第二十五話 『胡蝶の夢と訪れる者』
幼馴染のターンだ!
「────」
あぁ、何か声が聞こえる気がする。
綺麗な声だ。澄んでいて、どこか懐かしい……そんな声。
その声を聞くと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。手を伸ばしたい感情に駆られる。哀愁とでも言うべきなのだろうか。
声の主を確かめる為、目を開けようとしても、何も見えない。まるで深い深い海の底に沈んでいるような感覚。
「────ぃ」
何処が上なのか下なのか。それも判らず、ただこの空間を漂っている。
何時までこうしているのだろうか。何処に辿り着くのだろうか。
ふと、森の中で笑う黒髪の少女の姿が頭を過ぎった。
誰なのだろう。
大切な人だった気がする。泣かせてはいけない人だった気がする。
俺は、いったい何をしているのだろうか──
「────こぉら、カイッ!」
「へぶっ!?」
不意に両頬に走る衝撃と痛み。
ヒリヒリとした熱が、不明瞭な世界に沈んでいた俺の意識を急浮上させる。
何も見えなかった世界がクリアになり、目の前には眼鏡をかけ、整った容姿をした少女の大きな瞳が、レンズ越しに俺の顔を覗き込んでいた。
例え眼鏡をかけてようが、彼女の事はハッキリと判る。
「み、美春!? お前、どうしてここに……?」
「なぁに寝惚けたこと言ってるのよ。私をデートに誘ってきたのはアンタでしょ?」
「えっ、デート……?」
「そうよ。ほら、付き合って一年半記念。……まぁ、私がその日は仕事があるから、少し早めの記念日だけどね」
申し訳なさそうに、人差し指で頬を掻く美春。
ふと周りを見渡すと、煌びやかなイルミネーションや店の明かりが夜になり暗くなった街道を照らしている。
その街道には手を繋いだカップル達が楽しそうに会話を弾ませ、歩を進めている。
「……そうか、そうだったな」
そうだ。今は美春と俺が付き合って一年半記念としてデートしているんだっけ。
どうしてこんな大事な事を忘れていたのだろう。
確か美春が俺と記念日を一緒に過ごせない事に悲しそうな表情を浮かべていたから、俺が代わりにこの日を提案したんだった。
「カイ?」
「いや、何でもないよ。それじゃ、行こうか」
「えぇ、そうね」
そう言うと、美春は俺の左腕に自身の両手を回して抱き締めるように歩き出す。
美春の意外と大きくて柔らかい感触が腕に残り、思わず顔が赤く……って、おい。
「ちょっとお前、離れろっ。一応アイドルだろうが。こんなのマズいって……!」
「一応も何も正真正銘、私はアイドルなんだけど。なぁに? 私に抱き締められるのがイヤなのー?」
「嫌じゃない。寧ろご馳走様です……じゃなくて! アイドルが男とくっ付いてたら大問題だろ。ただでさえ最近人気出ているのにさ」
正直、この関係自体、駄目なのは判っている。
でも、それを踏まえても、俺は美春と一緒にいたい。やっと付き合えたというのに別れるなんて以ての外だ。
「あぁ、そういうこと?」
美春は納得がいったようにポンっと両手を合わせる。
そして得意気に笑みを浮かべ、
「何のために変装していると思っているのよ。大丈夫。周りからは『リア充爆発しろ。男の方だけ』としか思われてないわよ」
「男の方だけかよ! というか本当に思われてそうで怖いんですけど」
実際、美春はアイドルをやっているだけあって可愛い。
乳白色のカーディガンに黒っぽいチェックのスカート。長い髪を下ろし、その上には赤いニット帽を被っている。
花の高校生みたいな印象だが、伊達眼鏡が童顔な美春の印象を自然と落ち着かせている。
つまり何というか、アイドルらしい派手さは無いけれど、それでもめちゃくちゃ可愛い。
恋人補正なのかもしれないが、ニコニコと俺の腕にしがみついている美春の姿に、街道を歩いている男性陣の視線が向かっているのが何よりの証拠だと思う。
「それじゃ、さっさと行くわよ」
「結局このまま歩くのか……」
引き摺られるようにデートを続ける俺と美春。
