第二十七話 『再開。そして再会』
これを、書きたかった。
「──見つ、けた……!」
千秋の背中を視界に捉えたのは、走り始めて直ぐの事だった。
元々千秋は足が早くないのだろう。
また、泣いているからか、足がもつれていて今すぐにでも転びそうな勢いだ。
「それに、しても……泣いている女の子を、追い掛けているって、結構ヤバい絵面だよな……!」
この道は左右に畑や水田があるせいか、農作業している人達から視線を集めているのを感じる。
千秋の身が危険だと勘違いして一人くらいは追い掛けてきそうだが、好奇の目を向けるだけで傍観している。
俺が信用されている。と思ってしまうのは自意識過剰なのかもしれない。
「ハァ……ハァ……! 二回目、だな。こういう事は……」
つい一ヶ月前にも、千秋を追いかけて走った事を思い出す。
百合ちゃんを自身の手で危険な目に合わせていると知った瞬間、彼女は絶望のまま、罪悪感に駆られ走り出した。
俺はそんな千秋の姿を見ていられなくて、彼女を大切に想っている人達に託され、俺もこの足を踏み出したのだ。
彼女は鬱屈とした思いをぶちまけ、慟哭し、そして自分を許した。
俺はそれを見て、眩しいと。美しいと思った。
「そう、なんだよ」
俺には出来なかった事を、彼女は乗り越えてみせた。
その姿に、絶望という泥の中から咲く花のような強さに、俺は惹かれていたのだろう。
そんな一度立ち上がった彼女が、また悲しみに涙を流していた。他ならぬ俺のせいで。
それは決して許されない。
俺を好きだって言ってくれた女の子を、大切に想う彼女の事を、俺はもう傷付けたくないのだから。
「……千秋!」
「────ッ!」
千秋の直ぐ背後まで追い付いた俺は、勢い余って彼女を転ばせないよう、触れるように腕を掴む。
それにより速度を落とし、完全に止まった彼女は赤くなったその目で振り向きざまに睨みつけ、
「──離してっ!」
掴んだ腕を大きく振り、俺の腕を乱暴に振り払った。
「……千秋」
「どうして、追いかけてきたんですか……」
千秋は鋭い目付きを弛緩させ、潤んだ瞳をしながらそう問いかける。
改めてその哀しげな表情に、泣き腫らしたその瞳に胸が痛んだ。
「お前が、泣いていたからだ」
「…………」
「俺がお前を泣かせてしまったのは判っているんだよ。だから俺はお前を」
「──だったら! だったら追いかけて来ないでくださいよっ!」
怒号が、ドロドロとした敵意という刃が俺に突き刺さった。
その初めての感情に一瞬思考が停止してしまう。
思い上がっていた。俺は想像以上に彼女を傷付けていたのだ。
「私だって……判っているんです。カイくんに振られた私がこんな感情を持っている自体おかしいんだって。カイくんは悪くないんだって……だけど!」
「────」
「聞きたくなかった……私じゃ決して手に入れる事の出来ないカイくんの心を奪い、それを容易く捨てた恋敵の事を。そんな恋敵をずっと想っているカイくんの事も──!」
……あぁ。
無神経だった。
彼女は悪くない。
全て俺が悪い。
「カイくんへの想いを押し殺して、いつも通り接しようと思った……でも無理です。もう、無理なんです……。貴方にその気がないと判っているのに、声を掛けられて心が弾んでしまうのも、貴方に笑いかけられる度に痛む胸も……もう、耐えられない」
失恋の辛さは俺が一番よく知っていたというのに。
そう簡単に人は切り替えられないと判っていたというのに。
俺は甘く見ていたのだ。彼女の心を。
千秋の事を大切に想っていたつもりが、逆に彼女の想いを蔑ろにしていた。
「いっそ、カイくんを嫌いになれば……そう考えても、私を救ってくれた思い出が色鮮やかに輝いて……ねぇ、教えてください。恋って、こんなに辛いんですか……? こんなに切なくなるものなんですか……!? 教えてくださいよぉ……カイくん」
堪えていた涙腺が決壊し、涙をポロポロと流しながら千秋は崩れ落ちた。
その弱々しい姿に、思いっきり抱き締めたい衝動に駆られる。
震える細い体躯を優しく抱き締め、涙を拭い、甘い言葉を囁いてあげたら彼女の痛みを取り除く事は出来るのだろうか。
