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柔らかな風が頬を撫で、髪の毛を梳きながら吹き過ぎる。
春色を目いっぱい含んだ風は、心を穏やかにする。
だが……それは罠だ。
ひとたびその心地よさに身を委ねれば、自らの意思では制御の出来ない世界へと引きずり込まれてしまう。
普通の人であれば、それは単なる眠気でしかないわけだが。
それでも抗いがたい強い眠気は、悪魔の所業と言っても過言ではないほどの激しい攻撃。
負けてしまえば悪魔に身も心も支配され、気づけば時間という貴重な資源を激しく浪費する結果となる。
そのとき、もたげた頭の背後では、十二分に栄養を摂取した悪魔がほくそえんでいるに違いない。
もちろん、時間を無駄にしてしまったという後悔の念を持つ程度で、さしたる不都合はないと言えるだろうが。
しかし――。
オレにとっては、そんな春先の眠気すら、死活問題となりかねない。
なぜならば、オレがファイターだからだ。
眠りへといざなう悪魔に身を任せ、よだれを垂れ流しながら安らかな時間を無駄に過ごしているうちに、世界は滅亡への道を歩み始めてしまうかもしれない。
……さすがにそれは、いささか言い過ぎかもしれないが。
当然、オレだって夜には眠りに就く。そのせいで、目が覚めたら世界が滅亡していたなどということは、生まれてこのかた一度もない。
一度でもあったら、すでにオレは――そして全人類はこの世に存在しないわけだが。
ともかく、オレは戦わなくてはならない。
誰にも理解されない孤独なファイター。
この身の不幸を嘆いた時期もあった。
だが、このオレがやるしかない。
使命、宿命、運命。
どんな言葉で言い表しても、チープなイメージにしかならないが。
たとえどうであっても、オレの身に課せられた重要な役目であることは間違いない。
ねっとりとした風が全身を包み込んでくる。
眠ってしまえとささやきかける。
とはいえ、この場で眠ってしまうわけにはいかない。
もっとも、歩いている状態で眠るなんて荒業は、通常不可能だと思うが。
悪かったな、春の悪魔よ。
今のオレは、お前に負ける気はさらさらない。
さっさと退散するのが身のためだぞ?
……などという考えが頭の中を駆け巡っている時点で、悪魔に負けている気がしなくもないが。
ただ――。
「……来たか……」
無意識につぶやきが漏れる。
ついに来たのだ。
奴らが!
地面から黒い影のような物体――いや、物体と呼んでいいのかどうかもわからない「なにか」が、にゅうっと生えてその姿を現す。
それも、ひとつやふたつじゃない。
無数の影が、いくつも地面から伸びる。
何本もの影の柱。
と思ったのも束の間、それらは急速に形を変え、色彩を携えてゆく。
ぼよんと音が聞こえるかのような滑らかな変遷。
柱状だった影は、丸みを帯びた形へと変貌と遂げる。
若干上側が太った造形、そして鮮やかな濃い緑色。
つやつやと春の日差しを反射しているところを見ると、随分と新鮮なようだ。
「フッ……今日はそういう作戦で来たか……」
作戦、などと勝手に言ってはいるが、奴らにはそんなつもりなど毛頭ないだろう。
オレの、心の問題。
それはわかっている。
精神の弱みにつけ込み、敵であるオレを惑わせてくる。
そういった能力を持っているのだ、奴らは。
――アストラルシャドー。
精神に深く干渉し、人間の心を内部から破壊する凶悪な存在、いや、非存在。
確かにそこに存在しているように見えながらも、存在していない存在。
オレ自身も、言っていてよくわからなくなってくるが。
他に言いようがないのだ。
じとっ……と、湿った雫がオレの頬を伝って地面へとしたたり落ちる。
毎度のことながら、いやらしい精神攻撃をしてきやがる。
鮮やかな緑色をまとい、上部が少し太くなっている、丸みを帯びたいびつな形の物体。
あれは、ピーマンだ。
オレの嫌いなものに姿を変え、躊躇させる。
その作戦は、完璧に機能したと言っていいだろう。
さっきも言及したとおり、それは奴らの作戦というわけではないのだが。
ピーマンの姿をした影は、今まさにオレに向けて飛びかかろうとしていた。
出遅れた。
が……。
「やるしかない!」
オレはようやく飛び出した。
そして、
宙を舞う。
身軽なオレの、空中殺法。
「ジャイアントシュナウザァァァァー!」
オレの身長と同じくらいの高さがあるピーマン。
そんな相手に向け、オレは気合いの叫びとともに飛び蹴りを食らわせる。
だが、敵は一体ではない。次々に襲いかかってくる。
オレは縦横無尽に飛び回り、奴らを翻弄する。
肘撃ち、膝蹴り、水平チョップ、頭突き、かみつき、エトセトラエトセトラ。
考えうる様々な攻撃を繰り出して、ピーマンたちを弾き飛ばす。
鋭く、かつ優雅に、舞いを踊るように空間を支配していく。
「ぐっ……!」
苦悶のうめき声を吐き出したのは、ピーマンではなくオレのほう。
奴らにオレの体の一部が触れるたび、凄まじい苦味が口の中に広がる。
大嫌いな、ピーマンの味。
それを何百倍にも濃縮したほどの苦味が、オレを苦しめる。
自然と目には涙が溢れる。
これも奴らの精神攻撃の一環だ。
しかし――、
負けるわけにはいかない!
