-2-
ひそひそひそ……。
不意に周囲から、こちらに視線を向けてなにやらささやく人々の声が響いてきた。
これも、いつものことではあるのだが。
つい今しがた、オレがアストラルシャドーと戦ったのは、朝の通学路を歩いている真っただ中だった。
人のほとんど通らない田舎道というわけじゃない。都会というほどではないものの、それなりに多くの人が居を構えて暮らしている住宅街の一角を通り抜ける道だ。
さほど多くはないが、車だって通ることがある。
道の両側に白線が引かれ、一応は歩道という体を成す部分が用意されてはいるが、ここを通る人たちは基本的に道幅いっぱいまで広がって歩いていく。
もちろん車が通る際には、左右どちらかの端に寄って道を譲るわけだが。
ともかく、住宅街の中の貫く一般的な道路でしかない、ここはそんな場所だ。
朝の通学時間帯なのだから、同じ学校に向かう生徒たちもたくさん歩いているし、私鉄の駅へと向かう通勤中のサラリーマンなんかも通る。
そんな中であんな奴ら――人間の背の高さと変わらないほどのピーマンが、それも大量に湧き出してきていたら、注目の的にもなろうというものだが。
しかし、注目されていたのはただひとり、このオレだけだった。
ピーマンたちが消え去った今だからというわけではない。奴らと戦っていたあの瞬間も含めてずっと、という意味でだ。
アストラルシャドーは、オレ以外の人には見えない。
そう、オレはオレだけにしか見えない敵と戦っていたのだ。
だからこそ、オレが戦うしかない。誰の助けも借りられない。
そういった理由も含めて、オレは自分を孤独なファイターと表現した。
ここまで話せば、周囲から向けられるひそひそ声がどういった種類のものなのか、正しく想像してもらえるだろう。
ちなみに戦闘中、攻撃を繰り出す際にオレが放っていた気合いの言葉は、犬の種類の名称だ。
なんとなく必殺技っぽくてカッコいい名前が多く、また、オレ自身が犬好きということもあり、テンションを上げる意味合いも込めている。
うちはお母さんが動物の毛に弱いアレルギー体質だから、犬を含めた動物など、なにも飼ってはいないのだが。
他の人には見えないアストラルシャドーと戦っていたオレ――明日羅飛鳥、高校一年生。
校則を破る気など毛頭ない。すなわち、指定の制服を身にまとっている。
それでも、いつアストラルシャドーと戦うことになるかわからないため、スカートの下にはショートパンツを穿いている。だから下着を見られて恥ずかしい、といったことはないのだが。
どちらにしても、スカート姿の女子高生が道端で突然奇声を発し、舞い踊るように飛び跳ねて暴れまくり、ときには地べたを這い回ったりまでしていたら、何事かと視線を向けてくるのは当然の反応だと言える。
つまり、耳に届いてくるひそひそ声の正体は、オレに対する奇異の念を込めたささやきに他ならない。
「今のアレ、なんだったんだ?」
「映画の撮影とか……ってわけじゃないよな」
「あの子、なんなのよ? キモ~い」
「ちょっとおかしな子なのかしら?」
「確か、結構有名な子よ。すごく変わってるって……」
「そういえば、私も聞いたことがあった気がする」
「しっ! 声が大きいわよ!」
「あ……こっち見てるぞ……?」
「目を合わせちゃダメよ!」
友人同士で登校している学生連中から、そんな会話がしっかりと聞こえてきた。
なにを隠そう、オレは地獄耳なのだ。
ともあれ、陰口などにいちいち目くじら立てて怒っていては、この身がいくつあっても足りない。
オレは何事もなかったかのような澄まし顔を崩さないまま、ゆったりと歩き始める。
こんなことには、もう慣れている。
悲しくなんか、ない。
……いや、それは少々強がりか。
だが、仕方がない。
オレは見えない敵と戦っているのだ。
そう話したところで、誰も信じはしないだろう。普通の神経の持ち主であれば。
瞳がじわりと濡れる。
まだ口の中にピーマンの強烈な苦味が残っていたからだ。
それ以外の理由なんて、ない。
オレは孤独なファイター。
今日もひとり、我が道を往く。
誰にも理解してもらえない寂しさを噛み潰しながら――。
……なんて言い方をしてみると、結構カッコいいかもしれないな。
そんなことを考えて心の中でにやけながらも、それを表情に出すことなくオレはクールに歩く。
クールな主人公気取り。
それがオレの密かな楽しみでもある。
どうせ気味悪がって誰も近寄ってこないのだ、せめてそれくらいの楽しみがあってもいいだろう。
不意に、そんなオレの気分を削ぐ声が、背後から襲いかかってきた。
「ちょっとぉ~、先に行っちゃうなんて、ひどいよぉ~!」
ぱたぱたぱた。
なんだか機敏さのかけらもない足音を轟かせながら、間延びした甘ったるい感じの声をかけてくる人影が迫る。
オレはもちろん、無視。
「ちょっとぉ~、無視しないでよぉ~!」
歩いているオレを追って走ってきているのに、なかなか近づいてこない。
それだけ足が遅いのだ。おそらくは全力疾走のはずだが……。
「行くときは一緒って言ったのに~! 早すぎるよぉ~!」
…………。
いつも一緒に登校しているあいつを、今日は置いてきたというだけのことなのだが。
その言い方は、若干誤解を招きかねない表現だと言えなくもない。
朝の通学路でそんな勘違いをする奴など、いないと思いたいが……。
周囲のひそひそ声に、別方面の好奇の色までまざり始めたように聞こえたのは、オレの気のせいだろうか。
ともかく、オレはひたすら声を無視する。
だいたいオレが早かったわけではない。あいつが遅かったのだ。準備に時間をかけすぎるあいつが悪い。
「もう~、無視しないでってばぁ~」
ようやくだが、さすがに追いついてきたようだ。すぐ背後から声が届く。
フッ……。ここはクールに、「オレの背後に立つな」といったセリフでも吐き出しながら、パンチを一発お見舞いしてやろうか。
などと思った矢先。
「飛鳥ちゃんの、いけずぅ~」
というセリフとともに、耳に温かな吐息が吹きかけられる。
ぞわぞわぞわっ!
