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7/12

第7話 居場所が増える日


「——ここで、働かせてください」


 朝の茶屋に、その声はひどくまっすぐに響いた。


 開店前の店内には、まだ昨日のぬくもりが少し残っている。竈の火は細く赤く熾り、鍋の底で湯がことりと鳴っていた。窓辺には昨夜受け取った白い野花が、小さな硝子瓶の中で朝の光を受けている。名もない花の淡い白は、隣の木箱から顔を出した薬草の芽と並ぶと、春の気配そのものみたいだった。


 けれど、扉が開いて流れ込んできた外気はまだ冷たい。


 湿った土の匂い。雪解け水の匂い。遠くで焚かれた薪の煙の匂い。冬の名残を抱えたままの朝の風の中に、その少女は立っていた。


 年の頃はノーラより少し下だろうか。日に焼けた頬は赤く、薄い外套の裾には泥が乾いて白く残っている。両手で抱えた小さな包みが、彼女がここまでずっと緊張してきたことを物語っていた。


 リゼットは白磁のカップを置き、ゆっくりと向き直る。


「働く、というのは」

「茶屋で、です」

 少女は息をのみ、勢いだけで言葉を押し出すように続けた。

「先日、お茶を届けていただいた南道の村の者です。うちの村のみんな、あのお茶ですごく助かって……その、お礼もしたくて、それに」

 そこで一度、声が小さくなる。

「わたしも、ここで覚えたいんです。お茶のことを」


 店の中はしんと静かだった。


 竈の薪がぱち、と小さく爆ぜる。吊るした薬草の束が風に揺れ、乾いた葉が触れ合うかすかな音を立てた。


 ノーラが、えっ、という顔で少女を見る。


 マルタは盆を抱えたまま、目だけでリゼットの様子をうかがっていた。


「お名前は?」

 リゼットが尋ねると、少女は背筋をぴんと伸ばした。

「ミーナです」

「ミーナさん」

「はい」

「村から、ひとりで?」

「朝いちばんの荷馬に乗せてもらいました。帰りは……」

 そこまで言って、彼女は少しだけ俯く。

「だめだと言われたら、歩いて帰ります」


 その言い方に、胸の奥がちくりとした。


 だめだと言われるつもりで来たのだ。


 期待しすぎないように、あらかじめ諦める言葉を用意して。


 それは、昔の自分に少し似ていた。


 王都で誰かの顔色を読みながら、迷惑にならないように、余計な望みを持たないように、気づかぬうちに息をひそめていたころの自分に。


「……まずは、中へ入ってください」

 リゼットが言うと、ミーナは目を丸くした。

「で、でも」

「外は冷えます」

「はい」

「話は、温かいものを飲みながら聞きましょう」


 そのひとことで、少女の肩から少しだけ力が抜けたのがわかった。


   *


 竈の上の鍋へ水を足すと、銅のふちがかすかに鳴った。火に近づけた指先へ、じんわり熱が戻る。今朝の店内には昨日の野花のほのかな青さと、薬草の乾いた匂い、そして焚きたての薪の匂いが混じっていた。窓から差し込む光はまだ白く弱いが、その色の中に冬の鋭さはもうない。


 リゼットはミーナの様子を見ながら、軽めの茶を選んだ。


 長く歩いた朝の身体を冷やしすぎないように。けれど緊張でこわばった喉へ重たくならないように。月白草を少し、林檎の皮をほんの少し、心をほどくやさしい葉をひとつまみ。


 湯へ落とすと、明るい香りがふわりと立った。


 ミーナは椅子に浅く腰かけたまま、両膝の上で手を組んでいる。指先は荒れ、小さな傷がいくつも見えた。毎日よく働く手だ。爪のあいだには土の名残がある。村で土に触れていたのだろう。


