第二十八話 『裏切り者』
「カイ……。好きよ、カイ……ッ!」
刻まれていく。
胸に深く深く染み込んでいく。
美春の声が。温もりが。『愛情』が。
過去への決別という『決意』で固めていた心に、美春の『愛』が覆い尽くそうとしてくる。
「み、はる……」
倒れ込んだ俺の胸元に顔を擦り付ける美春。
思えばアイドルになる前、美春はこんな感じだった。
プライベートで。特に悲しい時、嬉しい時、何かがあれば俺に抱き着き、過剰な愛情を求めていたような気がする。
俺はそんな美春が好きだった。
自分の前でだけ素直に自身を曝け出してくる美春の姿に、美しい少女からの好意に、優越感さえ抱いた事もある。
「どうして……」
でも、違う。
俺と美春がまたこうしてお互いの温もりを感じる事など、もう無い筈だった。
お互いが背を向け、自分達の道を歩き始める。
彼女は他の男の元へ、俺は逃避を選んだ。
なのに、どうして今更──
「……美春、離れてくれ」
「いや」
「このままじゃ俺もお前も更に汚れちまうぞ」
「別にいいじゃない。私は気にしないわよ」
「……はぁ」
俺が気にするんだよ。という言葉を飲み込み、美春を俺の身体から落とさない様にゆっくりと立ち上がる。
俺の動きにつられ、美春も俺の身体を抱き締めつつも自分の足で立ち上がった。
「カイくん……」
「ごめん、後で全部話す。だから少しだけ話す時間をくれないか?」
「いえ、私は構いませんが……」
困惑の表情を浮かべ、状況を理解していない千秋には悪いとは思う。
だけど、そんな千秋に気を配る余裕は俺にもない。
美春が何故この村に来たのか、俺の胸中を占めたのはそんな疑問だった。
「美春、取り敢えず離れてくれ」
少し力を込め、美春の肩を掴んで俺の身体から離れさせる。
俺が力を込めたからか、抵抗せず簡単に美春は手を離した。
「カイ、どうして?」
「いや、その……先ずは聞きたいことがあるんだが」
「何よ。さっさと言いなさいよ」
目尻に浮かんだ水滴を指で拭いながら、美春は俺の瞳を真っ直ぐに見つめる。
濡れた瞳がまるで宝石の様だと、そう場違いな事が頭に浮かんだ。
「あの、さ……」
本当は美春が現れた時に薄々気付いていた。俺に向けてくる言葉に、視線に理解してしまった。
でも、そんな筈は無いと『その事』を否定するように頭を振る。
それが事実だとしたら、俺はきっと──
「……俺と美春って、どういう関係だ?」
息を呑む。
口内が酷く乾いていて、唾液を飲み込もうとすると喉に不快な感覚が広がった。
「どういう関係って……」
美春の血色の良い唇が動き、その凛とした音色を響かせる。
「──『恋人』でしょ?」
ヒュッと変な音を立て、息が漏れる。
血の気が引き、頭の中が真っ白になる感覚。
視線を美春の方に向けれず、指が強張り、それでいてやけに鳴り響く心臓の鼓動だけが明瞭になっていた。
「恋、人……?」
背後で千秋の震えた言葉が聞こえた。
千秋は知っている。俺に恋人など居ないことを。
そう、今の俺には恋人なんぞ居ないはずだ。なのにコイツは、美春は何を言っているんだ。
そうだ。俺に恋人は居ない。もう、居ないのだから。
「はは、恋人……?」
「カイ?」
「なんだよそれ。おかしいだろ。俺がお前を大切に想って、お前を幸せにしてやりたいと、そう思っていた俺の思いを踏み躙ったのは誰だよ……」
声が震える。
おかしい。こんな事言いたい訳じゃない。
俺は美春の事が好きだった。今でも好きだ。間違いない。
なのに胸に燻っていた感情が、鬱屈とした思いが口から零れ落ちていた。
「お前は俺を捨てた……そうだ、そうだよ」
「何を、言って……」
「あの日、お前と喧嘩した時、俺は『最低だ』って自分を殴り飛ばしたくなったよ。罪悪感で消えてしまいたいってそう思ったよ。でも、お前の事が好きだから。謝って、謝り倒して……そしてまた前みたいに一緒に過ごしたいって、そう本当に思っていたんだよ……!」
止まらない。止まってくれない。
かつての最愛の幼馴染を目の前にして、『恋人』と他ならぬ彼女が口にしてくれて、それなのに愛しさよりも、怒りや哀しみが混じりあった感情が俺の胸中を支配していた。
「お前に判るか? 世界で一番好きで、愛してて、幸せにしたいと思ってた人に裏切られる俺の気持ちが。俺以外の誰かに寄り添っている恋人の姿を見た俺の気持ちが、お前に判るか!?」
喪失感に襲われた。絶望感に苛まれた。
あの時の感情が今も俺の足に纏わり付き、俺を縛り付ける。
大切だったモノが俺の掌から零れ落ちたあの感覚を、俺は忘れない。忘れる事は出来ない。
「ち、違う! アレは違うわ!」
「何が違うんだよ……!」
「カイの言っていることって、あのスキャンダルの事でしょ……アレは捏造だわ! 私はずっとカイの事が好きよ! 誰よりも好き、愛してる!」
「っ……どの口が、それを……!」
震える唇が、積もり積もった感情を吐き出そうとして、閉じる。
頭に登っていた血が、スーッと引いていく感覚。
「────」
今まで見ようとしていなかった。当然の如く忘れていた。
美春の澄んだ瞳を、その奥に潜む感情を久々に見た気がする。
彼女の潤んだ瞳には、かつて俺達が通じ合い、好き合っていた頃の純粋な好意が浮かんでいて。
俺の一番好きだった頃の美春が、そこに居た。
「カイは、私を信じてくれないの……?」
美春は縋り付くように、俺の襟元を弱々しく両手で掴む。
いつも自信満々で、周りを引き付け輝く星のような彼女はそこには居ない。
自信なさげで、触れたら壊れてしまいそうなか弱い少女が、そこに居た。
「お、れは……お前の事を信じて……」
そこまで口にして、ふと気付いた。
──俺は、美春の事を信じていたか?