「な……なにすんじゃ、たわけ~!」
クールな主人公気取りは、一瞬で吹き飛んでしまった。
もっとも、パンチは予定どおり、しっかりとターゲットの顔面にお見舞いしていたわけだが。
「おはよぉ~、飛鳥ちゃ~ん!」
顔面パンチを食らわせたはずなのに、ごくごく普通に挨拶を返された。
「ん、ああ、おはよう、眠人」
ダメだ。オレの負けだ。
素直に敗北を認め挨拶の言葉をかけると、花のような笑顔が返ってくる。
まことに遺憾ながら、オレはこいつにはとうてい敵わないようだ。
鳩ヶ谷眠人。
幼稚園からずっと一緒の幼馴染みで、今でも同じ学校に通っている高校一年生だ。
いつもどおりのまぶしい笑顔をその顔にたたえながら、いつもながらののんびり口調で話しかけてくる。
とっても可愛らしい顔立ちに、前髪パッツンのおかっぱ頭が非常によく似合っている。
小さい頃から「お人形さんみたい」とよく言われていたが、高校生になった今でもまだ言われ続けているという、脅威の愛くるしさを兼ね備えた――男子だ。
にこっ。
綺麗な黒髪のおかっぱ頭をさらりと揺らし、朝の日差しに反射して天使の輪が見える、人形のような容姿の幼馴染み。
「どうしたのぉ~? ボクのことを、じっと見つめたりなんかして~」
首をかしげ、訝しげな表情に変わっても、可愛さに陰りが見えない。
二重まぶたと相まって、いつでもちょっと眠そうに見える大きな双眸も、キュートさを存分に演出しているだろうか。
こんなんでも、正真正銘、紛れもなく、男なのだ、こいつは。
……曲がりなりにも女子として、自信という名の柱がぐらぐらと揺れて根もとからポッキリと折れてしまいそうだが……。
「ボクだったら、いつでもOKだからねぇ~?」(ぽっ)
「変なことを言うな!」
ボコッ!
「ぷぎぃ~」
顔面パンチ再び。
独特なうめき声をこぼして、眠人は顔面に手を当てる。今度は効き目があったようだ。
「まったく、朝っぱらから……。さっきだって、あんなことを言いやがって……」
「あんなことって~?」
「だ、だから……行くときは一緒だとか……。まぁ、気づかないでそう言っただけだろうが……」
女の子にそこまで言わせるなよ、と思いつつ、オレは恥ずかしながらも指摘したのだが。
「あ~……。あれはわざとだよぉ~!」
「わざとかよ!」
思わずツッコミも飛び出してしまうというものだ。当然ながら、顔面パンチも飛び出すが。
「ぷぎぃ~……。飛鳥ちゃ~ん……」
「な……なんだよ」
文句を言ってくるかと思いきや。
「もっとぉ~」
「いっぺん死ね!」
本日四度目の顔面パンチが、ものの見事に炸裂した。
☆☆☆☆☆
孤独なファイターなどと言ってはいるが、そんなオレにもたったひとりだけ味方がいる。
それがこいつ、幼馴染みの可愛い系男子、眠人だ。
……いろいろと問題ありで、めんどくさい奴ではあるが。
しかし、誰からも理解されないオレにとっては、唯一無二の大切な存在でもある。
オレがアストラルシャドーと戦っていることも、眠人は知っている。オレの戦いぶりを見て、華麗な舞を踊っているようだと評したのは、この眠人だ。
朝からバカな会話を繰り広げているが、これもまた一興。
オレの日常の一部と言って差し支えないだろう。
眠人とふたり並んで、通学路を歩く。
「飛鳥ちゃ~ん、ところでさぁ~」
「なんだ? もっとハッキリ、キビキビと喋れよ」
「こんなにゆっくり歩いてるとぉ~」
眠人の声が響く。そして通学路の遥か先にちょこっとだけ見える校舎からチャイムの音が響いてくる。
それはほぼ同時に起こった事象だった。
「遅刻しちゃうよぉ~? って言おうとしたんだけど、遅かったみたいだねぇ~」(にこぉ~)
満面の笑みをきらめかせながら送られた宣告に、オレはがっくりと肩を落とす。
「くっ、不覚だ……!」
「にゃふっ、これで皆勤賞逃しちゃったねぇ~!」
眠人とのバカな会話に集中してしまった自分のせいとはいえ、あまりにも間抜けな結末。
頭を抱えるオレに、眠人からとどめのひと言。
「ボクの作戦どおり~!」
ボガッ!
五発目の顔面パンチの音が、すでに誰もいなくなった通学路に響き渡ったのは、言うまでもないだろう。