「どうぞ」

 差し出したカップを、彼女は両手でそっと受け取った。


 白磁に触れた瞬間、ほ、と小さく息がこぼれる。


「温かい……」

「冷えていたでしょう?」

「はい」


 一口飲んで、ミーナは目を伏せた。


 その睫毛がかすかに震えるのを見て、リゼットは胸の奥が静かになるのを感じた。茶は、誰かの顔色を変える。その変化を見るたびに、この場所でよかったと思う。


「村の皆さまのお加減は」

「だいぶ楽になりました」

 ミーナはカップを包みこむように持ったまま答える。

「特にお年寄りが、朝の息苦しさが少し違うって。鼻が通るだけで、あんなに楽なんだって、みんな言ってました」

「それはよかった」

「それで……わたし」


 そこで彼女はぎゅっと唇を噛み、意を決したように顔を上げる。


「村では、できることが少ないんです。春先は忙しいですけど、女の手は足りてるし、わたしはまだ半端で」

 声は細いのに、言葉だけは途切れない。

「でも、ここでなら覚えられることがあると思いました。お茶のことも、人を見ることも。届けてもらったお茶で、村の空気が変わったのを見たから……わたしも、そういうものを覚えたいんです」


 ノーラが、そっと息を呑む。


 マルタは腕を組みなおし、静かにミーナを見る。


 リゼットは答えなかった。


 答えられなかった、というほうが近い。


 この店は少しずつ広がってきた。茶葉を包んで村へ届けることも始めた。客も増え、相談も増え、ノーラも自然と店を手伝うようになった。けれど、誰かを正式に受け入れることはまた別だ。


 雇う、ということ。


 教える、ということ。


 自分が、そういう立場になれるのだろうか。


 王都では、守られることも育てられることも、正しくは与えられなかった。そこから逃げるようにここまで来た自分が、誰かの居場所を作れるのか。


 その迷いが、一瞬だけ足元を曇らせた。


「すぐに返事はできないわ」

 リゼットは正直に言った。

 ミーナの顔からすっと色が引く。

「ごめんなさい」

「ち、違うんです」

 慌ててリゼットは続けた。

「いやだからではなくて。私が、ちゃんと考えたいの」

「……わたしを、ですか」

「ええ。この店のことも、あなたのことも」


 ミーナはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「はい」

「今日はまず、店にいてください。見て、手伝えることを手伝って、考えてみて」

「……よろしいんですか」

「ええ」

「ありがとうございます」


 その声は、ほっとしたようで、それでいてまだ不安げだった。


 リゼットはその響きを胸のどこかで覚えておく。


 昔、自分もこういう声をしていた気がしたから。


   *


 朝の店は、扉が開いてしばらくするとすぐに人の気配で満ち始めた。


 雪解けの湿った外気が流れ込み、そのたび竈の熱がやわらかく押し返す。革の匂い、土の匂い、外套に染みついた風の匂い。そこへ薬草の青さと林檎の淡い甘さが重なって、茶屋の中だけ別の季節のようにあたたかい。


「お、今日は見慣れない顔がいるな」

 最初に入ってきたハロルドが、戸口で目を丸くした。

「村の子か?」

「南道の村のミーナさんよ」

 ノーラが誇らしげに紹介する。

「今日はお手伝いに来てるの」

「へえ」

 ハロルドはにやりと笑い、ミーナへ手を振った。

「ここは忙しいぞ」

「が、がんばります」

「その前に深呼吸したほうがいい」

 ノーラが言って、店の中に小さな笑いが起きた。


 ミーナは顔を赤くしながらも、盆を受け取る手を震わせまいと必死だった。


「こちらを窓際のお席へ」

 リゼットが指示すると、彼女はこくりと頷く。

 白磁のカップが盆の上で小さく触れ合い、からりと澄んだ音を立てた。


 歩き方はまだぎこちない。


 客の前で立ち止まりすぎる。


 声が小さい。


 けれど、その手つきには丁寧さがあった。落とさないように、こぼさないように、失礼のないようにという気持ちがまっすぐ見える。


「どうぞ」

 ミーナが差し出すと、羊毛商の老女がカップを受け取りながら目を細めた。

「まあ、今日は新入りかい」

「は、はい」

「緊張してるねえ」

「……はい」

「大丈夫だよ。ここは怖い店じゃないからねえ」


 店の中にまた笑いがひろがる。


 その笑いに救われたように、ミーナの肩が少しだけ下がった。


 リゼットは竈の前で茶を淹れながら、その様子を見ていた。


 怖い店じゃない。


 その言葉が、やけに胸に残る。


 たしかにここは怖くない。王都の広間のように、誰かの服装や立ち居振る舞いが値踏みされる場所ではない。少し咳き込んでも、言葉につまっても、湯気の向こうで誰かが笑って待ってくれる場所だ。


