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第6話 届かない薬と茶


「——南道の村へ、茶を届けたいのです」


 朝の茶屋には、まだ開店前の静けさが残っていた。


 竈の火は起きたばかりで、薪の芯が赤く熾っている。鍋の底では湯がかすかに鳴り、白い湯気が細く立ちのぼって、窓辺の冷えた空気へ溶けていく。棚に並んだ白磁のカップは朝の薄い光を受けて淡く光り、磨いた木の卓には、水拭きしたあとのひんやりした匂いが残っていた。


 その静かな店の真ん中で、リゼットはルシアンを見上げていた。


 彼はいつもの灰青の外套姿で、扉を背に立っている。外から入ってきたばかりの冷気が、彼の肩や髪にまだまとわりついていた。雪解けの湿った風の匂い。革の匂い。鉄の冷たい匂い。辺境の朝そのもののような匂いだ。


「茶を?」

 ルシアンが低く繰り返す。

「はい」

「薬ではなく」

「熱のある方や、重い病には向きません。でも、春先のだるさや鼻のむずつき、喉の荒れ、冷えの残りなら、軽くできるかもしれません」

 リゼットは卓の上へ紙を広げた。

「こちらで淹れるのと同じにはなりませんが、乾燥葉をあらかじめ組んで包んでおけば、向こうでも湯を注ぐだけで飲めます」


 紙の上には、昨夜遅くまで書きつけた配合の覚え書きがある。月白草、喉をやわらげる葉、林檎の皮、鼻に抜ける花弁。文字の脇には、小さく淹れ方まで書き添えてあった。


 ルシアンはそれを見下ろす。


 黙っているのに、視線の動きだけで、どこを気にしているのかがわかる。量、手間、運ぶ方法、必要な人手。そういうものを瞬時に拾っている目だ。


「数は」

「今の茶葉だけで、多くありません」

「村の人数は」

「二十から三十と聞きました」

「足りないな」

「全員分は無理です」

 リゼットは正直に言う。

「ただ、症状の軽い方を優先すれば、重い薬を必要とする方を減らせるかもしれません」

「理屈は通る」


 窓の外で、遠く鐘が鳴った。


 朝の町が動き始める音だ。市場へ向かう車輪のきしみ。どこかで鶏が短く鳴く声。石畳を踏む足音。茶屋の外の世界も、少しずつ目を覚ましている。


「副長殿」

 リゼットは息を整えて続けた。

「お許しいただけるなら、今朝の店を開ける前に包みを作ります」

「間に合うか」

「手伝ってくれる人がいれば」

「人手は出す」


 言葉に迷いがない。


 その当然さに、胸の奥がすっとほどけた。


 王都にいたころなら、まず許しを請い、理由を重ね、家の得になるかを問われ、それからようやく検討されることだった。けれどここでは、必要なら動く。それだけだ。


「ありがとうございます」

「礼はまだ早い」

 ルシアンは少しだけ顔を上げる。

「向こうへ着いて、飲んだ者が楽になってからだ」

「では、そうなれるようにします」


 彼の口元が、ほんの僅かにやわらいだ。


「期待している」


 そのひとことが、竈の火よりも深く身体を温める。


   *


「——こんなに包むんですか?」


 ノーラが目を丸くした。


 店の奥の卓いっぱいに、薄茶の包み紙と麻紐が並んでいる。朝日が窓を透けて差し込み、紙の縁をやわらかく照らしていた。紙に触れると乾いた音がして、指先をさらりと滑る。乾燥薬草の束を崩すたび、青く澄んだ匂いと、ほの甘い林檎の香りがふわりと立つ。


「包みの大きさをそろえたいの」

 リゼットは紙の端を折りながら言う。

「量がばらばらだと、味も効き方も変わってしまうから」

「なるほど……」

 ノーラは真剣な顔で頷き、麻紐を切りそろえ始めた。

「これ、思ったより楽しいですね」

「楽しい?」

「だって、これから誰かのところへ行くんだなって思うと」


 その言葉に、リゼットの手が一瞬だけ止まる。


 誰かのところへ行く。


 それは、たしかにそうだった。


 この茶屋で淹れた一杯は、ここへ来た人のためのものだ。けれど今日作っているのは、この店へ来られない人たちのための一杯だ。香りも、効き目も、湯気さえ、この場所を離れていく。


