破
湿気を帯びた空気が若干の息苦しさを感じさせる朝、中学の制服をまとった和真は、参考書やら部活の用具やらで膨れた通学バッグを肩にかけ、いつものように深青の家へ向かった。
中学にもなって家まで迎えにというのも過保護な気がするが、もともと香山家は、和真の通学経路から寄りやすい場所に位置しているし、朝になって深青の体調が急変していた場合、和真が赴くのが手っ取り早いということでそうしている。とはいえ、深青が高熱に倒れたのは十歳のあのとき以来一度もないので、もはや惰性のような習慣だ。
学校へ続く下りの坂道から途中でそれて、北の山へ少し登っていくと、広大な敷地を持つ香山の表門が見えてくる。里でも最大の規模と歴史を持つ旧家に相応しくその門構えはたいそう立派だ。ちょうど和真たちの通学時間帯は、使用人が門前を掃き清める時間に重なっているらしい。今朝もほうきを片手に表に出ている女性とはずいぶん前から顔見知りだ。
「おはようございます」
「あら、和真さん。おはようございます。今朝も早いですね」
互いの顔を確認できるほどの距離に来た和真が挨拶を投げかけると、顔を上げた女性もにこやかに返してくれる。
「お嬢様は先ほど朝食を終えられておりましたので、もうすぐ出ていらっしゃると思いますよ」
その言葉に違わず、いくぶんもしないうちに門が内側から開き、深青が姿を現した。
「おはよう、和真」
「おはよう」
朝から寝ぼけた様子もなく凛と開かれた瞳が彼女の調子の良さをうかがわせる。その瞳が空へ向けられた。
「今朝は雲行きが怪しいな。傘は持ってきたか? 夕方を過ぎると降るらしい」
おそらく玄関を出るときに使用人に持たされたのだろう傘を深青は持ちあげて見せる。
「ああ、持ってきたよ。天気予報見たけど、台風が近づいているからな。明日までかなり降るって」
「……ふむ、確かに。そういう気配はある。今日はあまり夜遅くならないのが賢明そうだな」
顎に指を載せた深青の呟きに、和真はふんふんと頷く。
異能を第六感とも言うべきほど自然に行使できる深青は、勘が異常に鋭い。彼女がそういうのなら、今晩は猛烈に降るのであろう。天気などいったいどのようにして読むのか、そういった方面に特性のない術者である和真には見当もつかない。
「ところで文也は? 一緒じゃないのか?」
香山家に住み込みの使用人の息子である文也は和真たちより一つ歳下であり、同じ中学に通う。普段ならば深青にくっついて一緒に登校するのだが、今朝は姿が見えない。
「ああ、文也なら今朝は、立て付けの悪くなってる雨戸の修理に駆り出されてる。うちは男手が少ないから、こういうときは文也が手伝わされるんだ」
「雨が降り出す前に、か。じゃあ、先行くか」
使用人の女性にいってきますと声をかけてから、深青と並んで坂を下っていく。
歩みを進める間は、特に話すこともなく無言となる。和真も深青もどちらかと言えば言葉少なな性質のため、とりたてて伝えるべきこともなければ積極的に口を開かない。けれども、どうしてか今朝はやけにその沈黙が気にかかる。その理由を考えてみれば、すぐさまああそうかと思い至った。文也がいないのだ。彼は多弁な性格であるから、気づかぬうちにずいぶんと朝の空気を明るくしてくれていたらしい。調子の良い発言で邪険にされがちな彼も、わかりにくいところで役に立っているものだ。
とすれば、彼のいない今朝は和真からなにか話を振るべきなのだろうか。隣に並ぶ深青はこの沈黙をどのように感じているのだろうか。横目でちらりと様子をうかがえば、彼女は自身の髪をつまみ上げてなにやら唇をとがらせている。湿気を含んだ髪がどうにも気になるらしい。会話の有無になど頓着することもなく、彼女が二人の時間を自然体で過ごせていることに和真はひどく安心した。それと同時に、唇を尖らせるというあまり見られない深青の表情に、和真の胸は高なる。