勿論、信じようとした。そんな筈ないと、何かの間違いだとそう願った。
でも、それだけだ。美春の事を信じていたかというと、『当たり前だ』とそう口に出す事は出来ない。
心の何処かで諦めていた自分が居た。
俺と美春じゃ釣り合わない。それを仕方ないと、そう決め付けていたんじゃないのか。
「しん、じて……」
その先が続かない。喉に言葉が突っかかる。
もし、美春の言葉が本当で、あのスキャンダルが全て捏造だとしたら?
それが事実なら、美春は何も悪くない。裏切ってもいないし、逆にメディアに踊らされた分、彼女は辛い思いをしていたのだろう。
髪や肌は荒れ、顔色もどこか悪い。
彼女を目の前にして、それがハッキリと判る。
──なら、彼女を先に裏切ったのは誰だ?
「カイ……どうしたの?」
心配そうな表情で俺の顔を覗き込む美春。
彼女の持つ元来の思い遣りがそこにはあった。
「っ…………!」
茶色がかった黒曜石の様な瞳。その瞳に映っているのは、酷く醜い男の姿。
身勝手で、くだらない考えで空回りし続ける。そんな醜い男の姿がそこに映っていた。
「じゃ、じゃあ。安西信明とのスキャンダルはどういう事だ。合成って言うわけじゃないんだろ……だったらッ!?」
苦し紛れに口に出したそれを、俺は最後まで言い切ることが出来なかった。
「いや……! 止めてッ!」
「カイくんっ!?」
胸に強い衝撃。突き出された美春の両手に理解した瞬間、地に強く尻を着き鈍痛が走った。
「大丈夫ですか?」
「痛っ……あぁ、大丈夫だ」
駆け寄ってきた千秋の手を借りてゆっくりと立ち上がる。
尻に付いた土を払いながら、美春に目を向けると、
「み、美春? どうしたんだよ……?」
美春は自分を護るように腕を交差させ、自身を抱き締めていた。
見て分かる。何かに恐怖しているように、小刻みに震えている。
口では小さく『いや、いや……』と呟き続けている。
「おい、美春!」
あまりに異常すぎるその様子に、美春の肩を強く掴み、揺すって彼女の意識を戻そうと呼び掛ける。
呼び掛け続けて声が聞こえたのか、虚空を見つめている美春の瞳が俺の顔を捉えると、
「か、い……?」
「あぁ、そうだ。俺だ。しっかりしろ」
「かい……カイ……っ、カイッ!」
虚ろな瞳に光が戻ると、彼女は俺の胸に飛び込み、強く抱き締める。
それはまるで、親に縋る子供の様だった。
「あぁ、やっぱりカイが居る……! カイ、カイっ! もう離さないで。私をギュッとしてっ! 壊れるくらい、貴方の体温を感じたいのよ……!」
異常な言動。俺と離れている間に、美春に何があったというのか。
少なくとも『安西信明』……彼が何か関係しているのは間違い無さそうだが、今の美春にそれを聞くことは難しいだろう。
そして何より、俺との別れが彼女に大きな傷跡を残してしまった。
他の誰でもない、この俺のせいで。
「──カイくん」
優しい声音が耳に届く。
美春の肩に手を置きながら顔をゆっくりと後ろに向けると、そこにはもう一人の大切な少女。
「この方が誰だか知りませんが……いえ、何となくですが判りました。ですが、積もる話もあるでしょう。もうすぐ雨も降りそうですし、取り敢えずは家に戻りましょう」
「そ、そうだな。一先ず、俺の家に──」
「──アンタ……誰よ」
胸元で、千秋とは真逆の凛とした声音が響く。
咄嗟に美春に目を向けると、千秋を鋭い目付きで睨み付けていた。
「私ですか? 私は……」
「さっきからカイの事を『カイくんカイくん』って親しげに名前で呼んで、私のカイに馴れ馴れしいのよッ!」
憎悪とも言える表情を浮かべ、美春は激情を言葉という形で千秋にぶちまける。
美春らしからぬ低い怒声に、俺は思考が一瞬止まった。
その間に美春は俺の腕を乱暴に振り払い、千秋に相対する。
「親しくって、それは……」
「カイは渡さない……そうよ、もう離さないわ! カイは私が好きで、私もカイが好き! それは変わらない事実で、他の誰にも入る余地はない! 今更貴方が入ろうとしたって、それは無駄な事よ!」
「お、落ち着いてください……! 私は……」
「私にはカイしかいない! 止めてよ……お願いだから盗ろうとしないでよ……ッ。お願いだから、私達の間に入らないでよぉ……!」