お洒落なレストランで食事をし、見る人全員が砂糖を吐くであろう『食べさせあいっこ』をしたり、美春による俺のお着替えショーが始まったりと楽しい一時が過ぎていく。
「あっ! カイ、ちょっとこれ見て!」
当然の如く腕を組みながら歩いていると、美春が何かに興味を惹かれたのか、俺を引っ張りながらとある店に入っていく。
デパートの中というのにカラフルなキラキラとしたイルミネーションをふんだんに使い、どこか高級感を漂わせるその店は貧乏学生である俺にとってはあまりにも場違いな場所。
「……ジュエリーショップ?」
店内に入るとカウンター席のような所に様々な宝石やアクセサリーがガラスケースの中に鎮座している。
そのアクセサリーを眺めている客は、俺たちと違って社会を経験してきたであろうサラリーマンやその恋人だ。
間違いなく、経済的な面で俺がここに来るのは間違っているような気がする。
「ほらっ、カイ! ここが彼氏の最高の見せ場だと私は思うわよ!」
「いやまてまて。確かに恋人にアクセサリーだのなんだの買うのは男の甲斐性の一つだと思うけど、流石にこれは色々と駄目だと思うんだよ俺は」
主に経済的な理由で。
「ほら、この指輪とか私ほしーなー?」
「指輪? ……っておおっ!?」
大きなダイヤモンドがハマったリング。何カラットかとかは判らないが、うちの母親が嵌めてる指輪のダイヤよりも全然大きい。
そしてそのお値段は0が沢山あって──
「いや、無理、マジで無理! この指輪買えばもう破産どころじゃないんですけど!?」
貧乏学生の俺にとって一万円でも出すのは渋るレベルだ。貯金はほぼ0に近く、この指輪を買おうとすれば、もやし生活を何ヶ月も続ける羽目になる。
「……プッ、あはははっ! 冗談よ冗談! アンタの懐くらい把握してるわよ。そんな本気に受け取らないでよ」
「まぁ、俺も冗談だと思ってたけどさ……。これがガチだったら俺、お前との交際をちょっと考えるレベルだから」
「ちょ、酷くないっ!?」
「酷くない」
ふと周りを見ると、俺たちの馬鹿みたいなやり取りを聞いてか、周りのお客さん達がクスクスと笑いを堪えていた。
それに気付き、俺と美春は顔を赤く染める。やっぱり場違いだったんじゃないかなんて、その思った。
ただ、このまま美春にやられっぱなしというのも気に食わない。
俺は美春の度肝を抜かせれるような、それでいてさっきよりも数倍羞恥に駆られるような言葉を、逡巡しつつ口にした。
「ま、まぁ、なんだ。いつか──その時が来たらな」
「えっ?」
言葉にした瞬間、顔が赤くなる。
美春は俺の言葉の意味を噛み砕いて徐々に理解すると、ポンっと顔をトマトのように赤く染める。
そして、そのまま両手で俺の左手を握り、
「──その時を、楽しみにしてるわよ」
俺が告白した『あの日』。
美春が浮かべた笑顔は、あの時と同等かそれ以上の最高の笑顔だった。
その笑顔に圧倒され、惚れ直した感覚に駆られた。
恥ずかしくて美春の顔を見れず、顔を背けていると、不意に美春が声を漏らした。
「ど、どうした?」
まだ赤面から戻っていない顔を美春の方に向けると、美春はガラスケースの中のとあるアクセサリーを見ていた。
それは歪んでいるようで何処か惹かれる曲線を描いたハート型のリングのついたネックレス。
そのリングの中央には、ピンクゴールドとアクアマリンのジュエリーが美しい光を放っている。
……成程な。
「これ、欲しいのか?」
「えっ!? いや、まぁ、素敵だなぁとは思ったけど……」
「そっかそっか……」
値札を見る。指輪のように手が出せない程ではない。もう少しバイト増やして少し貯金すれば買うことは出来るだろう。
俺には指輪を買えるような金もないし、美春を満足させられてるか判らない。
でも、愛情くらいなら俺だって示すことは出来る。
「よし、これ買ってやるよ」
「へっ? べ、別にいいわよ。買ってくれなんて言うつもりもなかったし。それにこれ、結構高いわよ?」
「別に今すぐってわけじゃないさ。俺だって今はお金持ってないし。でもさ。あと半年後、記念日だろ?」
