第二十三話 『天秤と最低な自分』
割烹にオススメ小説書いといたので良かったらどうぞ。
「──あなたが、好きです……っ!」
それを口にした瞬間、千秋の瞳から一筋の涙が零れた。
その熱く儚げな瞳に、その想いに、圧倒される。
胸に来るものがある。掻き毟りたいほどのナニカが込み上げてくる。
でも、俺の胸にあるのは喜びでも驚愕でもない──痛みが胸の内に走った。
「好きです……好きですっ……好き、なんです……!」
首に回された腕は、いつの間にか俺の襟元をキツく握り締め、千秋の溢れんばかりの感情を表している。
薄々、気が付いていた。
確信はなかった。俺は告白など一度もされた事がなかったから。
自信がなかった。その想いをぶつけてきた人は一人しかいなかったから。
俺が愛し、愛されたのは世界でただ一人。──辻本美春だけだったから。
「どう、して」
そんな言葉が自然と口から零れていた。
そしてその言葉を口にした瞬間、罪悪感で胸が締め付けられる感覚に襲われる。
「判り、ませんか?」
「────」
その問い掛けに、俺は直ぐに応える事が出来なかった。
判らないんじゃない。俺は知っている。知らない、筈がない。
俺と千秋の関係が変わったのは『あの時』しかないのだから。
「カイくんにとって『あの日』をどんな風に思っているのか、私には判りません」
千秋は一瞬穏やかな顔を浮かべ、万感の思いを込めて瞳を閉じる。
どんな事を思っているのか、何を思い出しているのか、俺には判らないけれど。
「でも、それでも……私にとってあの出来事は、本当に『特別な日』になっているんです」
俺の首から離した手を胸に当て、千秋は俺の瞳を強く見つめてそう言い放った。
千秋の瞳に映る俺が目に入る。
そこに映る自分は酷く顔を歪ませ、唇を噛み締めて、俺は千秋の瞳から……そんな自分から目を逸らした。
「そんなのは……きっとお前の勘違いだ」
「勘違いなんかじゃありません」
「あの時、俺の言葉が少しでもお前に届いてくれてるのは嬉しい。でも、多分その時の恩みたいな感情を、好意的な想いを『恋』だって思い違いしてるだけなんだよ」
「そんなこと……」
「そうなんだよ……!」
千秋の視線を、好意を、想いから逃れたいが故に俺は声を荒げる。
その言葉を聞き、千秋が悲しみに顔を歪ませたのが目に入った。
違う……俺はそんな顔が見たくてそう言っているんじゃない。
「……ごめん、言い過ぎた。取り敢えず離れてくれないか」
「…………はい」
名残惜しそうに、千秋は俺から身体を離した。
離れることにより、改めて千秋のバスタオル姿が目に入って視線を千秋に固定することが出来ない。
取り敢えずベッドのシーツを引っ張り、それを千秋の身体を覆い隠すように渡した。
「ありがとうございます。やっぱり、優しいですねカイくんは」
「そんな格好でいられて平然と話せるくらい神経は図太くねぇよ……」
千秋は判っているのだろうか。
こんな場所で、こんな状況で、こんな格好で。
普通の男であれば、襲われても仕方がないと思う。俺が美春に対しての想いを振り切れていたのなら、実際にどうなっていたのか判らない。
そこまで、この俺を信頼しているということなのだろうか?