オレはすかさず、地面に倒れ込んだピーマンの上にのしかかる。
こいつらに殴る蹴るのダメージなど、ほとんどないようなものだ。
むしろこっちのほうが、苦味によってダメージを食らってしまう。
ともあれ、一旦地面に這いつくばらせなければ、どうしようもない。
ピーマンの上に馬乗り状態になったオレ。
むにゅっと、なにやら不快な感触が背筋に寒気を走らせる。
それでも、ここで怯んではいられない。
全体重をかけ、オレはピーマンを押し潰す。
いや、正確に言えば、押し潰しているわけではない。
地面の中に埋めているのだ!
もっと正しく言えば、地面から出てきた影を、地面の中へと押し返している、ということになる。
「ロットワイラァァァァー!」
オレの体によって圧迫されたピーマン型のアストラルシャドーは、ペチャンコに潰され、溶けるように地面の中へと消えた。
「まず、ひとつ!」
口の中はこの世のものとは思えない苦味でいっぱいだが、構っていられない。
「ぺっ!」
少々はしたないが、苦味を多分に含んだツバを吐き出し、オレは次の目標へと睨みを利かせる。
ピーマンが一瞬たじろいだ……ように感じた。
奴らに恐れなどという感情があるのかなんて、オレにはわからないが。
一瞬の間すら置かず、ピーマンに飛びかかる。
その勢いに驚いたのか、わざわざオレが蹴り飛ばしたりするまでもなく、奴は勝手に地面に倒れ伏す。
足をもつれさせた、といったところか。
精神体のくせに、なんとヤワな。
当然ながら、その好期を逃すはずなどない。
倒れたピーマンの上に飛び乗り、その場で何度もジャンプ。
「ブリュッセルグリフォォォォォン!」
体重を乗せた蹴りを数発かましてやり、とどめの強烈な一撃を繰り出したあとには、奴は完全に地面の中へとその姿を埋め、消滅していた。
「これでふたつ!」
そこからは勢いに乗ったオレの独壇場。ピーマンたちに成すすべはなかった。
みっつ、よっつと、矢継ぎ早に奴らを地面の中へと押し返していく。
それはさながら、軽快にダンスを踊っているかのように見えたかもしれない。
打撃技をやたら滅多らに繰り出しているだけなのだから、優雅さや気品なんてものとは無縁だとは思うのだが。
オレの戦いの一部始終を目撃したとある人は、華麗な舞いを踊っているようだと語っていた。
「これで最後だ! 気合い一閃、ラブラドールレトリーバァァァァァァー!」
オレは孤独なファイター。
最後のピーマンを消し去ったあとには、黙ってたたずむオレと時間が止まったかのような静寂、そして口の中の激しい苦味だけが残っていた。
終わった――。
ビシッとカメラ目線。
「フッ……たとえこの身が朽ち果てようとも、オレの舞いは止めさせない!」
決め台詞で締める。
これがオレの日常――。
明日羅飛鳥という名の、ひとりの女子高生の日常だ。