「……えぇ、そうね」
美春は合点がいったように頷く。
「理解したか? まぁ、折角だしさ。記念日くらいお前にもちゃんとしたプレゼントあげたいし、喜んでもらいたいっつーかなんというか……」
鼻頭を爪で引っ掻きながら美春に笑いかける。
記念日の日はいつも食事だの映画だの、プレゼントはちょっと高めの服だったりと、そこまでお金をかけたりはしていなかった。
ちょっとお高い出費ではあるが、忙しくなってきた美春との何か形に残るモノが欲しかったのかもしれない。
「ふふっ、馬鹿ね。そんな見栄はらなくてもいいのに。らしくないわよ?」
「うるせー。男には格好付けたい時があるんだよ」
俺の頬を美春は指で突っつき始める。
それが美春の照れ隠しだという事は、長年の付き合いで理解していた。
「……ありがと」
「……おうっ」
お互いに顔を合わせ、一瞬の沈黙のあと、どちらからともなく吹き出した。
「よーし、判ったわ! 半年後を楽しみにしてなさい。私がとびっきりのプレゼントを用意してあげるわ!」
「お前のとびっきりってなんか怖いんだけど」
「なんでよ! 大丈夫よ。期待してていいわ」
「……判った。期待してる」
さっきの空気からいつもの空気に変わっていく。
心地いい。なんだかんだ、親友みたいな雰囲気が俺たちらしい。
「……ねぇ、カイ」
「ん?」
ふと、美春が俺の服の袖を引っ張る。
俺が眉を潜め、彼女の顔を覗き込むと、
「カイは今……幸せ?」
「────」
にひひっと少年のような無邪気な笑みを浮かべた美春。
そんな彼女に伝える答えは一つしかない。
「……あぁ、今が一番幸せだ」
この幸せがずっと続けばいいのに。
そう、思ってしまった──
◇ ◇ ◇
ゆらゆら、ゆらゆらと。
獣道のような整備されていない道を走っているせいか、車体が大きく揺れ動く。
そのバスに乗っている乗客は若い女性一人。
ただ何もせず、窓の外をただ見つめるだけだ。
「──お客さん。なんでまたこんな辺境なトコに向かってるのか聞いてもいいかい?」
不意に、バスの運転手が大きな声でそう呼び掛ける。
女性はその言葉に反応し、それが自分に向けて投げ掛けられていると理解すると、固く閉じていた唇をゆっくりと開いた。
「……忘れものを、探しに来たのよ」
その言葉に運転手は首を傾げる。
もう何年もこのバスを運転しているのは自分だ。そして自分以外に『そこ』を目的地とした車両も居ないはず。
だが、運転手はこの女性を見たことがなかった。
「忘れもの、ですか。いったいどんなものを?」
運転手は違和感は感じつつも、沈黙に耐えきれないのと会話を弾ませるという運転手のプライドから話を続け出す。
女性はそれに嫌な顔一つせず、虚空を見つめながら、
「大切なものよ。本当に本当に、大切な……ね」
その万感の想いが込められた言葉に、運転手は言葉を返せなかった。
女性がどんな表情をしているのか判らないが、運転中の自分は女性が浮かべている表情を見ることが出来ない。
ただ、これ以上追及してはいけないと感じ、運転手は女性に話しかけるのを止めた。
「何処かで聞いたことある声だなぁ」
独り言のようにそう呟く。
最近、少し前まで何処かで聞いたことのあるような声音だった。
知り合いには居ないはず。
となると有名人の誰かか?と考えたが、そんな事は無いだろうとその考えを一蹴する。
まぁ、誰であろうと自分は関係のない話だ。
自分はただ、目的地までこのハンドルを握るのみ。
「それにしても……」
──この一月で二人も『カスミ村』に向かう人がいるなんて。
珍しい事もあるものだとそう思った。
一月前に訪れた青年と忘れものを探しに来たという女性。
あの村は自然豊かである事以外に特に目立った所はないと記憶している。
自分の知らない間に何か名産品等が出来たとでも言うのだろうか。となるとこれから忙しくなるのかもしれないと運転手は溜め息を吐いた。
もしくは、
「……あの男女が恋人だったりして」
そんな馬鹿な事を思い浮かべ、そしてその考えは直ぐに霧散した──
奴の足音が近付いてくる……。