──答えは、否だ。
今の千秋にとって、俺という存在は爆弾になり兼ねない。
彼女の想いの根源は俺だ。
俺を想っているが、それでいて拒絶もしている。
好意と鬱屈な感情が混ざり合い、彼女はどうすれば判らなくなっているのだろう。
そんな俺がその場凌ぎの言葉で彼女に触れようとしても、それは更に深い傷を彼女に刻んでしまう。
「俺、は……」
あぁ、判っている。
俺に出来ることは、ただ一つだけだ。
今更自分を飾ってどうする。そんなものじゃ彼女の心に届きはしない。
俺は彼女を泣き止ませる為に来たのか。彼女に謝罪しに来たのか。
違う。俺は、ただ──
「……千秋」
「なん、ですか」
「──俺はお前が好きだよ」
俺はただ、彼女に伝えたい言葉があったから、ここに来たのだ。
◇ ◇ ◇
「なにを……言っているんですか」
ゆっくりと顔を上げ、やはり信じられないといった表情を浮かべた千秋が怪訝そうな視線を向ける。
「言葉通りだよ。俺はお前が好きだ。これに嘘偽りなんてない」
「いいえ、嘘です……! 私には判ります。カイくんはまだ元彼女さんの事が好きです。私はそんな嘘なんかに誤魔化されませんっ!」
「嘘じゃないさ」
「じゃあ、なんで今なんですか!? もし私の事を想ってくれているなら、どうしてあの時私の想いを拒まず、受け入れてくれた筈です! どうして……!?」
俺の言葉に勢いよく立ち上がり、俺のシャツの襟元を両手で強く握り締める。
俺の顔に自身の顔を寄せ、少し動けばキスしてしまいそうだ。
だが、血走ったその瞳は、激情に燃える怒りは、俺への敵意に満ちていた。
そんな馬鹿な話があるかと、そう自分でも思う。
千秋が欲した関係。それを容易く否定し、その未来が握り潰されたからこそ、千秋は自身の感情を抑え込もうとした。
でも、それが出来なかったから苦悩している。
俺には判らない、身を引き裂かれるような痛みに耐え、歯を食い縛り、それでも己が好意を寄せた俺といつも通り、それでいて自身がもう割り切ったような関係を築こうとした。
「……俺は、お前が好きだ」
「っ! また……!」
「たった一ヶ月と少し。百合ちゃんに掛ける優しげな声が、農作業している時の一生懸命な顔が、この村のお爺さん達の身体を気遣う思い遣りの心が好きだ」
「────」
「お前に笑顔を向けられる度、ドキドキしているのを自覚していた。でも、俺には美春が居たから……お前への感情を見て見ぬ振りをした」
惹かれているのは判っていた。
千秋は美少女だ。それは顔だけじゃない。心までも美しい清廉とした振る舞いに何度心揺れたことか。
美春という存在がなければ、きっと俺の方から告白していたに違いない。それ程までに俺は千秋に惹かれていたのだろう。
「だっておかしいじゃないか。あの時、俺は美春の事が誰よりも好きで、それなのに千秋と付き合ってしまえば、きっと千秋を傷付けてしまう。そんな不義理を重ねれば、いつか破綻してしまう……それは何よりも残酷な事だろ。……でも、結局は俺は間違えた」
だからこそ、千秋に告白された時は嬉しかった。
あの時、美春と千秋どっちを選べばいいのか迷い、そして美春を選んだ。
でも、それは単純で愚かな事だ。薄れゆく美春への想いを喪わぬよう、微かな希望に縋っただけ。
それが千秋を傷付けるだけだと理解するのは遅すぎたのだけれど。
「浅ましいとは思っている。何言ってんだと思われても仕方ないと判っている。でも、俺がお前の告白を拒んだ時に浮かべた儚げな表情が、それなのに気丈な姿をしているお前に、どうしようもなく惹かれたんだ」
「────」
「遅いよな……でも、本当に俺はお前が好きなんだ。愛おしいと思うし、抱き締めてやりたいとも思う。……俺にそんな資格はないって知っているのに」
あぁ、なんて酷いやつなのだろう。
お前の気持ちを拒んでおいて、やっぱり好きだと手のひらを返している。
そんな愚かで無様な姿を見て、千秋の心もとうとう離れていくのだろう。
でも、それならそれで、俺ではない誰かが彼女を幸せに出来るのなら、俺は──
「──カイくん」