 そんな場所を、自分はいつのまにか持っていたのだろうか。


 気づけば、手の中にあったのだろうか。


 そう思うと、うれしさよりも先に、少しだけ戸惑いが来る。


   *


 昼近く、店がいちばん賑わうころだった。


 窓の外は薄曇りで、石畳の上には昼の白い光が広がっている。看板の下の小鉢には新しい水をやったばかりで、黒い土の匂いが湿った風に混じっていた。店の中では、カップの触れ合う音、客の笑い声、薪の爆ぜる音が重なり、あたたかいざわめきになっている。


「ミーナさん、こちらへ」

 リゼットが手招きすると、少女は急いで竈のそばへ来た。

「はい」

「この茶葉、香りを覚えてみて」

「香り、ですか」

「ええ。鼻の通りをよくするもの。春先によく使うの」

 リゼットは小皿へ少しだけ出して見せる。


 乾いた花弁は淡い色をしていて、指で触れるとすぐにほろりと崩れた。鼻先へ近づければ、すっと軽い匂いが抜ける。


 ミーナはおそるおそる吸い込み、それから目を見開いた。


「……すごい。頭の奥が、少し明るくなるみたい」

「そういう感覚を覚えておくといいわ」

「感覚」

「薬草は、形だけじゃなく、匂いと、触れた感じと、口に入れたあとの余韻で覚えるの」

「はい……」


 ミーナは真剣だった。


 小さく頷きながら、まるで言葉ひとつも逃すまいとするように聞いている。そのまなざしを見ていると、昔、母の膝元で薬草本をめくっていた自分を思い出す。わからないことばかりで、それでも知りたくてたまらなかったころ。


「リゼット様」

 ノーラが盆を抱えたまま笑う。

「先生みたいです」

「先生だなんて」

「でも、いまそんな感じでした」

「そうかしら」

「ええ。ちょっとかっこよかったです」


 その言葉に、なぜか耳の奥が熱くなる。


 先生。


 教える人。


 自分とはまだ遠いものだと思っていた。


 けれど、さっきのミーナの顔を見ていたら、不思議と自然に言葉が出たのだ。知っていることを、そのまま渡したいと思った。


 そのとき、扉が開き、いつもの灰青の外套が店へ入ってきた。


 ルシアンだった。


 昼の湿った光を背にして立つ姿は相変わらず静かだが、彼が来ると店の空気はなぜかひとつ筋が通る。外の土の匂いと、革の冷たい匂いが一緒に流れ込み、竈の熱にゆっくり溶けていった。


「副長殿」

 リゼットが声をかけると、ルシアンは一度だけ頷く。

 その視線が、すぐにミーナへ向いた。

「村の娘か」

「はい」

 ミーナは背筋を伸ばしすぎて、かえってぎこちなく頭を下げた。

「本日、お世話になっております」

「堅いな」

 ハロルドが横から笑う。

「副長相手だとみんなそうなるんだよ」

「おまえも十分そうだろう」

「俺は違いますよ」

 すかさず返すと、店の中にまた笑いが起きた。


 ルシアンはいつもの席へ向かう前に、リゼットのそばで足を止める。


「様子は」

「まだ初日ですけれど、丁寧です」

「そうか」

「ただ……」


 言いかけて、リゼットは少し迷った。


 雇うことへの不安。教えることへの戸惑い。失敗させたくないという気持ち。そういうものを口にしていいのか、一瞬ためらう。


 けれどルシアンは黙って待っていた。


 急かさず、勝手に察しきったふりもせず、ただ次の言葉を待つ。その静けさは不思議と話しやすい。


「私に、ちゃんとできるのかしらと思って」

「何が」

「教えることです」


 竈の火が小さく鳴る。


 ルシアンは一拍置いてから言った。


「できているように見えるが」

「そう見えますか」

「ああ」

「でも、私は」

 そこまで言って、リゼットは視線を落とした。

「誰かに丁寧に教えてもらったことが、あまりなくて。だから、自分がそれをできるのか、自信がないのです」


 言葉にしてしまうと、思ったよりずっと静かな痛みだった。


 王都で失ったものや、与えられなかったものは、もう癒えたと思っていた。けれどこういう場面でふいに顔を出す。自分の中に空白として残っていた部分が、輪郭を持ってしまう。