 紙の上へ配合した葉をのせると、淡い緑や褐色や薄い花色が、朝の光の中で小さく混ざり合った。きれいというほど派手ではない。ただ、やさしい色だった。


「リゼットさん!」

 開け放した裏口から、ハロルドが顔を出した。

「副長が荷の馬を一頭まわせるって」

「本当ですか」

「ああ。南道の巡回に合わせるらしい」

「そんなにすぐ」

「副長だからな」

 ハロルドはどこか誇らしげに胸を張る。

「それに、詰所の台所係が空き袋も出してくれたぞ。包んだあとにまとめるならこっちのほうがいいって」


 差し出された麻袋は、手に取るとごわりと固く、まだ新しい繊維の匂いがした。乾いた陽だまりのような匂いだ。


 リゼットは袋の口を広げてみる。たしかに紙包みを並べて入れるのにちょうどいい。


「助かります」

「俺は紐を結ぶ係だな」

「上手にできますか?」

「失礼だな」

「昨日、剣の帯を結びなおしてもらっていたのを見ましたけど」

「……見てたのか」

 ノーラが吹き出し、リゼットも思わず笑った。


 その笑いが、朝の緊張をほどいてくれる。


 手は止めないまま、三人で包みを作る。


 紙を広げる音。


 薬草が触れ合うかさりという音。


 麻紐を引くきゅっという音。


 竈では湯がことこと鳴り、窓の外では雪解け水が樋を伝って落ちる。春がまだ浅いこの町で、音だけが少しずつ冬から変わり始めていた。


「どんな味なんでしょうね」

 ノーラが包みをひとつ持ち上げる。

「淹れてみても?」

「だめよ、それは村へ届ける分」

「では少しだけ」

「少しだけなら」


 試しに淹れた一杯は、湯へ落ちた途端に林檎の皮の匂いが立ち、そのあとを追って青い葉の香りがひらいた。いつもの春の茶より、やや軽い。何度も飲みやすいように、後口をすっきり整えてある。


 ノーラは一口飲み、ほっと息を吐く。


「やさしい味」

「毎日飲んでも疲れないようにしたいの」

「村の人、きっと喜びます」


 その何気ない断言に、胸の奥が少しだけ締まった。


 喜んでもらえたら。


 楽になってもらえたら。


 でも、もし足りなかったら。もし大した役に立たなかったら。


 期待が大きいほど、不安も静かに育つ。


 リゼットが無意識に包み紙の端を撫でていると、ふと扉の影が差した。


「——手が止まっている」


 ルシアンだった。


 いつの間にか戻ってきていたらしい。朝の白い光を背にして、店の入り口に立っている。外套の裾が風を受け、冷えた空気がまた少し店に流れこんだ。


「副長」

 ハロルドが慌てて姿勢を正す。

「包みは順調です」

「見ればわかる」

 ルシアンは卓へ近づき、並んだ紙包みを一つ手に取った。

 彼の指先は大きく、節立っている。剣を握る手で、こんな小さな包みを摘まむのは少し不思議だった。


「軽いな」

「はい。荷を増やしすぎないように」

「匂いは」

「春のだるさ向けです」

「そうか」


 彼は包みを元の場所へ戻し、それからリゼットを見た。


「不安か」

 不意を突かれ、リゼットは目を瞬いた。

「……少し」

「正直でいい」

「役に立たなかったらと思うと」

「ならない」

 あまりにも即答だったので、今度はハロルドとノーラまで一緒に目を丸くした。


 ルシアンは変わらない調子で続ける。


「少なくとも、何もないよりましだ」

「副長殿」

「向こうに足りないのは、完璧なものではなく、少しでも楽になる手立てだ」

 彼は窓の外へ目を向ける。

「お前の茶は、それになれる」


 店の中がしんと静かになった。


 竈の音さえ遠くなったように感じる。


 必要だ、と言われたときとはまた違う重みが、その言葉にはあった。ここにいてほしいということだけではなく、ここから先へも届く力があると信じてもらっている。


 それが、うれしい。


 そして、少しだけこわい。


 けれど、そのこわささえ前へ進むためのものなら、抱えたままでいいのかもしれない。


「……はい」

 リゼットは頷いた。

「届けます」


   *


 昼すぎ、南道へ向かう荷馬が店の前へ止まった。


 空はまだ明るいが、春先の陽はすぐに傾く。石畳は濡れて鈍く光り、馬の蹄が踏むたび、水の匂いと泥の匂いが立ちのぼった。冷たい風の中に、湿った草の気配が混じる。冬の匂いではない。まだ寒いのに、どこかやわらかい匂いだ。


