表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/33

第二十八話 『裏切り者』



「カイ……。好きよ、カイ……ッ!」



 刻まれていく。

 胸に深く深く染み込んでいく。

 美春の声が。温もりが。『愛情』が。


 過去への決別という『決意』で固めていた心に、美春の『愛』が覆い尽くそうとしてくる。


「み、はる……」


 倒れ込んだ俺の胸元に顔を擦り付ける美春。

 思えばアイドルになる前、美春はこんな感じだった。

 プライベートで。特に悲しい時、嬉しい時、何かがあれば俺に抱き着き、過剰な愛情を求めていたような気がする。


 俺はそんな美春が好きだった。

 自分の前でだけ素直に自身を(さら)け出してくる美春の姿に、美しい少女からの好意に、優越感さえ抱いた事もある。


「どうして……」


 でも、違う。

 俺と美春がまたこうしてお互いの温もりを感じる事など、もう無い筈だった。

 お互いが背を向け、自分達の道を歩き始める。

 彼女は他の男の元へ、俺は逃避を選んだ。


 なのに、どうして今更──


「……美春、離れてくれ」


「いや」


「このままじゃ俺もお前も更に汚れちまうぞ」


「別にいいじゃない。私は気にしないわよ」


「……はぁ」


 俺が気にするんだよ。という言葉を飲み込み、美春を俺の身体から落とさない様にゆっくりと立ち上がる。

 俺の動きにつられ、美春も俺の身体を抱き締めつつも自分の足で立ち上がった。


「カイくん……」


「ごめん、後で全部話す。だから少しだけ話す時間をくれないか?」


「いえ、私は構いませんが……」


 困惑の表情を浮かべ、状況を理解していない千秋には悪いとは思う。

 だけど、そんな千秋に気を配る余裕は俺にもない。

 美春が何故この村に来たのか、俺の胸中を占めたのはそんな疑問だった。


「美春、取り敢えず離れてくれ」


 少し力を込め、美春の肩を掴んで俺の身体から離れさせる。

 俺が力を込めたからか、抵抗せず簡単に美春は手を離した。


「カイ、どうして?」


「いや、その……先ずは聞きたいことがあるんだが」


「何よ。さっさと言いなさいよ」


 目尻に浮かんだ水滴を指で拭いながら、美春は俺の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 濡れた瞳がまるで宝石の様だと、そう場違いな事が頭に浮かんだ。


「あの、さ……」


 本当は美春が現れた時に薄々気付いていた。俺に向けてくる言葉に、視線に理解してしまった。

 でも、そんな筈は無いと『その事』を否定するように(かぶり)を振る。

 それが事実だとしたら、俺はきっと──


「……俺と美春って、どういう関係だ?」


 息を呑む。

 口内が酷く乾いていて、唾液を飲み込もうとすると喉に不快な感覚が広がった。


「どういう関係って……」


 美春の血色の良い唇が動き、その凛とした音色を響かせる。




「──『恋人』でしょ?」




 ヒュッと変な音を立て、息が漏れる。

 血の気が引き、頭の中が真っ白になる感覚。

 視線を美春の方に向けれず、指が強張り、それでいてやけに鳴り響く心臓の鼓動だけが明瞭になっていた。


「恋、人……?」


 背後で千秋の震えた言葉が聞こえた。

 千秋は知っている。俺に恋人など居ないことを。

 そう、今の俺には恋人なんぞ居ないはずだ。なのにコイツは、美春は何を言っているんだ。

 そうだ。俺に恋人は居ない。もう、居ないのだから。


「はは、恋人……?」


「カイ?」


「なんだよそれ。おかしいだろ。俺がお前を大切に想って、お前を幸せにしてやりたいと、そう思っていた俺の思いを踏み(にじ)ったのは誰だよ……」


 声が震える。

 おかしい。こんな事言いたい訳じゃない。

 俺は美春の事が好きだった。今でも好きだ。間違いない。

 なのに胸に燻っていた感情が、鬱屈とした思いが口から零れ落ちていた。


「お前は俺を捨てた……そうだ、そうだよ」


「何を、言って……」


「あの日、お前と喧嘩した時、俺は『最低だ』って自分を殴り飛ばしたくなったよ。罪悪感で消えてしまいたいってそう思ったよ。でも、お前の事が好きだから。謝って、謝り倒して……そしてまた前みたいに一緒に過ごしたいって、そう本当に思っていたんだよ……!」