落ち着いたのだろう。目はまだ赤いが、どこか慈愛に満ちた声を俺の心に染み込ませてくる。
彼女は、少し高めにある俺の瞳を見上げるようにして、
「カイくんは、私が好きなんですか?」
「……あぁ」
「私と付き合いたい、ですか?」
「そう、なんだと思う」
「……美春さん、よりも……私が好きですか?」
「────」
好きだ、とは直ぐには言えなかった。
千秋の心を見透かすような瞳が、その美しい黒曜石のような瞳が、どうしようもなく恐ろしかった。
「では、質問を変えます」
千秋は俺の襟を離し、半歩俺から離れる。
その時、彼女の右の掌の中に、あのネックレスが光っているのが見えた。
あぁ、やっぱり俺は──
「私と、付き合えますか?」
俺は……まだ、
「……ごめん、千秋」
「はい」
「俺はお前の事が好きだ。でも、俺は同じくらい、美春の事が好きなんだ」
まだ、美春が心に居座っている。
千秋が好きだと自覚したところで、美春への想いが消え去る訳では無い。
それを判っていながら告白する時点で、千秋を傷付けてしまうだろうと判ってはいたのに。
「だから、お前と付き合いたいのは本当だ。でも、出来るなら……気持ちに折り合いを付けさせてほしい。そしてその時が来たら、お前がまだ俺の事を想っていてくれるなら……その、時は──」
その先の言葉を紡ぐ事が出来ない。
不意に罪悪感が襲い、どうしようもなく死にたくなる。
最低だと、指を指され罵られてもおかしくはない。それ程までに自分が言っていることを理解している。
そんなまるで苦し紛れに放ったような言葉を聞き、
「──良かった」
「────」
何を、言っているのだろうか。
千秋は瞳から涙を一筋流し、儚げな笑みを浮かべる。
信じられないと、呆然としている俺に千秋は更に畳み掛け、
「だって、私はようやく……カイくんの最愛の人と同じ位置に立てた。私にはまだ……チャンスがあるんですね……?」
そう言って千秋は笑いかけてくる。
それに俺は何も応えられない。いったい、何を言えば良いというのだ。
こんなにも情けない姿を見せつけて、どうしてそんな曇りのない言葉を紡げるというのだ。
「なんでだよ……俺は最低な事を言っているつもりだ。それなのに、どうして受け入れられるんだ? お前は、何も思わないのかよ……?」
「はい、カイくんは最低ですね」
「ぅぐっ……」
「自分に告白してきた人を振って、今度は好きだって言うなんて、どれだけ人の心を弄ぶんですか? それで今度はちゃんと折り合いをつけるまで、自分の事を好きでいて欲しいだなんて、なんて酷いんですか。甲斐性なしですし、とっても自分勝手です」
千秋の言葉一つ一つが、俺の胸を貫く。
そう言われるのは判ってはいたが、改めて言われるとグウの音も出ないし、何より自分への嫌悪感が半端なく溢れ出てくる。
「だったら、どうして……」
「カイくん、女の子を舐めないでくださいね」
チョンと、千秋の人差し指が俺の唇に添えられる。
その行為に顔が熱くなる。そして指が唇に触れているせいで話す事の出来ない俺に対し、
「──それだけで嫌いになるほど、私の恋は軽くはないんですよ?」
戯けるように千秋は笑いかけてくれる。
千秋の事を尊重しようと思っていたのに、俺はまだ千秋を甘く見ていたのだ。
千秋の恋を軽いなんて一蹴する事は俺には出来ない。何故なら俺だって同じだからだ。
俺も美春に対する想いが、簡単なものだなんて認めたくない。
「カイくん、私は貴方が好きです」
「────」
「切っ掛けはあの日の夜である事は間違いありません。あの時のカイくんの言葉に、想いに私は胸を打たれ、そして恋に落ちました」
千秋は自分の胸を抑えるように、握り締めていたネックレスを優しく包み込むように、両手を胸の前に当て、
「私にとってカイくんはヒーローなんです。暗闇の中、どこへ行けばいいか判らず、彷徨ってた私に、光のある暖かい場所に連れていってくれた私の王子様」
「────」
「子供っぽいって笑いますか? でも、あの時からカイくんにどんどん惹かれている自分がいるんです。ずっと傍で一緒に歩きたいってそう願っているんです」