 紙包みを収めた麻袋を運び出すと、袋の中で薬草がかさりと鳴った。耳を澄ませば、それはとても小さな音なのに、なぜか胸へ響く。


 この音が、村まで行くのだ。


「落とすなよ」

 ハロルドが若い騎士に言う。

「俺だってそんなに不器用じゃない」

「昨日、帯を」

「その話はするな!」


 ノーラがくすくす笑い、マルタが店の前で腕組みしたまま言う。


「ほんと、大ごとになってきたねえ」

「そうですね」

 リゼットは袋を押さえる手に少し力をこめる。

「でも、行ってほしいです」


 最後の一袋を荷へ載せたとき、ルシアンが綱を確かめながら振り返った。


「村へ着くのは夕刻前だ」

「淹れ方の紙も入れてあります」

「読めない者がいたら」

「巡回の方に口頭で伝えていただければ」

「わかった」


 彼の低い声はいつもどおり落ち着いている。けれどその落ち着きが、今日に限っては妙に心強かった。


「副長殿」

「何だ」

「どうか、お気をつけて」

「巡回だ。特別なことはない」

「でも、道が悪いのでしょう?」

「悪い」

「でしたらなおさらです」


 言ってから、少しだけ気恥ずかしくなった。


 けれどルシアンはからかうでもなく、ただ短く答えた。


「……ああ」


 それだけで十分だった。


 馬が鼻を鳴らし、荷がきしむ。やがて蹄の音が石畳を打ち、南道へ向かって遠ざかっていった。湿った空気の中へ、革と馬と泥の匂いが尾を引く。


 その姿が見えなくなるまで、リゼットは店先に立っていた。


 指先にはまだ麻袋のざらつきが残っている。紙包みの軽さも覚えている。その軽さが、遠い村で誰かの身体を少しでも軽くしてくれたらいい。


「戻ってくるまで、落ち着きませんね」

 ノーラが隣で呟く。

「ええ」

「でも、なんだか誇らしいです」

「誇らしい?」

「だって、うちの茶屋の茶が、村まで行くんですよ」

 うちの茶屋。


 その言い方がうれしくて、リゼットはほんの少し笑った。


「そうね」

「うちの茶屋です」


   *


 夕方の店は、いつもより落ち着かなかった。


 開けたばかりの春の茶は客にも好評で、湯気の向こうでは行商人たちが鼻をすすりながら何度もおかわりを頼んだ。だがリゼットの耳は、どうしても外の音へ向いてしまう。


 遠くの蹄の音。


 風に乗る声。


 扉の銅片が鳴るたびに、胸がわずかに跳ねる。


 大丈夫だろうか。


 ちゃんと着いただろうか。


 飲んでもらえただろうか。


 冬のあいだ、茶を淹れるときにこんなふうに落ち着かなくなることはなかった。客の顔を見て、その場で香りを選び、反応を確かめられたからだ。けれど今日は違う。届く先が見えないぶん、想像だけが膨らんでいく。