 止まらない。止まってくれない。

 かつての最愛の幼馴染を目の前にして、『恋人』と他ならぬ彼女が口にしてくれて、それなのに愛しさよりも、怒りや哀しみが混じりあった感情が俺の胸中を支配していた。


「お前に判るか? 世界で一番好きで、愛してて、幸せにしたいと思ってた人に裏切られる俺の気持ちが。俺以外の誰かに寄り添っている恋人の姿を見た俺の気持ちが、お前に判るか!?」


 喪失感に襲われた。絶望感に苛まれた。

 あの時の感情が今も俺の足に纏わり付き、俺を縛り付ける。

 大切だったモノが俺の掌から零れ落ちたあの感覚を、俺は忘れない。忘れる事は出来ない。


「ち、違う! アレは違うわ!」


「何が違うんだよ……!」


「カイの言っていることって、あのスキャンダルの事でしょ……アレは捏造だわ! 私はずっとカイの事が好きよ! 誰よりも好き、愛してる!」


「っ……どの口が、それを……!」


 震える唇が、積もり積もった感情を吐き出そうとして、閉じる。

 頭に登っていた血が、スーッと引いていく感覚。


「────」


 今まで見ようとしていなかった。当然の如く忘れていた。

 美春の澄んだ瞳を、その奥に潜む感情を久々に見た気がする。


 彼女の潤んだ瞳には、かつて俺達が通じ合い、好き合っていた頃の純粋な好意が浮かんでいて。

 俺の一番好きだった頃の美春が、そこに居た。


「カイは、私を信じてくれないの……?」


 美春は縋り付くように、俺の襟元を弱々しく両手で掴む。

 いつも自信満々で、周りを引き付け輝く星のような彼女はそこには居ない。

 自信なさげで、触れたら壊れてしまいそうなか弱い少女が、そこに居た。


「お、れは……お前の事を信じて……」


 そこまで口にして、ふと気付いた。


 ──俺は、美春の事を信じていたか?


 勿論、信じようとした。そんな筈ないと、何かの間違いだとそう願った。

 でも、それだけだ。美春の事を信じていたかというと、『当たり前だ』とそう口に出す事は出来ない。


 心の何処かで諦めていた自分が居た。

 俺と美春じゃ釣り合わない。それを仕方ないと、そう決め付けていたんじゃないのか。


「しん、じて……」


 その先が続かない。喉に言葉が突っかかる。


 もし、美春の言葉が本当で、あのスキャンダルが全て捏造だとしたら?

 それが事実なら、美春は何も悪くない。裏切ってもいないし、逆にメディアに踊らされた分、彼女は辛い思いをしていたのだろう。

 髪や肌は荒れ、顔色もどこか悪い。

 彼女を目の前にして、それがハッキリと判る。


 ──なら、彼女を先に裏切ったのは誰だ?


