前編
それはそれは見事な泣き方だった。
小さな手足で必死になって母親にしがみつき。
天使のように愛らしい顔は盛大に歪められ。
柔らかそうな白い頬をりんごのように真っ赤にして。
ぎゃあああああん、とお腹の底から振り絞られる泣き声。
幼い少女は、命の限りを尽くして、怯え、怖がり、泣いていた。
それはなんて――
*****
国の北の端にあるこの村では、一年の半分は雪景色を見ることができる。身近な存在である雪に親しみを込め、村では雪にちなんだ言い伝えや昔話が多い。
雪鬼は、そんな昔話に出てくる恐ろしい化物だ。
ぎょろりとした大きな目と鋭い牙を持つ化け物。大きな斧と大きな鈴を携え、山羊の毛皮を纏った彼らは、冬の寒い夜に子供を攫いにやってくるという。
『悪い子は雪鬼に連れて行かれるよ』
我儘な子、夜更かしをする子、嘘を付いた子、お手伝いをさぼった子。
大人達はそう言って、言うことを聞かない子供に注意する。雪鬼の怖い話を散々聞かされて育った幼い子供達は震えあがり、大人の言うことを素直に聞いた。
しかしいい子にしていれば、雪鬼は祝福と春を届けてくれる。雪鬼に頭を撫でられた子供は一生健康であり、食べるものに困らないのだ。
そんな昔話を元にした村の祭りは、冬の終わりに行われる。春を待ち望む村人にとっては、一番盛り上がる祭りでもあった。
祭の主役となる『雪鬼』には、村の十二歳以上の独身男性が扮する決まりだ。山羊の毛皮のマントに鬼のような面をして、手には古びた斧、腰には牛の首に下げる大きな鈴をたくさん付けて、がらがらと音を立てながら村内を練り歩くのだ。
雪鬼は外にいる親子連れに近づいては、子供を散々に泣かした後に頭を撫でる。雪鬼が練り歩く夕刻には村中に幼い子供達の鳴き声が響き渡り、大人達はそんな子供達をあやしながら大声で笑う。
恐ろしい鬼の面を被った雪鬼は、子供達の心に恐怖を植え付けていた。
もっとも、ほとんどの子供達は十歳を過ぎれば雪鬼が昔話の架空のものであると気付く。そうして染み込んだ恐怖が薄れてしまえば、大人達と同様に祭りを楽しめるようになるのである。
だが、フレッカは十六歳になった今でも雪鬼が苦手であり、祭りを楽しめることはなかった。
それもこれも、一人の青年のせいである――
***
「フレッカ!」
馴染みの生地屋から出た後、村の小さな通りを歩いていれば大きな声で名を呼ばれた。
名は呼ばれたが振り返ることはせずに、フレッカは分厚い毛織りのショールをきっちりと肩に巻き付けた腕に力を込めて、歩き続ける。通りすがった老婦人の二人組や、酒屋の店先の樽に座った老人が、「あらあら」「おやおや」「またかね」と微笑みや苦笑や生温い視線を送ってくるが、それも無視した。
凍える寒気の中、目線を下げて白い息と共に歩を進めていたが、すぐに何者かの足音が近づいてくる。
隣に追いついた大きな焦げ茶色のブーツが目に入り、フレッカはちっと思わず舌打ちしてしまった。礼儀作法に厳しい祖母が見たら怒りそうだ。
「やあ、フレッカ。一週間ぶり」
隣で少し身を屈めた青年が、顔を覗きこむようにして挨拶してくる。
フレッカは横目で彼の方を見ながら、素っ気なく返した。
「どうも、マリさん」
「やだなあ、呼び捨てでいいって毎回言ってるのに」
「八つも年上の方を呼び捨てなんてできません、と毎回お答えしています」
冷たい声で返す先にいるのは、黒髪の青年だった。
緩く癖のある黒髪に、緑色の目、甘い笑みが似合う整った顔立ちを持つ彼の名はマリ。村長の次男であり、今年二十四歳になる青年だ。フレッカが四歳、マリが十二歳のときに出会い、以来、何かとフレッカに構ってくる。
フレッカよりも頭一つ分高いマリを見上げれば、彼はふふっと笑った。
「相変わらず白雪霊みたいだね」
「……」
雪に宿る女性の精霊に例えられて、フレッカは口を引き結ぶ。
銀色の髪に青い瞳を持つ美しい女性の姿をした精霊、ネージュブラン。
確かに、フレッカの髪は銀色に近い白金色だし、目も薄い青色で、容姿は少し似ているのかもしれない。
だが、ネージュブランといえば、プライドが高くて冷たい女性の代名詞。雪道で迷った村人を凍らせては魂を吸う――まあ、気まぐれで助けることもあるらしいが――冷酷な精霊なのだ。
確かに、フレッカは愛想が無く感情をあまり面に出さないせいか、周囲の人には冷たい印象を与えている。
自覚はしているが、例えられて嬉しいわけがない。
「冷たいと言いたいわけですか」
「違うよ。綺麗だって言いたいの」
気障なことをさらりと言うマリに、フレッカは眉を顰める。相変わらず歯の浮くような台詞が得意な男だ。
付き合ってられるかと歩調を速めて彼を振り切ろうとしたが、すぐに追い付かれてしまった。
「フレッカ、暇なら少し付き合ってよ」
「暇はありません」
「納品も終わって、後は家に帰るだけだろ?」
「買い物がありますから」
毎週月曜日、村の外れに住むフレッカは、祖母と作った毛織物を生地屋へと納品しにやってくる。