 ルシアンはしばらく黙った。


 その沈黙に嫌な重さはない。考えているとわかる沈黙だ。


「なら」

 やがて彼は低く言った。

「お前がしてほしかったように、してやればいい」

「……」

「それで十分だ」


 簡潔な言葉だった。


 飾りもない。


 けれど、そのひとことが胸の真ん中へすとんと落ちる。


 してほしかったように。


 それなら、わかる。


 頭ごなしに否定されないこと。見えないところで切り捨てられないこと。失敗しても、次を教えてもらえること。うまくできたとき、ちゃんと見てもらえること。


 それなら、自分にもできるかもしれない。


「……はい」

 リゼットはゆっくり頷いた。

「そうします」


   *


 午後になり、客足が少し落ち着いたころ。


 窓の外では薄い陽が石畳の水たまりに映り、風が吹くたび小さく波立っていた。看板の下の小鉢では、新しい芽が朝より少しだけ葉を開いている。店内は昼の熱をほどよく含み、白い湯気が棚のあいだを漂っていた。


「ミーナさん」

 リゼットが呼ぶ。

「はい」

「この一杯を、あなたが淹れてみる?」

 少女の目が大きく開く。

「わ、わたしが」

「ええ。軽い喉の荒れ向けのもの。さっき見ていたでしょう?」

「で、でも」

「最初から上手にはいかなくて当然よ」

 リゼットは微笑む。

「失敗しても大丈夫。私がついているから」


 その言葉を口にしたとき、自分でも少し驚いた。


 けれど、不思議としっくりきた。


 ミーナは唇をきゅっと結び、それから真剣な顔で頷いた。


「やります」


 卓の上へ茶葉を並べる。


 喉をやわらげる葉。月白草をほんの少し。香りを軽くするための花弁を一枚。


 ミーナの指は震えていたが、動きは丁寧だった。つまみすぎないよう慎重に量り、指先でそっと整える。その真剣さに、見ているこちらまで息を詰める。


「湯は、急がなくていいわ」

「はい」

「香りを見て」

「香りを……」


 鍋から立ちのぼる湯気が、彼女の頬を白く包む。


 そこへ茶葉を落とすと、青くやさしい匂いがふわりと開いた。少しだけ浅いが、悪くない。


「いいわ」

「本当ですか」

「ええ。次は、注ぐときに急がないこと」


 白磁のカップへ湯が落ちる。


 とくとく、という音が静かな店に響く。


 カップを盆へのせるミーナの手は、さっきよりわずかに安定していた。


「この方へ」

 リゼットが顎で示したのは、窓際に座る老女だった。羊毛商のいつもの客で、喉をいたわる茶をよく頼む人だ。


 ミーナは深呼吸をひとつして、盆を運ぶ。


「ど、どうぞ」

 老女はカップを受け取り、湯気を吸いこみ、それから一口飲んだ。


 店の中が、妙に静かになる。


 薪の音も、外の風も遠い。


 ミーナは立ったまま、ぎゅっと指を握っている。


 やがて老女は、ほう、とやわらかく息を吐いた。


「おいしいじゃないか」

 その声は、思いのほかやさしかった。

「少し緊張の味はするけどね。でも、ちゃんと喉が楽になるよ」


 ミーナの目が大きく見開かれる。


「ほ、本当ですか」

「本当だよ」

 老女は笑った。

「最初の一杯なら立派なものだ」


 その瞬間、ミーナの頬へふわりと血が戻った。


 泣きそうで、笑いそうで、どうしたらいいかわからない顔だった。けれどその表情を見たとたん、ノーラがぱっと拍手をし、ハロルドも便乗し、店のあちこちで小さな祝福の音が広がった。