「カイ……どうしたの?」


 心配そうな表情で俺の顔を覗き込む美春。

 彼女の持つ元来の思い遣りがそこにはあった。


「っ…………!」


 茶色がかった黒曜石の様な瞳。その瞳に映っているのは、酷く醜い男の姿。

 身勝手で、くだらない考えで空回りし続ける。そんな醜い男の姿がそこに映っていた。


「じゃ、じゃあ。安西信明とのスキャンダルはどういう事だ。合成って言うわけじゃないんだろ……だったらッ!?」


 苦し紛れに口に出したそれを、俺は最後まで言い切ることが出来なかった。


「いや……! 止めてッ!」


「カイくんっ!?」


 胸に強い衝撃。突き出された美春の両手に理解した瞬間、地に強く尻を着き鈍痛が走った。


「大丈夫ですか?」


「痛っ……あぁ、大丈夫だ」


 駆け寄ってきた千秋の手を借りてゆっくりと立ち上がる。

 尻に付いた土を払いながら、美春に目を向けると、


「み、美春? どうしたんだよ……?」


 美春は自分を護るように腕を交差させ、自身を抱き締めていた。

 見て分かる。何かに恐怖しているように、小刻みに震えている。

 口では小さく『いや、いや……』と呟き続けている。


「おい、美春!」


 あまりに異常すぎるその様子に、美春の肩を強く掴み、揺すって彼女の意識を戻そうと呼び掛ける。

 呼び掛け続けて声が聞こえたのか、虚空を見つめている美春の瞳が俺の顔を捉えると、


「か、い……?」


「あぁ、そうだ。俺だ。しっかりしろ」


「かい……カイ……っ、カイッ!」


 虚ろな瞳に光が戻ると、彼女は俺の胸に飛び込み、強く抱き締める。

 それはまるで、親に縋る子供の様だった。


「あぁ、やっぱりカイが居る……! カイ、カイっ! もう離さないで。私をギュッとしてっ! 壊れるくらい、貴方の体温を感じたいのよ……!」


 異常な言動。俺と離れている間に、美春に何があったというのか。

 少なくとも『安西信明』……彼が何か関係しているのは間違い無さそうだが、今の美春にそれを聞くことは難しいだろう。


 そして何より、俺との別れが彼女に大きな傷跡を残してしまった。

 他の誰でもない、この俺のせいで。


「──カイくん」


 優しい声音が耳に届く。

 美春の肩に手を置きながら顔をゆっくりと後ろに向けると、そこにはもう一人の大切な少女。


「この方が誰だか知りませんが……いえ、何となくですが判りました。ですが、積もる話もあるでしょう。もうすぐ雨も降りそうですし、取り敢えずは家に戻りましょう」


「そ、そうだな。一先ず、俺の家に──」


「──アンタ……誰よ」


 胸元で、千秋とは真逆の凛とした声音が響く。

 咄嗟に美春に目を向けると、千秋を鋭い目付きで睨み付けていた。


「私ですか? 私は……」


「さっきからカイの事を『カイくんカイくん』って親しげに名前で呼んで、私のカイに馴れ馴れしいのよッ!」


 憎悪とも言える表情を浮かべ、美春は激情を言葉という形で千秋にぶちまける。

 美春らしからぬ低い怒声に、俺は思考が一瞬止まった。

 その間に美春は俺の腕を乱暴に振り払い、千秋に相対する。


「親しくって、それは……」


「カイは渡さない……そうよ、もう離さないわ! カイは私が好きで、私もカイが好き! それは変わらない事実で、他の誰にも入る余地はない! 今更貴方が入ろうとしたって、それは無駄な事よ!」


