第三十話 『友人』
文字数の関係で、今回はここまで。
生きた心地がしなかった。
玄関先で腰を下ろし、雨音が鳴り響く引き戸の先を見つめ、ただ二人の帰りを待つ。
走り去ってしまった美春と、追い掛けた千秋を待っている間の俺の胸中を占めたのは、圧倒的なまでの罪悪感だった。
──『恋人』でしょ?
「────」
──しん、じて……。
「────っ」
──さようなら……カイ。
「──くそっ!」
思わず、拳を右腿に叩き付ける。
肉を殴った鈍い音と、強い痛み。
思わず顔を顰めるが、そのまま視線を真下に持っていく。
「おれの……せいじゃねぇか……!」
『誤解』だった。
あの表情の美春を見て、その様子も嘘だ、俺を騙してるんだなんて事は思わない。
それだけ俺と美春は長い付き合いだし、アイツが嘘つくのが下手だということも知っている。
──どうして、俺は直ぐにアイツを信じてやれなかったんだ。
「畜生……そんなの、決まってる」
俺はただ、自分は悪くないんだって、そんな考えに逃げただけだ。
あの悲しそうな瞳をした美春を見て、それでもまだ自分が被害者だとする姿勢は、浅ましく、どうしようもなく醜かった。
「美春……千秋……」
俺の心の中に、二人がいる。
一人は恋人であり、ずっと俺と同じ時を過ごしてきた幼馴染。
一人は友人であり、俺の事を好きだといってくれた大切な人。
向き合おうと思った。
美春の事で悩んでいた自分と。俺の事を一途に待っていてくれている女の子と。
そう決心した気持ちが揺らぎそうになる。
「最低だ……俺は……!」
美春の事を忘れられないまま千秋に想いを伝え、そして彼女の想いを受け入れると言った。
でも、俺が喪ったと思った最愛の恋人は、今でも自分の事が好きで、それは誤解だと言う。
なら、俺は千秋を選ぶのか。
なら、俺は美春を選ぶのか。
どちらにせよ、俺は誰かの想いを踏みにじり、忘れてしまおうとしている。
相手の想いを受け入れたのにも関わらず、目の前で放り投げようとしている。
ならば、俺はどうすれば──
「────」
「────っ」
「…………こえ、が」
頭を抱え、下を向いていた俺の耳に、雨音に紛れて響きの違う音が届く。
馴染み深い音。心穏やかになる音。
どちらも、聞いてると胸が締め付けられる音。
──小さくても、聞き間違えるわけがない。
「──っ!」
サンダルに足を入れ、玄関先にあるビニール傘を乱暴に掴んで引き戸を開く。
目の先に見えるのは、それぞれ栗色と黒色の髪をした二人の女の子。
その二人が、並んでいる。
並んで、歩きながら、こっちを見ている。
険悪な表情ではない、笑みを浮かべながらこっちに小さく手を振ってくれる美春を瞳に映した瞬間、湧き上がる感情に逆らえず、
「──美春! 千秋っ!」
駆け出した。
水溜まりに勢いよく足を踏み入れ、泥が勢いよく跳ねる。関係ない。
勢いよく雨が降り落ち、身体が冷えるのを感じる。関係ない。
間違いなくここ最近で一番速いであろう全力疾走だったが、この数十メートル途方も無く遠く感じた。
「カイっ」
「カイくんっ!」
「はぁ……はぁ……ッ」
急な呼吸器の酷使に、肺が、心臓が酸素を求めて蠢き出す。
渇いた口内に不快感を覚えながら、ドロリとした唾液を飲み込んで、
「聞きたいことが……話したいことが沢山あるんだ」
持っていたビニール傘を広げ、もう既に意味を成していないびしょ濡れの美春と千秋の頭上に翳す。
二人とも服が濡れて扇情的な格好になっていて、けれど性を感じるというよりも、早く身体を暖めないと風邪を引いてしまうなんて事が頭を過ぎった。
「カイ……私は……」
「美春……お前も同じ気持ちだと思うけど、それは後にしよう。取り敢えず今は──」
瞬間、込み上げてくるものがある。
この一言を言うのが、この人に言うのが、どうしても感情を湧かせる。
たった一ヶ月。その一ヶ月がどれだけ遠く、そして待ち焦がれた事か。
「──帰ろう。一緒に」
約一ヶ月ぶりに、俺と美春は共に帰路に着いた。
◇ ◇ ◇
雨音に混じり、響きの違う水の音が聞こえる。
シャワーの音。その音に少なからず心臓が跳ねるのを感じながら、
「──カイくん」
「……はい」
俺と千秋はちゃぶ台を挟んで正座で向かい合っていた。
雨で冷えた身体を暖める為、風呂に入り少し火照って色気を感じさせる千秋は、何故か置いてあったピンクの下地にハリネズミの模様の寝間着に身を包んでいる。
そんな可愛らしい格好とは裏腹に、彼女から放たれる視線は厳しいもので、
「帰る間、美春ちゃんから色々とカイくんと別れた経緯を聞きました」
「……美春ちゃん?」
「友達ですから。話を逸らさないでください」