いつの間にか俺の近付いてきた千秋を拒絶するように、美春は千秋の腕を振り払う。
千秋は反応出来なかったのだろう。そして、その衝撃で彼女の掌から『何か』が落ちた。零れ落ちてしまった。
「……ぁ」
声が漏れた。
それは千秋の声だったのかもしれないし、美春の声だったのかもしれない。
でも、それは些細な事だ。
今、この時、この場所で。落ちてしまったものが『それ』の時点で、間違いなく少女の心を傷付ける事には変わりないのだから。
「そ、それ……どうして……?」
美春が震える指先で向けたのは、美しい二色のジュエルが光るネックレス。
美春は知っている。渡せなかったとはいえ、それは俺と美春にとって大切な物なのだから。
「美春……それは……」
言葉が出ない。言葉に出来ない。
何を言っても、それはただの言い訳にしかならない。例えそれが事実でなくとも、それは美春には関係ないのだから。
美春にとって、これが表すことはたった一つしかないのだから。
「……そう、いうことなのね」
「違う……」
「嘘よ……だって、そういう事でしょ? あはは……入る余地がないってどっちの方よ……結局、空回りしていたのは私の方だったってわけね」
「美春、さん! 話を聞いてください!」
届かない。俺の声は届かない。
今まで目を逸らし続けてきた俺の言葉は、彼女を裏切ってしまったという俺の言葉は、美春にはもう届かない。
不意に、頬に冷たい感触。
それを機に、大粒の雨が降り始めた。
大きな雨粒が地に落ちて、鈍い音が響き続ける。
それはさながら、誰かが泣いているように……。
「──あーあ……本当に独りぼっちになっちゃったな」
その言葉は雨音の中でもやけに明瞭に聞こえた。
そこ声音が、今の彼女の感情を純粋に伝えていて、胸が強く締め付けられる感覚に襲われる。
そして、ポロポロと涙を流しながら乾いた笑いを上げ、美春は俺に顔を向け、
「──さようなら……カイ」
そう呟いた瞬間、美春は俺に背後を向けて走り出した。
俺は咄嗟の事に思考が停止して、美春の背中を追いかけることが出来なかった。
その悲しげな顔が、絶望に染まった表情がかつての自分に重なって、俺の足を止める。
自分が彼女を追い掛けてもいいのかと、そんな疑問に襲われ、そして頭を振った
「み、美春……追い掛けなきゃ……!」
何やっているんだと。そう自分に怒りが湧いた。
今回の事を引き起こしたのは、自分自身だ。それなのに、俺は何をしている。
兎に角追いかける。美春に言わなきゃいけない。兎に角、何か……。
「待ってください!」
追いかけようと足に力を入れた瞬間、千秋に腕を掴まれる。
「なんだよ……! 離してくれ千秋。急いでアイツを追い掛けなきゃ……!」
「追い掛けて何を言うんですか? カイくんは美春さんにどうして欲しいんですか?」
「そ、それは……」
考えていなかった。取り敢えず、美春と顔を合わせたら何とかなるって、そう単純な事しか考えていなかった。
「今のカイくんが何を言おうと、それは逆効果しかありません。その安易な行動は、美春さんを更に傷付けるだけです」
「でも、それじゃあ美春は……!」
「──私が行きます」
千秋が俺の目を見つめ、そう言葉にする。
「千秋が?」
「ええ。少なくともカイくんが行くよりかはマシでしょうし、それに美春さんも私に言いたいことがあるでしょうから」
それに、と。
私にも話したいことがあると、そう呟いた。
「……ごめん。任せていいか?」
「勿論です。お任せ下さい」
ドンっと、千秋は自身の胸を強く叩き、
「カイくん。美春さんを連れてきたら、今度はちゃんと正直に何もかも吐き出してください。そうじゃないと、何も進めません」
「────」
「……また、後で」
言葉に詰まった俺を一瞥し、千秋は美春が走り去った方向に走り出す。
俺はその背中が見えなくなるまで見つめ続け、
「裏切ったのは……美春じゃない」
判っていたのだ。目を逸らし続けていたのだ。
今回の事件を引き起こしたのは、根本たる元凶は誰なのか。
「俺は、最低だ……」
彼女に何を伝えればいいんだろう。
彼女に何を判って貰いたいのだろう。
答えが出ないまま、罪悪感に苛まれる俺の心を雨の冷たさだけが罰し続けていた。