「お、落ち着いてください……! 私は……」


「私にはカイしかいない! 止めてよ……お願いだから盗ろうとしないでよ……ッ。お願いだから、私達の間に入らないでよぉ……!」


 いつの間にか俺の近付いてきた千秋を拒絶するように、美春は千秋の腕を振り払う。

 千秋は反応出来なかったのだろう。そして、その衝撃で彼女の掌から『何か』が落ちた。零れ落ちてしまった。


「……ぁ」


 声が漏れた。

 それは千秋の声だったのかもしれないし、美春の声だったのかもしれない。

 でも、それは些細な事だ。

 今、この時、この場所で。落ちてしまったものが『それ』の時点で、間違いなく少女の心を傷付ける事には変わりないのだから。


「そ、それ……どうして……?」


 美春が震える指先で向けたのは、美しい二色のジュエルが光るネックレス。

 美春は知っている。渡せなかったとはいえ、それは俺と美春にとって大切な物なのだから。


「美春……それは……」


 言葉が出ない。言葉に出来ない。

 何を言っても、それはただの言い訳にしかならない。例えそれが事実でなくとも、それは美春には関係ないのだから。

 美春にとって、これが表すことはたった一つしかないのだから。


「……そう、いうことなのね」


「違う……」


「嘘よ……だって、そういう事でしょ? あはは……入る余地がないってどっちの方よ……結局、空回りしていたのは私の方だったってわけね」


「美春、さん! 話を聞いてください!」


 届かない。俺の声は届かない。

 今まで目を逸らし続けてきた俺の言葉は、彼女を裏切ってしまったという俺の言葉は、美春にはもう届かない。


 不意に、頬に冷たい感触。

 それを機に、大粒の雨が降り始めた。

 大きな雨粒が地に落ちて、鈍い音が響き続ける。

 それはさながら、誰かが泣いているように……。


「──あーあ……本当に独りぼっちになっちゃったな」


 その言葉は雨音の中でもやけに明瞭に聞こえた。

 そこ声音が、今の彼女の感情を純粋に伝えていて、胸が強く締め付けられる感覚に襲われる。


 そして、ポロポロと涙を流しながら乾いた笑いを上げ、美春は俺に顔を向け、




「──さようなら……カイ」




 そう呟いた瞬間、美春は俺に背後を向けて走り出した。


 俺は咄嗟の事に思考が停止して、美春の背中を追いかけることが出来なかった。

 その悲しげな顔が、絶望に染まった表情がかつての自分に重なって、俺の足を止める。

 自分が彼女を追い掛けてもいいのかと、そんな疑問に襲われ、そして(かぶり)を振った


「み、美春……追い掛けなきゃ……!」


 何やっているんだと。そう自分に怒りが湧いた。

 今回の事を引き起こしたのは、自分自身だ。それなのに、俺は何をしている。

 兎に角追いかける。美春に言わなきゃいけない。兎に角、何か……。


「待ってください!」


 追いかけようと足に力を入れた瞬間、千秋に腕を掴まれる。


「なんだよ……! 離してくれ千秋。急いでアイツを追い掛けなきゃ……!」


「追い掛けて何を言うんですか? カイくんは美春さんにどうして欲しいんですか?」


「そ、それは……」


 考えていなかった。取り敢えず、美春と顔を合わせたら何とかなるって、そう単純な事しか考えていなかった。


「今のカイくんが何を言おうと、それは逆効果しかありません。その安易な行動は、美春さんを更に傷付けるだけです」


「でも、それじゃあ美春は……!」


「──私が行きます」


 千秋が俺の目を見つめ、そう言葉にする。


「千秋が?」


「ええ。少なくともカイくんが行くよりかはマシでしょうし、それに美春さんも私に言いたいことがあるでしょうから」


 それに、と。

 私にも話したいことがあると、そう呟いた。


「……ごめん。任せていいか?」


「勿論です。お任せ下さい」


 ドンっと、千秋は自身の胸を強く叩き、


「カイくん。美春さんを連れてきたら、今度はちゃんと正直に何もかも吐き出してください。そうじゃないと、何も進めません」


「────」


「……また、後で」


 言葉に詰まった俺を一瞥し、千秋は美春が走り去った方向に走り出す。

 俺はその背中が見えなくなるまで見つめ続け、


「裏切ったのは……美春じゃない」


 判っていたのだ。目を逸らし続けていたのだ。

 今回の事件を引き起こしたのは、根本たる元凶は誰なのか。


「俺は、最低だ……」


 彼女に何を伝えればいいんだろう。

 彼女に何を判って貰いたいのだろう。


 答えが出ないまま、罪悪感に苛まれる俺の心を雨の冷たさだけが罰し続けていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