「まぁ、取り敢えずだ。もう一度聞くけど……本気なのか?」
「本気です。私はカイくんが好き。まだ、信じていないんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
千秋の好意は、確かめなくても判る。
というか、こんな状況で千秋の想いが『偽物』であるとは到底思えない。
でも、
「俺さ……自信がないんだ」
「自信、ですか?」
「あぁ。誰かに大事に想われてる……好きだって本気で思ってくれてるか、それが嘘であった時、怖くて怖くて堪らないんだ」
胸の内で燻っているこの感情。
俺は『あの日』からずっと、この鬱屈とした思いに苛まれている。
「俺が欲したものは……俺が本気で大切に思ったものは……この手から簡単に零れ落ちちまう」
ずっと一緒にいると誓った。
ずっと愛していると誓った。
それが当たり前で、真実で、揺るぎないもので。
そう思った矢先、俺は大切な人を失った。
一緒に過ごした時間が長いとか、そういうものは関係ない。そんな形ないものなんて、最初から意味がなかったんだ。
人の気持ちは簡単に変わる。俺はそれを知った。知って、しまった。
そして、それは俺にも言えることで──
「千秋が本気で俺のことを好きだって言ってくれたのは嬉しい。本当に、本当だ……けど」
千秋の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめてくれる。
そんな純粋な気持ちを向けられて、誤魔化すのは出来ない。
その双眸に映る俺の姿は、なんて弱々しいのだろうと、まるで他人事のように思った。
「俺はその気持ちを受けとれない。受け取る勇気がない。もし、その想いに手を伸ばせば、それからは幸せな日々が送れるだろうけど。でも、もしまた──」
「──また、裏切られたら……それがカイくんを苦しめてる事なんですか?」
俺の言葉に被せるように、千秋は俺の言葉を代弁する。
なんで俺の言葉が判ったんだ……疑惑より困惑が頭を支配した。
「どう、して……それを」
「……はぁ。カイくんって、変なところで鈍感ですよね」
心底呆れたように、千秋は苦笑する。
「鈍感って……そんな事ないだろ」
「鈍感ですよ。というか、明らかにそんな感じの事を口に出してましたし、それに……カイくんを好きになった私が気付かないわけないじゃないですか」
「────」
駄目だ。止めてくれ。
「カイくんが誰かの好意を信じられないとしても」
そんな事、言われたら。
「カイくんが……私の事を信じられなくても、構いません」
そんな甘美な想いを向けられたら。
「カイくんのそんな疑念を塗り潰すくらい……私がカイくんの事を好きでいますから」
決意が──揺らいでしまう。
「カイくん。私じゃ駄目ですか?」
「そ、れは……」
「私じゃ、カイくんの心の中にいる女の子の代わりには……なりませんか?」
そんな事はないと、口に出したかった。
千秋と過ごしたのはたった一ヶ月と数日だけ。
でも、その短い時間で千秋はもう俺にとって大きな存在になってきている。
千秋なら、きっと俺を裏切らない。
千秋なら、きっと俺と一緒に居てくれる。
千秋なら、きっと──
「────」
「カイ、くん……?」
急に立ち上がった俺に、千秋は困惑の声を上げる。
千秋の言葉に対する『返答』ではなく、意味が判らない『行動』を起こしたのだから、理解が出来なくて当然だろう。
俺はそのまま軽く千秋に視線を向ける。
千秋と視線が合い、その瞬間、千秋の表情が歪んだのが見えた。
彼女は、俺の行動の意味を理解してしまったのだろう。
その表情に、流れた一筋の涙に、俺は胸が張り裂けそうになる。
でも……それ、でも、
「──ごめん」
口に出た謝罪の言葉。
それは、千秋に対する『返答』であり、『拒絶』だった。
「やっぱり……俺はお前の気持ちを受け止めることは、出来ない」
拳を強く、強く、痛くなるほど握り締め、俺は掠れた声でそう口に出した。
「……わ、私の事が好きじゃないって……そう、言うんですか……? やっぱり、私じゃ、貴方の心に少しでも居座ることは……できないって、そういう事、ですか……?」
「違う。そうじゃない……!」
「じゃあ、どういう事なんですか……っ?」
煮えきらない俺の言葉に、千秋は震えた声でそう訴えかける。
違う。俺は、千秋の事をどうでもいいなんて、何も想ってないなんて、そんなことはないんだ。
千秋は確かに、俺の心の中で大きな存在になっている。
──でも、
「……俺の、我儘なんだよ」
「えっ……」
「このまま待っていれば、元カノは……美春が俺の元に帰ってきてくれるんじゃないかって、そんな有りもしない幻想に縋ってる……」
千秋の事が嫌いだから、好きじゃないからってそういう事ではないのだ。
差し伸ばされた千秋の手を掴もうとすると、美春の顔が頭を過ぎる。
『みはる、カイとけっこんする~!』
『やくそくだよ。りっぱなおとなになったら、けっこんしようね!』
あの約束が、あの幸せな日々が、俺の足を止めてしまう。
子供の頃の約束だ。考えなしにした約束だ。今とは違う。
現に、美春は俺ではない誰かの隣を歩いている。
