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二時間目の授業は数学だった。
オレにとっては、睡眠時間。……と言いたいところだが、そういうわけにはいかない。
アストラルシャドーがいつ現れるかわからないのだから。
オレの右斜め前の席では、眠人がうつらうつらと舟を漕いでいる後ろ姿が見える。
すぐ前の席だったら思いっきり殴ってやりたいところだが、残念ながらここからでは届かない。
もっとも、わざわざオレが手を下すまでもないだろう。なぜならば、黒板の前にいたはずの教師が、眠人の席の前まですでに歩いてきていたからだ。
じっと眠人を見つめて数秒。気づく気配はない。
無言のまま、手に持っていた教科書を構える。
ターゲットはゆらゆら揺れている眠人の頭。凶器は教科書の角の硬い部分。
教師はそっと腕を振り上げる。
最後のチャンスを与えて進ぜようとばかりに、「鳩ヶ谷」と眠人の名字を呼びかける。
無論、眠人の眠りがそんな声で途絶えるほど浅いはずもない。
眠人……安らかに眠れ。合掌。
ゴツンッ!
強烈な一撃を受けたのが自分でないというのに、思わず肩をすぼめてしまうほどの素晴らしい音が教室内に響く。
――が。
眠人の頭はまだ揺れていた。
今の一撃で気絶してピヨピヨ状態に陥ったというわけではない。
あんな痛そうな打撃を受けてもなお、眠っているのだ、あの男は。
ツラの皮が分厚いだけでなく、石頭でもあるようだ。
もしくは鉄頭……もしかしたらダイヤモンド頭と呼んでもいいくらいの強度を誇っているのかもしれない。
さっきはオレの放った脳天チョップが効き目を発揮していたようだったが、あれは演技だったのだろうか。
それにしても……。
オレはゆらゆら舟漕ぎ状態の眠人の後ろ頭をぼーっと眺めてみた。
眠人は、正直女のオレでも羨ましくなるような可愛らしい顔立ちをしている。
教師はそんな眠人に躊躇なく教科書の角で一撃を……いや、二撃も三撃も入れている。
寝顔ならば可愛くないとか、そういったことではない。
男子生徒のあいだで、思わず唇を奪ってしまいたくなるほどの可愛い寝顔、などと称されているほどなのだから。
実際のところ、眠りが凄まじく深い眠人のことだから、本当にキスされたとしても気づかなそうな気はする。
それはともかく。
教師もすでに承知しているのだ、眠人がちょっとやそっとの打撃などでは目覚めないということを。
毎時間のように眠り続けているのだから、当たり前とも言えるのだが。
きっと、教師たちのあいだでも話題になっているに違いない。それどころか、どうやって眠人を目覚めさせるかの対策室までも立ち上げられているという可能性さえ出てくる。
数学教師はひたすら教科書の角を用いた連打を繰り出し、そのたびにゴツンガツンと痛々しい衝撃音がクラスメイト全員の耳の中で反響する。
しかし、眠人本人は一向に目覚める気配がない。
う~む、さすがだ。
やがて教師は……諦めた。
何事もなかったかのように、授業が再開される。
ちっ……。授業時間終了まで頑張ってくれればいいものを。
と、そのとき。
招かれざる客人が、我が教室へと足を踏み入れてきた。
☆☆☆☆☆
それは言うまでもなく、アストラルシャドーだった。
教室の床から、にゅっと現れた無数の影の柱が、朝と同じようにぐにゃっとなんらかの形へと変貌を遂げ、さらには色味も携えてゆく。
床から生えてきたのだから、正確には足を踏み入れたとは言えないかもしれない。それでも、この表現で間違っているとは言いきれないだろう。
それらの影がすべて、人間の足――それも素足の形状へと変わっていたからだ。
アストラルシャドーは、オレの嫌いなものの姿を取る。そういう存在だ。
とはいえ、オレはべつに足が嫌いというわけでもない。
ただ、ちょっとしたトラウマがある。
小さい頃、幼馴染みの眠人に嫌がらせを受けたことがあった。足の裏を顔面に押しつけられたのだ。
しかも用意周到なことに、わざわざブーツを準備して履き続けたあとの蒸れ蒸れになった足の裏を押しつけてきやがったのだ、眠人の奴は。
嫌がるオレの反応が楽しかったのだろう、やめてくれと懇願してもやめてもらえず、泣きじゃくったという過去がある。
馬鹿馬鹿しい過去だと思うし、今だったら問答無用でぶっ飛ばして終わるところだが、当時のオレは、か弱い女の子だったのだ。
……ちょっと嘘だ。
恥ずかしながら、オレはその当時――小学校に上がって間もない頃だっただろうか、眠人のことが好きだった。
だから、女の子らしさを演じたかったのだ。無駄なあがきだったとは思うが。
好きな相手だったわけだから、足の裏を押しつけられてもさほど嫌ではなかったかもしれないし、まだ幼い頃のことだから、強烈なニオイなんて発していなかったかもしれない。
だが、イメージ的に足は臭いというのは、小さな子供であっても認識しているものなのだろう。
それによって、ちょっとしたトラウマとなってしまった。
アストラルシャドーが変貌を遂げた足。
素足だが、すね毛は見当たらない。それも当時の眠人の足を彷彿とさせる。
……眠人は今でもすね毛なんてまったくなさそうだが……。
とにかく、オレが精神的に苦手とするものの姿を反映しているのは明からだ。
正直、触れたくない。
しかし……触れずにアストラルシャドーを地面の下、今回の場合なら教室の床の下へと押し返すのはまず不可能。
奴らを見ることのできるオレ自身の体でないと、触れることすらできない。
道具を使うのも不可だ。たとえなにか武器のようなものでアストラルシャドーを殴ったところで、すり抜けてしまう。
必然的に、オレ自身が殴る蹴るなどの打撃技で弾き飛ばし、地面や床の下へと押し返すしかないということになる。
押し返されたアストラルシャドーがどうなるのか、オレは知らない。ただ押し返すのみ。
これはオレの――オレだけの仕事なのだ。
いくら頑張っても報酬なんてないのが、少々不満ではあるが。
……などと余計なことを考えているあいだに、アストラルシャドーが――すなわち、足がたくさん、教室内に出現してしまった。
ともあれ、失態ではない。
もとより、変化する前の影の状態では、奴らと戦う力を持つオレであっても触れることはできないのだ。
今は授業中だが、気にしてはいられない。
オレは席から飛び上がり、教室中に散らばったアストラルシャドーをなぎ倒していく。
足の姿をした奴らを床の上にひきずり倒し、飛び蹴りやボディープレス、体勢が悪い場合にはヒップアタックまでも用いて押し潰していく。
手で触れたくはないといっても、足のような形状の奴らを床に倒すためには、腕で絡め取って押したり引いたりするのが一番効果的だ。
力を込め、その場に留まろうと踏ん張る足を押し倒す!
