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眠人を伴い、とぼとぼと、というよりもぼーっとしながら校門をくぐり、住宅街を抜ける通学路に足音を響かせる。
響かせるというほど大きな音でもなかっただろうが、閑静な住宅街では、小さな音であっても意外と耳に届いたりするものだ。
しかし今日のオレは、そんなことを気にする余裕など露ほどもなかった。
ふと唇に指を添える。
さっきのあれは……。
思い出しただけで顔が火照ってくる。
オレの唇に、紅有さんの唇が……。
紅有さんの……。
「わたくしが、どうかしましたの?」
「うおっ!?」
突然目の前に、思い出していた場面と同じくらいまで近い距離に、その相手である張本人の顔がひょこっと現れたため、オレは思わず大きく飛び退っていた。
「ちょっと……そんなに驚くことはないんじゃありませんこと?」
いや、驚くだろう。
「コロネさんの家って、逆方面だったよね~? どうしてここにいるの~?」
眠人は眠人で、ずれた質問を繰り出す。
真っ先に疑問をぶつけるべきは、そこではないだろうに。
「おふたりを追いかけてきたんですわ」
「ボクたちを~? どうして~?」
紅有さんを無意識にねめつけ、様子を観察することに躍起となっているオレに代わって、眠人が質問を続けた。
「お話したいことがありましたの。ですので、わたくしの家に招いて差し上げようと思いまして。鳳凰院の娘であるこのわたくしの招待なのですから、庶民のあなた方にはこの上ない光栄でしょう? ありがたくお受けなさいな!」
腰に両手を当て、これでもかとばかりに大きな胸を張りながらの、偉そうな物言い。
いつもどおりの紅有さんだ。
さっき、あんなことをしてきたばかりの人とは、とうてい思えない。
あれは幻覚かなにかだったのだろうか?
だが、オレの唇に押し当てられた、むにゅっと柔らかくしっとりとした感触は、鮮明な記憶として刻み込まれている。
眠人のスマートフォンの中には、その様子を撮影した動画も残っているはずだ。
とすると、さっきのは紅有さんとそっくりな、別人だったということか……?
いやいや、ありえないだろう。こんな縦ロール、他にいるとは思えない。
紅有さんに双子の姉妹がいるなどという話も聞いたことはないし、鼻腔を心地よく刺激する、おそらく髪の毛から漂うほのかでフローラルな香りも、紅有さん本人と同じだった。
だが……。
「飛鳥さん、どうなさいましたの? わたくしの顔に、なにかついてます?」
無意識に凝視してしまっていたオレの視線に、当然気づかないはずはなく、紅有さんは首をかしげる。
「い……いや、べつになんでもないが……」
ついどもり気味になってしまう。
つやつやした紅有さんの唇が動くたびに、さっきの出来事を思い出してしまい、顔の赤味はただただ増すばかり。
「おかしな人ですわねぇ。まぁ、普段からおかしな人ですけれど」
「そうだねぇ~」
「オ……オレはおかしくは――」
眠人までもが一緒になっておかしな人呼ばわり。
無論、否定の声を上げたわけだが。最後までその声を響かせることはできなかった。
なぜなら、
「んぐっ!?」
オレの口にまたしても、紅有さんの唇がぴったりと重ね合わせられていたからだ。
紅有さん、なにをする!? やめろっ!
制止の声を吐き出しはしたが、ぴちょぴちょとだ液の絡まる音とまざり合い、まともな意味を成す言葉にはならなかった。
いくら相手が同じ女性とはいえ、さすがに恥ずかしいというかなんというか、複雑な気分に陥ってしまう。
そんな様子を見て、どうやら眠人が喜々としてスマートフォンを取り出し、またもや動画撮影しているようだったが。
今のオレには眠人にツッコミを入れる余裕も延髄チョップを入れる余裕もなかった。
「おぉ~、いいねいいねぇ~。もっと激しく行ってみよぉ~!」
お前はエロ写真家か。
そんなツッコミも、もちろん言葉にはならない。
「……あれぇ~?」
と、なにかに気づいたかのような声を漏らし、眠人は動画撮影をやめ、えいやっ、とばかりに手を伸ばした。
紅有さんのコロネ型の髪の毛を、すぱーんと軽めの音を響かせながら引っぱたいたのだ。
叩かれた勢いでオレと紅有さんの歯がぶつかり、がちっと音を立てる。
なにをするんだ、眠人!
飛び出した文句の声も、唇がつながった状態では、当然ながら少々いやらしい音にしかならない。
束ねているリボン部分を中心として、ぐるんぐるんと回るコロネ髪。
ともあれ、それで状況は一変した。
紅有さんはオレから唇を離し、右手を水平に一閃。
しばらくそのままの格好で静止したのち、コロネ髪をふぁさりとかき上げ、
「失礼しましたわね」
と、澄まし顔でひと言。
オレには、なにがなんだか、わけがわからなかった。
☆☆☆☆☆
いったい、なんだったのだろう?
紅有さんに対する疑問は浮かんでいたものの、いつもの癖が出てしまったのか、オレは眠人のほうにツッコミを入れていた。
「眠人、紅有さんの髪を引っぱたくなんて……。そんなことをしたら、チョコクリームが漏れ出すだろうが」
「出ないですわよ!」
すかさず紅有さんのほうから怒鳴り声が飛んでくる。
ふむ。いつもの紅有さんだ。
お嬢様らしくなく、大口を開けて八重歯もさらしている。
「……ですが、別のものは出ました。助かりましたわ。ありがとうございました、眠人さん」
「別のものって……なにが出たんだよ」
「アストラルシャドーですわ」
「な……っ!?」
紅有さんから飛び出した言葉に、オレはさらに混乱の度合いを増加させてしまう結果となった。
「眠人さんが髪の毛を叩いてくださったことで、その中に紛れ込んでいたアストラルシャドーが飛び出しましたの。それを今、わたくしが退治したのですわ」
アストラルシャドー。
人の精神に影響を与える影。
地面の下から現れ、オレが退治している敵。
それがどんなものなのか、退治している身であるオレ自身にも、詳細はわかっていない。
お母さんから受け継いだ力――代々受け継がれる力で、次々と現れる奴らをただ倒し続けるのみ。
これはオレだけに課せられた使命、オレだけに秘められた力だと思っていたのだが。
そうではなかったということか……。
「今日のお昼休みでしたでしょうか、お花を摘みに向かった際、現れたアストラルシャドーを一匹、退治しそびれて逃してしまったんですの」
「お花……?」
「トイレのことだよぉ~」
オレの疑問に、眠人が補足を入れてくれた。
「はしたなくならないように表現ましたのに、追及なさらないでくださいませ」
普段から大口開けて怒鳴っているくせに、今さらなにを恥らう必要があるのやら。といったツッコミは飲み込んでおく。
「ともかく、逃したアストラルシャドーを見失ってしまいまして……探すのを手伝っていただきたいと相談するつもりでしたの」
「……つまり、紅有さんはオレの持つ力について知っている、ということか?」
「ええ、そうですわ。詳しいお話は、当初の予定どおり、わたくしの家で――」
と紅有さんが言いかけた途端、空気が変わった。
新たな襲撃者が現れたのだ!