幸いにもフレッカ達が作る毛織物は好評であり、相場よりも少し高い値段で引き取ってもらえていて、祖母と二人暮らしでもやっていけていた。そして、もらった代金でそのまま食料や生活用品を買って帰り、それ以外はほとんど家で過ごしている。
雪で覆われたこの村の女性は毛織物を織ることを代々の生業とし、家の中に居ることが多いが、若い女性はその限りではない。年頃にもなれば家の外に出てカフェに集い、お喋りに花を咲かせたり、同じ年頃の男性と出会って恋をしたりするものだ。
しかしフレッカは、家で織物を織って一日を過ごし、他の若者達と触れ合うことはしなかった。
人見知りで無愛想という性格のせいもあるが、原因の半分は目の前のこの男にある。だからといって今さら文句を言っても仕方なく、フレッカはマリから目を逸らした。
マリはめげるという言葉を知らぬかのように、フレッカに話しかけてくる。
「だったら、荷物持つの手伝うよ」
「いいえ、けっこうです。あなたの方こそ暇は無いのではありませんか?」
「え?」
「生地屋のハンスさんから聞きましたよ。麓の町のお嬢さんとの縁談があると」
「あー…」
フレッカの指摘に、マリが困ったようにうなじに手を当てて空を見上げた。
「親がうるさくてね。話が出ているだけだよ」
「すでに相手にお会いしたと聞きましたが」
「あれ?もしかして僕の縁談に興味ある?」
「ありませんが、ハンスさんの娘さんがいろいろ話していましたから」
そう、先ほど生地屋で会った店主のハンスの娘――アンナは、フレッカにわざわざ言ってきたのだ。
『あら、あなた知らないの?マリさん、縁談が決まったそうよ。ウチの店が取引をしている商家のお嬢さんなの。麓じゃとても有名な商家なのよ。そうそう、この間、マリさん麓の町に行ってお嬢さんに会ってきたんですって!お似合いの二人だわ、きっと』
『ねえ、あなた、いい加減マリさんを諦めたら?マリさんがあなたを本気で相手にするわけないじゃない。いつも構われているからって、あまり調子に乗ると後で痛い目を見るだけよ』
『あなたに両親がいないから、可哀想がって相手をしてあげてるだけ――』
嫌味交じりの声が耳の中に蘇える。途中でさすがにハンスが怒ってアンナを叱っていたものだが、フレッカは今さら傷つくことは無かった。
生まれて間もない頃に父を亡くし、そして六年前には母を亡くした。『早くに両親を亡くした可哀想な子』は、フレッカに貼られたレッテルなのだ。
――最初からわかっているわよ、そんなこと。
胸の内で吐き出しながら、フレッカはマリを睨むように見上げた。
「もうあなたも二十四歳でしょう。あなたのお父様である村長の面目もありますし、そろそろ身を固めた方がよいのではありませんか?」
きっぱりと言ってやれば、マリは驚いたように目を丸くしてこちらを見下ろしてくる。なぜフレッカがそんなことを言い出すのか、と問い質しげな視線を感じたが無視して冷たく言葉を続けた。
「それにいい加減、『雪鬼』役も卒業したらどうですか。子供を泣かして何が楽しいのか――」
「フレッカ」
びしりと遮ったのは、硬く乾いたマリの声。
「それは僕が決めることだ。君には関係ないよ」
「っ…」
いつもと違う声音に、フレッカは驚いてしまう。
いつも、柔らかく優しい、甘ったるい声しか聞いたことがなかったからだ。こんなに冷たい声を出せるのだと頭の片隅で感心しながらも、胸の底がひやりと冷え込んだ。それはきっと、マリの怒りを感じ取ったからだろう。
フレッカは内心で驚きながら、しかし表情は変えずに頭を下げた。
「…そうですね、口が過ぎました。すみません」
謝れば、マリの溜息が聞こえる。
「別に謝らなくていいよ。そうじゃなくてさ…」
マリに呆れられた――。
その事実に、フレッカの胸はどんどん冷え込んでいく。これ以上彼の側にいたくなくて、フレッカは再び頭を下げて話を切った。
「申し訳ありませんが、雪が降る前に帰りたいのでこれで失礼します」
そう言って去ろうとするフレッカだったが、マリに強く腕を掴まれて阻まれる。見上げることができずに足元を見ていれば、頭の上から静かな声が落ちてきた。
「フレッカ、週末の祭りには参加するだろう?」
「……」
「絶対参加してよ。たぶんこれが、僕の最後の『雪鬼』になると思うし。ね?」
最後の『雪鬼』。
それは、彼が独身でなくなることを示唆している。
つまり、すでに結婚が決まっているということだ。
改めて彼の口から聞かされた事実に、フレッカはアンナから聞かされた時と違ってショックを受ける。
わかっていたのに。
彼が自分に構うのは、ただの気まぐれであり、可哀想な子を気の毒がっているだけどいうことは。
ショックを受ける自分が嫌で、フレッカはそっと唇を噛み締めた。
嫌です、参加しません、と即答したくても声が出なくて俯いたままでいれば、腕を掴んでいたマリの手が離れる。
「約束だよ、フレッカ。それじゃあ、祭りの日に」
「……」
フレッカはマリの顔を見ることもできず、何も言うこともできずに身を翻らせた。背中に感じるマリの視線を振り払うように、いつもよりも早い歩調で家に向かった。