その圧倒的なまでの想いに、言葉が詰まる。
心臓が激しく脈打つ。視界が狭まり、もう千秋しか見えない。
「それに、私はあの日の夜……決めたんです。──『貴方を一生信じています』って」
もう、駄目だ。
俺を肯定してくれるその好意が、何よりも嬉しい。
最低だと、これなら美春に捨てられてもおかしくないと自責の念に駆られていた俺を優しく包み込んでくれる千秋に、思わず感情が爆発しそうになる。
若干曇っている空に目を向け、溢れそうなものを目蓋を閉じることでなんとか押さえ込む。
心が晴れたわけじゃない。でも、どうしようもなく胸が熱く、込み上げてくるものがある。
「ふふっ、今度はカイくんが泣くんですか?」
「……泣いて、ねぇよ。こんな所で泣いてちゃ、男として恥ずかしいだろ」
「それよりも恥ずかしい事をしているのにですか?」
「ははっ、違い、ないな」
二人して不器用に笑う。
潤んだ瞳を袖で乱暴に拭い、無理やり笑みを浮かべた。
そうでないと、俺は涙を堪えることが出来ないから。
もしかしたら、千秋も同じなのかもしれない。
「──千秋」
「……はい」
ひとしきり笑い、俺は少し赤くなっていであろう瞳を向け、
「少しだけ、待っていてくれ」
「はい。待ってます」
「きっとこれからもお前を傷付ける。傷付けない、なんて約束は出来ない」
「そうですね。きっと、今以上に辛い事があるでしょう」
「でも、ちゃんとお前に向き合えるように頑張るから」
「はい。私も、貴方の心を独り占めに出来るくらい、頑張りますから」
簡単な事だった。
ちゃんと想いをぶつけ合い、お互いに尊重し合えば、最善とは言えないまでも、ここまで捻れる事はなかっただろう。
でも、経緯はどうであれ、俺達はようやく一歩を踏み出せた。
止まっていたこの足を、踏み締めることが出来た。
「千秋、帰ろう」
「はい、帰りましょうか。カイくんっ」
寄り添い合い、俺達は歩き始める。
きっとこの道が、未来に続いていると信じて。
──そして、
◇ ◇ ◇
「──見つ、けたわ……!」
背後から、声が聞こえた。
その澄んだような声音が、砂漠に落とされた水のように心に染み込んでくる。
愛おしいと思ってしまった。
その声をずっと聞いていたいと思ってしまった。
でも、そんなのは、おかしいではないか。
「うそ、だ……」
そんな、筈がない。
『彼女』がこんな所にいるわけが無い。
だって、もう既に道が分かたれた筈だ。
俺達の道が交わることはない。きっと、何かの間違いだ。
だが、俺が『彼女』の言葉を聞き間違えるわけが無い。
「カイくん?」
千秋が怪訝そうな表情を向ける。
そして、千秋が背後を振り向き、俺も釣られてそちらの方に顔をゆっくりと向ける。
「どう、して……?」
いつも束ねていた栗色のサイドテールは下ろされていた。毎日のように綺麗に解かされ、『彼女』が自慢げに触っていた髪は少し荒れているように見える。
ナチュラルメイクで更に美しさを際立たせていた顔はノーメイクで、キラキラと光っていた大きな瞳はどこか虚ろな目をしていた。
色々と変わってはいるが、間違えるはずはない。
『彼女』を瞳に入れ、心臓が激しく脈打った。
どうして、お前が、ここにいるんだ?
「ずっと探していたわ……何も言わず居なくなって、毎日心配してて、貴方がいない間、ずっと生きた心地がしなかった」
『彼女』は肩にかけてきたボストンバッグをその場に下ろす。
「でも、カイのお母さんから居場所の手掛かりを聞いて、直ぐに追い掛けてきたわ……そして、ようやく会えた……!」
そのまま『彼女』は……『辻本美春』は俺の元に走り寄り、
「会いたかったわ──カイっ!!」
唇に強い衝撃。血の味。
力強く身体を抱き留められ、その勢いに負けてそのまま二人して仰向けに転がってしまう。
視界いっぱいに広がるのは、美春の顔。
瞬間、ようやく俺は美春に乱暴に唇を重ねられていると気付いた。
不意に、千秋の顔が目に入る。
信じられないといったように、瞳が揺れている。
俺と美春の姿を瞳に映し、ゆらゆらと揺れている。
ゆら、ゆら。ゆらゆらと──
 