「リゼット様」

 マルタが盆を置きながら言った。

「考えごとで、葉が少し多いですよ」

「えっ」

 見れば、たしかに一つまみ多い。

 香りは悪くないが、少し強めだ。


 リゼットは苦笑して入れ直した。


「すみません」

「気になるのはわかりますよ」

 マルタはやさしく笑う。

「でも、気をもんでも馬の足は速くなりません」

「そうですね」

「それに」

 彼女は店内をぐるりと見まわした。

「ここで待ってる人もいますからね」


 白い湯気の立つ卓。カップを包む手。店の中に満ちる薬草と林檎の香り。暖を求めて丸まった背中。笑い声。


 たしかに、この店にも守るべき時間がある。


 リゼットは息をひとつ吐き、次の客のために新しい湯を注いだ。


 とくとく、と細く澄んだ音がする。


 その音を聞いていると、少しだけ心が落ち着いた。


 茶は、急いで淹れるものではない。


 焦れば濁る。


 待つこともまた、茶を淹れる時間のうちなのだ。


   *


 夜の気配が濃くなったころだった。


 からん、と銅片が鳴る。


 冷たい風と一緒に飛び込んできたのは、若い騎士だった。頬を赤くし、靴に泥をつけたまま、息を弾ませている。


「戻りました!」

 その声に、店の中の空気が一斉に彼へ向いた。


「どうでした?」

 リゼットが一歩出る。


 騎士は何度か呼吸を整え、それから勢いよく言った。


「飲んでもらえました。村の人たちに。熱のある者は少なく、だるさと鼻の不調がほとんどで……茶が合ったみたいです」

「本当ですか」

「ええ。すぐに劇的というほどではありませんが」

 彼は言葉を探すように眉を寄せる。

「みなさん、楽に息が吸えると言っていました。喉の痛みも少し和らぐと。あと……」


 そこで、彼は背の袋をごそごそ探った。


 取り出したのは、小さな布包みだった。粗い麻布で包まれ、結び目には細い草が挟まっている。受け取ると、布の中からほのかに土の匂いがした。


「村の娘さんが」

 騎士は続ける。

「お礼にって。春いちばんの野花だそうです」


 布をほどくと、中から出てきたのは白く小さな花束だった。野に咲く名もない花だろう。茎は短く、まだ水気を含んでいて、触れると冷たい。匂いはほとんどない。けれど、その白さが夜の店の中でやけにやわらかく見えた。


 リゼットは花を見つめたまま、しばらく声が出なかった。


 薬ではない。


 高価な礼でもない。


 ただ、春の野で摘んだ花。


 でもそれが、どんな言葉よりまっすぐに届いた。


「……よかった」

 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

「本当に」


 ノーラが隣で、ほっとしたように息を吐く。

「よかったですね、リゼット様」

「ええ」

 花を両手で包むと、茎の冷たさが掌にやさしく触れた。

「よかった」


 そのとき、もう一つ足音が近づいた。


 扉が開き、今度こそルシアンが入ってくる。外套の裾には泥がはね、肩には冷たい夜気がまとわりついている。けれどその表情は、朝よりわずかにやわらかかった。


「副長殿」

 リゼットが花を持ったまま顔を上げる。

「報告は聞いたか」

「はい。いま」

「向こうの様子も見た」

 ルシアンは帽子を外し、店の火へ手をかざした。

「茶を飲んだ老人が、胸のつかえが少し楽になったと言っていた」

「そうですか」

「娘たちも、鼻が通ると笑っていた」

 彼は一度だけリゼットの手元の花を見る。

「礼も受け取ったようだな」

「はい」


 短いやりとりなのに、それだけで胸の奥へじんわり熱が広がる。


 茶が届いた。


 飲んでもらえた。


 少しでも、楽になった。


 その事実が、今日一日の不安を静かにほどいていく。


「副長殿」

 リゼットは花を見つめたまま言う。

「次はもっと、わかりやすく包みを分けたいです。喉向け、鼻向け、冷え向けと」

「やる気だな」

「はい」

「いい」


 ルシアンはそれだけ言って、いつもの席へ腰を下ろした。


「では」

 リゼットは花を窓辺の小瓶へ挿しながら、振り返る。

「報告のお礼に、一杯お淹れしますね」

「任せる」

「今夜は少し、疲れをほどくものを」

「わかるのか」

「副長殿の顔色は、前より少しわかるようになりました」


 そのひとことに、ノーラがわずかに息を呑み、ハロルドがにやりとする。けれどルシアンは何も言わない。ただ、火の明かりの中でほんの少しだけ目を細めた。


 竈の上で湯が鳴る。


 夜の店には、昼とは違う静けさがある。春の茶に、疲れをほどく葉を少し。林檎は控えめにして、深く息ができる香りをひとすじ。熱が立つたび、店の中にやわらかな匂いが満ちていった。


 白い野花は窓辺で小さく揺れている。


 朝出たばかりの芽の隣で、その花はもう、この店が町の外ともつながった証のように見えた。


 リゼットはカップを差し出す。


 ルシアンは受け取り、一口飲んだあと、静かに息を吐いた。


「……落ち着く」

「それはよかったです」

「お前も」

「え?」

「少しは落ち着いた顔をしろ」


 思いがけない言葉に、リゼットは目を瞬いた。


 それから、気づく。


 今日は一日じゅう、きっと落ち着かない顔をしていたのだ。茶葉を量る指も、窓の外を見る回数も、いつもより多かったに違いない。


「……そんなにわかりやすかったですか」

「十分に」

 ルシアンは淡々と言う。

「だから言っただろう。お前の茶は届くと」


 火がぱちりと鳴る。


 その小さな音と一緒に、胸の奥で何かがあたたかく解けた。


 リゼットはそっと笑う。


「はい」

「今度は、もっとたくさん届かせます」


 窓の外では、辺境の夜が深く冷えていく。


 けれど茶屋の中には、火があり、湯気があり、春いちばんの野花がある。薬草の香りは棚から棚へ渡り、誰かの疲れた肩をやわらかく包みこむ。


 届かないと思っていたものが、今日、たしかに届いた。


 その事実だけで、この夜はもう十分にあたたかかった。


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