和真はここ二、三年で深青を可愛らしいと感じることが増えた。昔から容姿は綺麗に整っていて、幼いころには強烈な愛らしさのあった幼馴染だが、最近和真の胸を騒がせているのは彼女のちょっとした仕草だ。旧家の跡取り娘として叩き込まれている洗練された美しい所作は言うに及ばず。それでいて、時折見せる年相応の無邪気な振る舞いは、長い付き合いの中で深青の大人びた部分をよく理解している和真だからこそ胸をつかまれる。おそらく自分は彼女に対して異性としての好意を抱いているのだろう、というのは早々に自覚できていた。
「そういえば」
つまんだ髪を手放した深青がふとこちらに顔を向ける。
「今日は放課後に生徒会の仕事があるから少し遅くなりそうなんだ」
「そうなのか。雨、強くなるんだろ? 大丈夫か?」
「心配をするなら私よりも和真のほうだろう。私が帰宅してからうちに来てもらうのでは和真の帰りが遅くなる」
「んー、まあ。それは仕方ないだろ。深青が倒れるくらいなら、俺が大雨の中帰宅するほうがマシ」
「いや、それは……」
めずらしく言葉に詰まってはっきりものを言わない深青に首を傾げていると、彼女は気を取り直したように口を開く。
「わざわざ無理をすることもないんじゃないか? 和真は生真面目に毎晩来てくれるが、あれ以来私が倒れたことはないし、一日くらい欠かしても問題ないかもしれない」
自分を案じての提案だと分かるのだが、残念ながらそれには賛成できそうもない。
「大丈夫かもしれないけど、大丈夫じゃないかもしれない。深青の身体の問題だから、不確実なものを試すのは気が進まない」
「和真……」
「ちゃんと行くから。大人しく待ってろ」
言い聞かせるようにじっと瞳を見つめると、困ったように視線をそらされた。深青がわかったと言わないのは納得していない証拠だ。それでも、こればっかりは譲るつもりがなかった。
熱に浮かされて苦しむ深青の姿は今でもしかと覚えている。原因不明と聞いて、このまま治らないのではないかと不安にかられたことも。深青を再びあのような目に遭わせずに済むのなら、和真はどんな苦労もいとうつもりはなかった。
そして、それとは別に小さな下心もないわけではない。色っぽい意味合いは皆無であっても、好意を抱く異性に堂々と触れられる機会というのは、それだけで思春期の男子には甘すぎる蜜なのである。とりわけ深青は、潔癖に育てられたがゆえに、恋愛などと浮ついたことには全く関心がない。想いを伝えれば玉砕が確定している相手だからこそ、大義名分を持って触れられる機会を逃したくはなかった。
微妙な緊張をはらんだ空気のまま沈黙が続き、いつの間にか道は下りの勾配を緩やかに変えて平坦なものとなっていた。こうなると学校まではいくばくもない。相変わらず真横に並ぶ深青の口から小さなため息が聞こえた気がした。
「…………もし来るんだったら、十分気をつけてくれ」
仮定形であるのがささやかな抵抗だろうか。それでも、深青なりの精一杯の譲歩を勝ちとって和真は思わず満面の笑みを浮かべた。
「ああ。さんきゅ」
小さな頭を撫でようとした手は、ぷいと彼女がそっぽを向いてしまったため、大人しく下ろしておくことにした。
ほどなくして学校に到着する。二人はクラスが違うため、上履きに替えて三年生の教室が並ぶ階に来ればそこでお別れだ。
「深青、生徒会が終わったら連絡しろよ」
それぞれの教室に入る前に念を押すと、深青は眉を寄せつつもしぶしぶうなずいた。
「連絡せずにいて遅くに押しかけられてはたまらないからな。終わったらすぐに連絡する。安心しろ」
つんと顎をあげて隣の教室に消えていく深青の横顔に思わず頬がゆるんだ。
***
昼過ぎには雨が降り出した。列島の南に発生した台風から吹き込む湿った空気の影響で、前線がかなり発達するとの今朝の天気予報は当たっていたようだ。本降りになった雨は止む気配もなく長々と降り続いていた。