「……ごめんなさい」
無言の圧力。有無を言わせない声音。
千秋も美春から経緯を聞き、幻滅してしまったのだろうか。
それは仕方ない事だ。受け入れなきゃいけない自分の『罪』。すれ違いや勘違いが呼んだこの騒動に、流石の千秋も──
「……美春ちゃんって──アイドルだったんですか!?」
「……そこかよっ!」
構えていた意識がズッコケるような感覚。
罵倒が飛んで来ると思っていただけに、その言葉に呆気に取られる。
「いや、だって知らなかったんですもん……この田舎では滅多にテレビなんて見ませんし、いや、まぁ確かに街に訪れた時に映像を見たような気もしますが……」
「いや、まぁアイドルだけどさ。別にそこは関係ないだろ……」
「関係ありますよ! 主にこう……女性の格的な意味でっ! というか、元彼女さんがアイドルなんて思いもしませんよ……なんですか私は。無謀にも魔王に挑もうとしてたんですか」
「なんだよその例え……」
確かに美春はアイドルだ。それも『超』が着くほどの人気アイドル。
でも、傾向は違うが十分千秋だって美少女に入ると思う。
天真爛漫な美春と違い、素朴で親しみやすさを感じさせるのが千秋だろう。
「凄いですよね。美春ちゃんは」
「……そうだな」
「そんな凄い人と、カイくんは付き合っていたんですね」
「──あぁ。俺なんかと違って、アイツは凄いんだ」
そうだ。判っていた。
俺は『幼馴染』という関係がなければ、きっと付き合う事は出来なかった高嶺の花。
美春のような凄い人は、もっと凄くて美しい人と交際するべきなんだろう。
……それでも、美春は俺を選んでくれたんだ。
「──そこまで重く考えなくていいと思いますよ」
「えっ?」
ふいに、千秋の声音が変わる。
「私が話を聞いた限りですけど、別れた原因はカイくんも悪いですよ」
「うぐっ」
「……勿論、美春ちゃんだって悪い」
一呼吸、
「カイくんも美春ちゃんも似たもの同士ですね。どっちが悪いのか……そんな話にならずに自分自身が相手を傷付けた、自分が全部悪いなんて考え方は、お互いそっくりです」
「そんな、ことは……」
そうなのだろうか。
確かに美春の言動に俺は感情を昂らせた。少しは関係あるかもしれない。
だが、結局の所それを選んだのは俺だ。
拒絶し、信じず、そしてこの村に訪れた。
俺が居ない間、きっと美春は辛い事があったのだろう。それは再会した時に薄々感じている。
それなのに、美春の傍に居てやれなかった俺こそ、最も悪いのではないか?
「ねぇ、カイくん。貴方の知っている美春ちゃんは本当にそういう人なんですか?」
「……どういうことだ?」
「美春ちゃんは、今回の事は全部カイくんが悪いなんて決めつけるような、そんな人だって思いますか?」
小さく息が漏れる。
考えなくても、答えは一つしか無かった。
「──そんなわけないだろ」
自分の事ばかり考えて、俺は大切な事を忘れていた。
美春は、きっと今も──
「なら、話さないといけませんよね?」
「そうだな……」
「……そういえば、美春ちゃんの着替えを持って行っていませんでした」
小さく声を上げ、眉を顰める千秋。
それを見て、何となく言いたいことが判ってきた。
「俺に持っていけって事か。てか、アイツ今風呂だし……」
「私は今からお料理を作るので。着替えを持っていくついでにお話されてはどうですか?」
別に話なんてものは後でも出来る。
そう思ったが、二人きりの場を作ろうとしてくれたのだろう。
下手な気遣いだと思いながら、俺は頷いた。
「……そうだな。少し行ってくるわ。この着替えで良いんだよな?」
「はい。お願いします」
「あいよ」
「……カイくん」
着替えを美春から受け取り、立ち上がって風呂場に向かおうとした時、千秋が声を掛ける。
その声に込められる思いに、慈しみの感情に心が揺れる。
「私は貴方が好きです。それは、今でも変わりません」
「────」
「でも、美春ちゃんの事も……この短時間で好きになってしまいました」
「────」
「だから、お願いします。私の友人を……助けてあげてください」
あっさりと、心に絡み付いていた鎖が解けていく。
千秋になんて言えばいいのか、美春になんて言えばいいのか、そんな事ばかり考えていた。
もう、迷いはない。思った事を、ありのまま美春に伝えなければならない。
それが、千秋に背中を押してもらった俺の役割なのだから。
「千秋、ありがとな。──行ってくる」
「──はい、行ってらっしゃい」
待っていてくれ。千秋。
今だって、俺は答えが出せないままだ。
でも、お前の友人を、俺の大切な人を……きっと救ってみせる。
そして美春。
また昔みたいに……もう一度──