奴らに触れたことで、鼻の中には言葉にすることもできない――言葉にしたくもない激烈な臭気が充満し、むせ返りそうではあったのだが。
オレは懸命に我慢する。
強烈とはいえ、単なるニオイでしかない。すぐに慣れるはずだ!
敵を両腕で抱え込んだまま、素早く全身をくねらせ、床の下へと強引に押し返すことに成功。
続けて別の足に飛びかかり、今度はバックドロップの要領で一気に床を目がけて投げ飛ばす!
「アイリッシュセッタァァァー!」
こいつはその一撃で終わった。
が、戦いは終わらない。
視線が感じられる。それも当然だろう。
授業中だったというのに、突然ひとりの女子生徒が理由もなく暴れ出したのだから。
実際には理由はあるわけだが、誰の目にもアストラルシャドーは見えていない。
この状況では、理由にたどり着く人がいるはずもない。
クラスメイトと教師はオレに目を向け、ぽかーんと口を開けている。誰も言葉を発したりはできないようだ。
「飛鳥ちゃ~ん、頑張れぇ~!」
……いや、唯一、眠人だけはオレに声援を送ってくれていた。
さっきまで眠りこけていて、何度教科書の角でぶん殴られようとも目覚めなかったはずなのに。
「頑張れと言われてもな……」
思わず苦笑いが漏れる。
今相手をしているアストラルシャドーの姿が、眠人本人に植えつけられたトラウマをもとにしたものだったからだ。
もっとも、眠人には見えていないはずなのだが。
そう、眠人にはアストラルシャドーが見えていない。それなのにオレのことを全面的に信じてくれている。
だからこそ、唯一無二の大切な存在だと言ったのだ。
まぁ、仕事上のパートナーであって、それ以上ではない。
パートナーといっても、アストラルシャドーが見えないのだから、戦いの手助けなんてできるはずもないのだが。
昔は好きだったなどと恥ずかしい過去を暴露してしまったが、今のオレには特別な感情はない。
「飛鳥ちゃ~ん、後ろぉ~!」
「おっと!」
背後から迫る足に、オレは気づいていなかった。
振り向いたオレの目と鼻の先まで伸びていた足の裏。それをとっさに避け、腕を絡めて引き倒す。
「アフガンハウンドォォォォ!」
そのまま体重をかけて押し潰すと、スカートについたホコリを払って立ち上がる。
これで今回出てきたすべてのアストラルシャドー退治が終わったようだ。
「たとえこの身が朽ち果てようとも、オレの舞いは止めさせない!」
ビシッ!
決め台詞を放って、戦いは終了だ。
そうだ。助言を飛ばしてくれた眠人を、労っておいてやらないとな。
「眠人、よくやった。助かったぞ」
「うん~!」
……おや?
そこで疑問が湧く。
さっきの助言は、背後から来る敵に注意を促すようなものだった。
眠人にはアストラルシャドーが見えなかったはずでは……?
訝しげな視線を眠人に向けてみる。
クラスメイトや教師に注目される中、さすがに声に出して尋ねるわけにはいかないだろうと思ったからだ。
眠人はオレの意図に気づくはずもなく、にこっといつもながらの笑顔を返してくるだけだった。
「ところで明日羅、なにか言うことはないか……?」
不意に教師から問いかけられる。そのこめかみは、ピクピクと波打っていた。
「あ~……。廊下に立ってましょうか?」
「いや、廊下に出させると問題になる。その場で立ってろ」
「……はい」
教室内だったら立たせても問題ないのだろうか。
そんな疑問は飲み込み、素直に教師の言うとおりにしておく。わざわざ波風を立てる必要はない。
……今さらという気がしなくもないが。
オレが立った状態のまま、授業は再開された。
クラスメイト全員がオレに注目していたわけだが、いつものことだとでも結論づけたのだろう、すぐにみんな前を向き、授業へと集中する。
最後までオレに目を向けていたのは眠人。……ではなかった。
じいっ……と。
鋭い視線を向け続けるクラスメイトがひとりだけいた。
それは縦ロールのお嬢様、紅有さんだった。
オレの席からは斜め後ろ側の離れた位置になるため、すぐには気づかなかったのだが。
視線を感じてそちらを向いた途端、紅有はプイッと顔を逸らしてしまった。
またあんな、はしたないことをなさって……。
次の休み時間には、そんな苦言をぶつけられてしまいそうだ。
などと考えながら、オレは席に着いた。
「こら明日羅、勝手に座るな!」
……いや、席には着けなかった。