そんな最愛の彼女の背中を眺めながら、俺は隣に美春の幻影を錯覚し、その場に留まり続けている。
浅ましくも情けない。そんな希望に縋って何になる。
それを判っていてなお、俺は歩き出すことが出来ない。
そんな俺が、歩みを進め出した千秋の隣に居て……いい訳が無い。
「最、低だよな……俺は千秋に惹かれつつ、かつての恋人にも想いを寄せている」
「…………」
「あわよくば、元カノとヨリを戻せたら良いなぁって、そう思ってしまってるんだ。そんな起こりえない奇跡を信じて、縋って、千秋の気持ちを流そうとしているのは判っているんだけど」
千秋は黙って悲しげな瞳を揺らす。
俺の答えに対する嘆きなのか、それとも俺への哀れみなのか。
どちらにせよ、千秋が今も傷付いている事は……判っていた。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
呟かれた謝罪に気の抜けた声が出る。
何故、自身を拒んだ俺に謝るのだろうか。
何故、そんな悲しそうに笑うのだろうか。
そんな疑問が頭を埋め尽くす俺に対し、千秋は俺の頬に優しく触れる。
「私が思っていた以上に、カイくんは、その……美春さんって方が好きだったんですね。それなのに私は……」
──代わりになりますって無神経な事を……。
そう、自責の念を込めて千秋は表情を歪ませた。
それでも頬に触れる手の温もりが、暖かくて。心までもが包み込まれるみたいで。
「いや、そんな事は……」
俺は嬉しかった。
千秋は俺を立ち直らせようとしてくれた。
ただ、俺が自分の弱さに目を逸らしてるだけで。
ただ一つ言えることは、千秋は何も悪くないのだ。
「貴方を見てると心がぽかぽかしました。貴方と話していると楽しかった。貴方の側にいると凄く嬉しくて……せつ、なくて」
「────」
改めて囁かれる独白に、俺は顔が熱くなって、胸が痛い。
千秋の少し紫がかった黒い瞳が俺を真っ直ぐに見つめてくれる。
それに、揺らいでしまう。
やっぱり可愛いなぁと、そう思う。
瞬間、この小さくて薄桃色の唇にキスを落としてしまいたい衝動に駆られた。
俺の事をこんなに好いてくれる女の子に想いを告げられて、千秋の乗った天秤に比重がかかるイメージが湧いた。
まだ美春の方に軍配が上がっているが、揺れる。揺れる。
「…………でも」
そんな醜い考えに、自分自身に嫌悪感を抱いた時、千秋の小さな唇が動く。
「でも、それはこれでもう終わりです」
頬に触れていた手の温もりが離れていく。
千秋が自身も一歩下がり、儚げな笑みを浮かべ、
「そんな想いを見せつけられたら、諦めるに決まってるじゃないですか」
「千秋……」
「私はもう諦めて次の恋を探します! ですので、カイくんも私の事を忘れて、その想いにちゃんとケリをつけないとダメですよ?」
「…………」
「じゃないと、私が振られた意味がないじゃないですか?」
片目を閉じ、上目遣いで俺を叱りつけるように千秋がそう微笑んだ。
ドクンっと、心臓が鼓動する。
「ぁ……」
その笑みに、無理に微笑む健気なその姿に、胸が高鳴る。
天秤が、天秤の揺れが、止まった。
美春と千秋が乗った天秤。それにもう勝敗などない。
この瞬間、天秤は釣り合う。どちらも、同じくらいに。
そう思った時には、もう遅くて──
「千秋、俺は……」
「はいっ! この話はもう終わりです! ほら、カイくんもさっさとシャワーを浴びてきてください。ちょっと汗臭いですよー」
無理に笑い、空元気を出していることは判る。
そんな彼女に俺は何か話そうとして、何も口に出せない。
俺はもう、自分が判らない。
「……じゃあ、俺もシャワー浴びてくる。……千秋」
「はい?」
「その、……ごめん、な」
「────ッ」
千秋の笑顔が歪んだのを最後に、俺は千秋に背を向けシャワールームに入る。
──あぁ、間違えた。
きっと俺はまた間違えたのだ。
美春を喪ったあの日から、もう間違えないと決めていたのに。
俺はまた、大切な人を悲しませた。
後悔だけが俺の心に凝りのように残っている。
美春が好きだからって言えれば良かった。お前の事は嫌いだって言えれば良かった。
でも、俺自身気持ちの整理がつかないまま、千秋に惹かれてしまっていた俺は中途半端な答えを出してしまった。
そして、散々千秋を悲しませといて、俺はまた、自分の答えに揺らいでしまった。
「──あぁ……最悪だ」
自己嫌悪に苛まれながら、俺は微かに聞こえる千秋の泣き声から耳を塞いだ。
◇ ◇ ◇
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
いざとなったら、自身の身体を使ってでも、カイくんを振り向かせたかった。
カイくんの心にいる誰かに、負けたくなかった。
でも、負けた。
私じゃカイくんの一番になれなかった。
諦めよう。カイくんの事は諦めて、また違う恋を探そう。
──そんなこと、出来るわけないじゃないですか……っ!
諦められるわけない。
カイくん以外の人なんて考えられない。
でも、もうその道は交わらない。
カイくんが拒んだ。
私が……繋がっていた最後の糸を切り取ってしまった。
涙が止まらない。私は初めて『失恋』した。
──それでも、私は貴方を……っ。