豪雨が懸念されるため、本日の部活は休みにすると連絡を受けたのは、午後一つ目の授業が終わった直後の休憩時間だった。和真の所属は剣道部であるため、活動自体は屋内であり、天気の影響はない。しかし、夜中にかけて非常に激しく降るとの予報を受けて、生徒を早めに帰宅させることにしたらしい。夜の外出については深青もかなり難色を示していたことを思い出して、和真はあまり良くない予感を覚えた。
深青の勘は、未来を具体的に予見するものでは決してない。しかし、曖昧な感覚や気配としてはかなり正確な部分をつく。彼女があそこまで良からぬものを感じ取っていたならば、それ相応の嵐が起こりうる。今さらになって思い至った和真は、窓の向こうの雨をつぶさに見つめた。雨の勢いは確実に強まっている。風も出てきた。帰宅時間、そして夜にはどうなっているだろうか。無事に深青のもとにたどり着けないかもしれない。一抹の不安が和真の胸をよぎった。
「――連絡事項は以上です。今日は天気が荒れることが予想されてますので、用事のない者はすみやかに帰宅して、不要不急の外出はしないように」
担任教師がホームルームの終わりを告げると、生徒たちがばたばたと帰りじたくを始める。和真も荷物をまとめて立ち上がった。
「一条、帰ろうぜ」
名字を呼ばれて顔を上げれば、和真と同様、剣道部に所属するクラスメートの瀬名だった。彼とは自宅の方向が同じため、部活のあと家路をともにすることが多い。
「ああ」
うなずいてバッグを肩にかけると、連れ立って昇降口に向かった。
「もしかして傘忘れてないよな?」
傘立てに並んだいくつもの傘から自分のものを探しつつ、和真は日頃忘れものの常習犯たる瀬名に一応の確認をとる。この天気で相合い傘などは無謀の極みであるので、忘れていたとしてもどうにもできない。だから単なる確認である。
「さすがにちゃんと持ってきてる。今日忘れたら悲惨だからな」
瀬名は立ち並ぶ傘のうちの一本に手をのばして引き抜いた。細身のビニール傘はいかにも安っぽく、過去、突然の雨にその場しのぎで購入したものをそのまま使い続けているように思われた。いかにも不精な彼らしいが、傘があるのなら和真としてはなんの文句もない。
「お前がそこまで阿呆じゃなくてホッとした」
おどけて言えば、瀬名も笑って応じる。
「俺は忘れ物が多いだけで阿呆じゃない。つか、成績はどちらかというといいぞ!」
どちらかといえば、とわざわざつけ加えてしまうあたりが、馬鹿正直な彼の美点である。
校舎を一歩出てみれば、猛烈な雨が傘を叩いた。おまけに風のうなり声まで加わって、横に並ぶ瀬名の話も耳をそばだてなければ聞き取れないほどだった。傘を風のふく方向に向けながら、想像以上の荒れ具合に二人は顔をしかめた。
「やばいな! これ!」
「ああ! 傘があってもかなり濡れそうだ!」
風雨に負けぬよう強い語調で会話するも、談笑できるような状況では全くない。二人は会話を早々に諦め、もくもくと家路を進むことに集中しはじめる。ひたすら早く温かい場所に着きたいと、ただその一念だ。
学校からいくらもしないうちに、靴の中が浸水して、歩くたび音を鳴らすようになった。しばらくすると今度はスラックスが水を含んで、肌に張り付くようになる。そうしてだんだんと、全身が下から濡れている範囲を広げてゆき、平坦な道が登り坂になって深青の家へと続く道の分岐にさしかかった頃には、肩のあたりまでがびしょ濡れだった。
不幸にして二人の家は学校からかなり離れたところに位置している。しかし、ここまでくれば和真の家はあとひと息というところであった。