「やったじゃない!」

「すごいな、ミーナ」

「初めてでこれは上出来だ」


 あたたかい声が重なる。


 ミーナは盆を抱えたまま、信じられないという顔でリゼットを見る。


「リゼットさん……」

「ええ」

 リゼットは笑う。

「ちゃんと、おいしいわ」


 そう言った自分の声が、思ったよりもやさしく響いた。


 このひとことを、自分も昔ほしかったのかもしれないと、ふいに気づく。


 ちゃんとできていると、ただ一度言ってもらえたら、それだけで次の一歩を踏み出せたかもしれない。だから今、それを渡せることが、たまらなくうれしかった。


   *


 閉店後の店は、昼間の熱をまだやわらかく抱えていた。


 窓の外は藍色に沈み、石畳の濡れた匂いが夜気にまじっている。店の中では、最後の火が赤く熾り、洗ったカップからは湯のやさしい匂いが立っていた。窓辺の野花は少しだけ頭を垂れているが、その隣の芽は朝より明らかに葉をひらいている。


 ミーナは帰り支度をしながらも、何度も店の中を振り返っていた。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

 リゼットが言う。

「助かったわ」

「わたし、ほんとに」

 ミーナは言葉を探すように胸元で手を握る。

「明日も、来てもいいでしょうか」

 その問いは、朝よりずっと小さかった。


 断られるのが怖いのだろう。


 けれど今度の恐れは、ただ追い返される恐れではない。ここへもう一度来たいと思ってしまったからこその怖さだ。


 リゼットはその顔を見つめた。


 緊張している。頬はまだ赤い。けれど目には、朝より確かな光がある。自分の淹れた一杯が誰かに届いた、その手応えが残っている目だ。


「来てください」

 リゼットははっきりと言った。

「もしあなたがよければ、これからもここで覚えていってほしいの」

「……いいんですか」

「ええ」


 ミーナの瞳が、わずかに潤んだ。


「ありがとうございます」

 その声は震えていたけれど、朝のそれよりずっと深かった。


 ノーラがすぐ横で嬉しそうに両手を合わせる。

「よかった!」

「これで一緒にできるわね」

 マルタも頷く。

「忙しくなるよ」

「はい」

 ミーナは何度も頭を下げた。

「がんばります」


 その様子を、少し離れたところからルシアンが見ていた。


 今日は巡回帰りに寄っただけだと言っていたのに、気づけば閉店まで店に残っていた。灰青の外套は椅子の背に掛けられ、火の光がその縁を赤く染めている。


「副長殿」

 リゼットが呼ぶと、彼は目を上げた。

「受け入れることにしたのだな」

「はい」

「迷いは消えたか」

「消えた、というより」

 リゼットは窓辺の芽を見た。

「少しずつ育てればいいのだと思いました。茶も、人も」

 ルシアンはそれを聞き、短く息をついた。

「お前らしい」

「そうでしょうか」

「ああ」


 それだけ言われると、なぜか胸の奥があたたかくなる。


 お前らしい。


 その言葉は、今の自分をそのまま肯定してもらえたように響くから。


 ミーナが帰ったあと、扉が閉じられ、店の中はまたいつもの静かな夜へ戻っていく。


 けれど今夜は、昨日までの静けさとは少し違った。


 白磁のカップが増えたわけではない。棚の数も変わらない。竈の火の音も同じだ。


 それでも確かに、この店に流れる気配は広くなっていた。


 ひとり分だけ、居場所が増えたのだ。


 いや、ひとり分ではないのかもしれない。


 ノーラがいて、ミーナがいて、マルタがいて、常連たちがいて、ルシアンたちがいる。この店はもう、リゼットひとりの再出発の場所ではなくなっている。


 誰かが来て、覚えて、安心して、また戻ってくる場所になりつつある。


 窓辺の芽は夜の中でも小さく立っていた。


 昼より少しだけ葉が開き、まだ頼りなく、それでもたしかに育っている。


 リゼットはその緑へそっと指をかざす。


 昔の自分なら、誰かを受け入れることを怖がっただろう。場所を失うことばかり考えて、広げることなんて思いつかなかっただろう。


 けれど今は違う。


 あたたかい湯気は、一人分だけではなく、二人分にも三人分にも広げられる。


 火は、分けても消えない。


「明日は忙しくなりますね」

 ノーラが嬉しそうに言う。

「ええ」

 リゼットは笑った。

「でも、きっと大丈夫よ」


 そう答える自分の声には、もう迷いがほとんど混じっていなかった。


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