それとも、家族たちを心配させておいてこんな行為に浸ることに罪悪感があるからか。どちらにしても、和真はもう止まれなかった。


「ごめん、無理、待てない」

「ん……おまえ…………」


 舌で、唇で、深青を感じ、責め立てる。無駄な会話などできぬくらいにぴたりと唇を合わせて、舌を絡めた。深青の弱いところを探っては、柔らかくなぞる。彼女がどんな口付けを好むかは、この五年の間に知り尽くしている。和真の巧みな動きに陥落した深青の身体は、抵抗する力を失って、ただ与えられる刺激のままにぴくりぴくりと反応を返す。

 嚥下しきれなかった唾液が彼女の口元からこぼれるのを舐めとって、ようやく和真は深青の唇を解放した。和真の身体の下に組み敷かれた深青は、上気した顔を恥じるようにそらした。


「どうして……お前。昨日は、無理だと言ったくせに……」


 官能的な口付けのあとの一言めは、いじけた可愛い恨み言にしか聞こえなかった。もちろん、彼女がその実、本気で和真の真意を計りかねているのはよく分かっている。しかしそれなら、和真としても言いたいことはあった。


「深青こそ、なんで俺に黙ってたんだ。数日あいても平気かもしれないと医者に言われていたこと」


 深青はぐっと口元を強張らせて、「文也だな……」と小さくうなった。


「言えるわけないだろう。情が深くなったから、少し間があいても大丈夫になったなんて言ったら…………私の気持ちが、あからさまに和真に知れてしまうじゃないか…………」


 後半はささやくように、照れを含む声で告げられた内容は、本人は意図していないにしても、凶悪な可愛さだった。すでに文也から聞かされていたとはいえ、本人からほのめかされるのは、やはり違う。


「分からないよ」


 深青の首筋に顔を埋め、頬ずりをしながら、柔らかな髪を撫でた。


「俺も深青と同じ気持ちだから。俺の情が深くなったからなんだなって、納得したと思う。深青の気持ちなんて、分からない」


 深青の身体が、腕の中で強く張りつめた。


「な、んだ……それは…………」


 深青の顔にすり寄せていた和真の頬に、深青の手がかかって、視線が絡むように持ち上げられた。


「てっきり、お前は、義務感や同情から、私のもとに通ってきてくれているものとばかり……!」

「ああ……」

「言えるわけないだろう……必要だからキスするだけの相手に、好意など向けられたって…………困らせるだけだ……」

「…………そうだな……」


 深青の言い分は、和真だからこそ、分かる。口付けをする側と、してもらう側。正反対の立場からでも、大差はない。必要だから仕方なく口付けをしてもらうだけの相手に好意を寄せられたところで、困るか、気持ち悪く思うかしかないだろう。和真はそう思っていた。特に、深青は、色恋ごとに全く関心を示さなかったから、余計に。


「ごめんな……」


 慈しむように、頬を撫でると、深青はぐっと唇を引き結ぶ。


「それは、なんの謝罪だ」

「いや、それは……いろいろ。でも、一番は、勝手に勘違いして、深青に苦しい思いをさせたこと、だな」


 深青の前髪を払って、その額に触れると、すでに熱はだいぶん落ち着いたらしく、口付けたときほどの熱はもう残っていなかった。


「そんな謝罪は、いい。私も、医者の話を黙っていて、悪かった。和真のことを責められない」

「でも……深青はこうして、つらい思いをしたわけだから。昨日の俺がもう少し冷静だったら、こんなことにはならなかった……」


 過ぎたことを悔いても仕方がないとはいえ、昨晩の自分の行いが深青を苦しめる結果に結びついたことを思えば、和真はそう簡単に己を許せる気がしなかった。その身をもって実害をこうむることになった深青には、どれほど謝罪をしても足りない。

 和真がふがいなさを噛みしめていると、深青の温かな手が伸びてきて彼の手を優しく包み込んだ。そして、深青はふわりと笑う。


「なら、おわびに一つ約束してほしい」

「約束?」


 深青は重々しく頷く。


「これからも毎晩、私のところへ来ること」

「そんなの――」


 今までと同じではないか。という言葉は、唇に触れた深青の人差し指に封じられた。


「今までとは違う。和真はもう、毎晩来なくとも、私が倒れることなどないと知っている……それでも、私は、和真と毎晩会いたい。だから、ちゃんとした約束がほしいんだ」

「深青……」


 だめか? と、上目遣いで小首を傾げられれば、その可愛らしさに、どんな我儘でも聞いてやりたくなる。もとより、拒否するつもりなど毛頭ないのに。深青は期待のこもった目でじっと和真の答えを待っている。

 恋しく想う少女に、毎晩会いたいなどと請われて、了承を与えるという行為は、なんと贅沢で傲慢な行いであろうか。好きなればこそ、請われずとも会いにいくし、己の了承など取り付ける必要もない。それでも、彼女が望むのなら、そのとおりにしてみせよう。そうやって、彼女との間に確かなものを一つでも多く積み重ねていきたい。心の底から願った。

 和真は、深青の両頬に手を当てて、その瞳を間近で見つめた。


「いいよ」


 ただ一言、承諾の意を告げる。そうして彼は、その約束の証とするかのように、羽根のような優しい口付けをほんの一つ、愛しい彼女に捧げた。


 この瞬間から、二人の夜の逢瀬は、曖昧な習慣などではなく、確かな約束となったのである。



もう1話でエピローグでも……と思っていたのですが、ここまでで話としては収まるところに収まったかなと思うので、これにて完結としたいと思います。

ここまでお読みくださってありがとうございます。

……個人的な好みですが、「黙って」という台詞からのキスが、とても萌えます(笑)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 通りすがりの者なのですがめちゃくちゃ萌えました…!!!お互いの為に一歩下がって遠慮しつつも想いが強くて離れがたい二人が良かったです! [気になる点] あったかもしれないエピローグなるもの…
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