そんな折のことである、とてつもない強風が二人の間を駆け抜けて、瀬名の傘をさらっていったのは。振り返ったときには、華奢なビニール傘などはるか遠くに吹き飛ばされていた。唖然としつつも状況を把握すると、和真は飛びつくように瀬名に自分の傘をさしかけた。持ち手を押し付けるように瀬名に握らせると、思わず受けとってしまってから彼は目を丸くして和真を見た。
「おま! 濡れ――」
「大丈夫だから! お前のほうがこっから遠いだろ! 俺は走って帰ればすぐだから!」
「でも――」
遠慮されることはわかっていたから、聞く耳も持たずに和真は駆け出した。叫んでいるであろう瀬名の声も、たちまち風雨の向こうにかき消えていった。あとはただひたすら身体に雨が打ちつける。
たちまちスラックスどころか、肩どころか、全身から水が滴りはじめた。下着にまで水が染み込んで、疾走する身体から熱を奪っていく。まだ九月だというのに、雨の滴は季節を先取りするかのような冷たさだった。
自宅まで続く坂道を一気に駆け上がって、門を乱暴に押し開けると、軒下に駆け込んだ。ほとんど雨の届かないところまできて、ようやくひと心地つく。水をたっぷり飲み込んで重くなったバッグがずるりと肩から落ち、着地の瞬間べしゃりと音をたてた。膝に両手をついて荒い息を吐きながら、水びたしになったバッグの中身を思って気持ちが萎えそうになった。
この天気の中を傘なしでというのはやはり強引だったかと分かりきったことを再認識しつつも、あの場ではそうするしかなかったのだから仕方がないと思う。和真は全力疾走でたどり着ける距離に自宅があったからまだいい。瀬名は傘を吹き飛ばされた場所からさらに一キロほど歩いていかねばならない。走るにしろ、歩くにしろ、それほどの距離をこの雨の中、傘なしで行けば確実に風邪をひく。それを見過ごすくらいなら、自分が割を食うことを選択する程度には、和真はお人好しだった。
風に吹かれて、身体が寒気に震える。これ以上身体を冷やしてはさすがにまずかろう。落としていたバッグを手早く抱えて、玄関の扉を開くと、その隙間に身を滑り込ませた。
「和真? 帰ったの?」
扉の開閉音を耳にしたのか、リビングから母がひょっこり顔を出した。濡れねずみの和真を見て、ぎょっと目を見開く。
「ちょっと、今朝ちゃんと傘持ってったんじゃ……」
「とりあえず、タオル先に持ってきて」
驚き呆れる母を制して頼むと、はいはいと母はすぐに頷いて、脱衣所に引っ込んでいった。ほどなくしてタオルを持って出てきた母にフェイスタオルを渡されて、和真は水が滴って鬱陶しい髪を雑に拭う。
「とりあえず、お風呂入ってきなさい。ちょうど沸かしていたところだから」
「うん。ありがと、母さん」
言われるままに脱衣所に入った。
肌にまといつく濡れた衣服を苦労しながら脱ぎ捨て、温かい湯に身をひたせば、染み渡るように身体の熱が高まるのを感じた。思っていたよりもずっと身体は冷え込んでいたらしい。あのまま、暖を取らなければ、間違いなく熱を出していただろう。タイミングよく風呂を沸かしてくれていた母に感謝した。
湯の温度が肌になじんで十分身体が温まってから浴室を出た。いつの間にか母が用意してくれていた着替えを身に着け、髪の水分を肩にかけたタオルで拭いながらリビングの戸を開けると、ダイニングテーブルに夕食の皿を並べていた母が振り返った。
「身体は温まった?」
「うん。すぐに入れて助かった」
母は、よかったとうなずくと、対面式のキッチンに入っていき、食事の準備に戻る。カチャカチャと食器の触れ合う音を聞きながら、和真はダイニングの椅子に腰かけて髪をタオルでがしがしとふく。
「そういえば、さっき深青ちゃんから電話があったわよ」
ぴたりと和真は手を止めた。
「なんて?」
「んー、それが特になにも。かけ直すとも言ってなかったし、伝言も頼まれなかったのよねえ。和真は今お風呂ですって言ったら、そうですかってそれだけ」
これは、あまり好ましくない状況ではないだろうか。電話があったなら、深青は帰宅を知らせようとしてくれたのだろう。しぶしぶでも約束したのだから、そこはきちんと守る性格だ。しかし、この猛烈な雨に、帰宅早々風呂につかっている和真とくれば、勘のよい彼女はこちらの事情を察したはずだ。なにも言わずに電話を切ったということは、今夜はもう来るなということなのだろう。顔を見せたりなどしたら、目尻を吊り上げて怒られそうだ。
とはいえ、和真としては、深青の力を補わないままに一晩を過ごすほうが、心配で心が休まらないというのが正直なところだ。彼女のもとを訪れないという選択肢は考えられなかった。
和真は今だ湿り気を帯びた髪をつまみ上げる。外出すれば、ほぼ間違いなくまた濡れるだろう。夜遅くなればさらに雨風は強まるということだし、今は髪を乾かすよりもさっさと深青に会いに行くべきなのかもしれない。和真は立ち上がった。
「母さん」
「ん? なに?」
「天気がマシなうちに深青のとこ行ってくるから、先にご飯食べてて」
毎日の習慣を、今日は少し早めに済ましてくる。そんな程度の報告のつもりが、それを聞いた母は盛大に呆れた顔になった。
「なにいってるの和真……さすがに、今日はやめておきなさい。さっきびしょ濡れになって帰ってきたところでしょう。また出かけたら、深青ちゃんじゃなくて、あなたが熱を出してしまうわ」
「いや、でも……」
「だめよ。川も増水しているだろうし、風でなにか危ないものが飛んでくることもあるのよ? このあたりは古い家が多いから……飛んできた瓦に当たったりしたら、熱出すだけじゃ済まないわ」
そこまで言われれば、さすがに強引に飛び出していくこともできない。しぶしぶ頷きつつも、和真の脳裏に浮かぶのは、以前たびたび微熱を出していた深青の姿だった。
小学校を卒業するあたりまでは、一日に一度の補給では足りなくて、夜に会いに行くと微熱で頬を熱くしていた深青。今では久しくそのような姿を見ていないが、果たして一晩欠かしてしまっても、彼女は平気でいられるのだろうか。
結論から言ってしまえば、和真は翌日も深青に会うことがかなわなかった。前線による大雨に続いて、里は台風本体の直撃を受け、学校は休校となり、母から外出の許可が降りなかったのだ。
これには和真もかなり抵抗した。しかし、風雨は弱まる様子など微塵も見せないうえに、和真自身も前日雨に打たれたせいか、咳をしていたということがあった。とてもではないが母が頷くはずもなかった。
深青と顔を合わせないままに迎えた二晩目は、和真の神経をおおいに削った。一応電話で様子を確認してはみたのだが、直接会わなければ多少の不調はごまかせてしまうのだから安心はできない。電話口に出られる程度の元気があることだけはわかったが、この夜の間にも体調が急変するのではないかと気が気でない。ベッドのシーツにくるまりながら、ひたすら夜が明けるのを待ちわびた和真は、 ついに一睡もできずに翌朝の朝日を見た。
***
玄関のドアを開けると、まぶしいほどの太陽が、睡眠不足の目につきささった。台風一過とはよく言ったものだが、遮るものが何一つない真っ青な青空は、どこまでも晴れ渡っている。
今の和真の胸のうちとは正反対だ。この二日、気がかりを抱えてろくに眠れもしなかった和真の精神は、そうとうな疲労を積み上げている。それでも崩れ落ちるわけにいかないのは、深青の安否をこの目で確かめるためだ。
丸二日間、力を回復させる機会が得られなかった深青は、きっとかなり弱っているに違いない。昔は日に一度の補給でも足りないことがあったのだ。近ごろはそんなこともなくなっていたとはいえ、二日も空いてしまったら無事なはずはない。早く駆けつけてやりたい、その一心で、和真は香山家へと急いだ。
たどり着いた香山家の門前には、常と違い、掃除に勤しむ使用人が二、三人見えた。今朝に限っては、台風の撒き散らしていった残骸がそこかしこにあるため、後始末の人を増やしているようだ。和真が近づいていくと、いつもの女性が顔を上げて挨拶をくれた。
「おはようございます。昨日の台風は大変でしたねえ。和真さんのお宅は大丈夫でしたか?」
「おはようございます。うちはなにごともありませんでしたよ。それよりも、深青が心配で……」
「お嬢様もずっと屋敷にいらしたので、なんともございませんでしたよ」
和真の不安をよそに、女性はにこにこと笑う。話が噛み合っていないように感じて、和真はさらに言葉を重ねようとした。しかしそれよりも先に、女性の後方にあった門扉がゆっくりと開く気配がして、和真はそちらに意識をとられた。
「ん? 和真? もう来ていたのか。おはよう。今朝は早いな」
現れたのは、常と変わらぬ凛としたたたずまいの深青だった。背筋はぴしりと伸びているし、目元にも活力が宿っていて、見るからに快調そうである。和真はわが目を疑った。
「深青……なんで……」
「? どうした?」
唖然としている様子の和真が心底不思議なのか、深青は首を傾げる。
「昨日も、一昨日も、力を補ってないのに……なんでそんなにいつもどおりなんだ」
呆気にとられつつも、和真にとっては当然すぎる疑問を投げかけると、深青の頬がさっと薔薇色に染まった。
「あ、それは……その……」
先ほどまでのはきはきとした態度からうってかわって、深青はなにやら言いづらそうに視線を右往左往させる。
深青のその反応を、和真は呆然と見つめた。まさかという直感が、和真の脳裏を駆け抜けた。
まさか深青は、和真以外の誰かに、力の補給を頼ったのでは……。
思い至ると、もうそうだとしか思えなかった。そうでなければ、和真と二日も離れていて、深青が平気でいられるわけがない。
タイミングよくと言うべきか和真のひらめきを裏付けるように、深青に続いて屋敷から出てきた文也が門扉の陰から顔を出した。ごく自然に深青の隣に並ぶ。
「あ、和真先輩、おはようございます」
朝に弱い文也は、寝ぼけ眼に欠伸まじりの声で、挨拶もおざなりだ。先輩に対する敬意も、お嬢様に対する畏敬も感じられない。普段どおりのその軽薄さが、今はやけに和真の神経にさわった。
文也ならば、お仕えする屋敷のお嬢様の唇に触れることなど、容易くやってのけそうだ。むしろ、役得とさえ思うかもしれない。そのことに、自分が口を挟める立場でもないのに、和真はひどく苛立った。しかし、一方で感じたのは、たまらない羞恥だった。
この五年間和真は、自分が深青にとって不可欠な存在だと信じて、それは熱心に深青のもとへ通った。和真をつき動かしていたのは、深青を守れるのは己しかいないという使命感だった。だからこそ、どんなにひどい嵐の夜でも深青のもとへ行かなければという思いに駆られたし、彼女と引き離されていた二日間にひどく狼狽した。
そうであるのに、たった今和真につきつけられたのは「和真がいないのなら、代わりはいくらでもいる」という痛烈な事実だった。和真が抱いていた使命感など、騎士気取りの自己陶酔にすぎないのだという現実が、和真の胸に突き刺さった。
「和真? どうした?」
こわばった表情を不審に思った深青が、和真の瞳を探るようにのぞき込む。見られたくない――咄嗟にそう思った。
「悪い、今朝急いでやることあったの思い出した。先行く」
ようやっと絞り出した声は、自分でも驚くほど無感情に淡々としたものだった。
「え? 和真?」
寄り道してまで深青を迎えに来ておきながら先に行くなどという不可解な展開に、深青が戸惑う気配が伝わってきたが、かまわず和真は背を向けた。勘違いで慢心していた恥ずかしさを自覚して、平然と深青と文也の前に立っていられるほど、和真は図太くなかった。
振り切るように駆け出したまま、学校にたどり着くまで、和真は一度も振り返ることができなかった。