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第4話 私の居場所は

「——戻ってきてもらおう、リゼット」


 その声を聞いた瞬間、白磁のカップに触れていた指先が、ほんのわずかに止まった。


 朝の店は、まだ開店前の静けさの中にあった。竈では細い薪がぱち、と小さく爆ぜ、湯を張った鍋の底から細かな泡が立ちのぼっている。吊るした薬草の束が、窓の隙間から入る風にかすかに揺れ、乾いた葉が触れ合う音を立てた。林檎を煮る甘い匂いと、ミントの青い匂い。その馴染んだ香りの中へ、異物のように差し込んできたのは、冷たい外気と、磨き抜かれた革靴、濃い香油の匂いだった。


 戸口に立っていたのは、アーヴィング。


 王都で見慣れた、完璧に整えられた装い。濃紺の外套の縁には銀糸が光り、胸元の留め具には見覚えのある家紋が刻まれている。その隣には父、公爵。さらに一歩後ろに、淡い灰青のドレスに身を包んだミレーユがいた。辺境の灰色の朝には似つかわしくない、王都の色だった。


 ノーラが息を呑む。


 マルタが、無意識に前へ出た。


 けれどリゼットは、鍋の火加減をひとつ落としてから、ゆっくりと顔を上げた。


「おはようございます」

 それだけを言うと、アーヴィングの眉がわずかに動く。

「……挨拶はできるようだな」

「店ですので」

「店」

 彼は室内を見回した。木の棚に並ぶ小瓶、窓辺の鉢、曇ったガラス、磨かれた白磁のカップ。壁に染みついた火と茶の匂い。

「こんな場所で、ずいぶん長く遊んだものだ」


 その言葉に、湯気の柔らかさが一瞬だけ冷えた気がした。


 遊んだ。


 王都でなら、きっと何の悪意もない顔でそう言えたのだろう。


 だが今は、その語の薄さがはっきり見える。


「ご用件をうかがっても?」

 リゼットが問うと、父が杖の先で床を軽く打った。

「決まっている。帰るのだ」

「帰る?」

「王都へだ」

 父は当然のように言った。

「お前の薬草茶が、こちらでそれなりに評判になっていると聞いた。王都でも流行の病が広がりつつあり、社交の場でも体調を崩す者が増えている。公爵家の名のもとで茶会を開けば、相応の価値になるだろう」


 価値になる。


 その言い回しに、リゼットの胸の内で何かが静かに沈んだ。


 懐かしさではない。


 痛みでもない。


 ああ、この人たちは本当に、何も変わっていないのだという、ひどく澄んだ理解だった。


 ミレーユが、そっと唇を寄せるように笑う。


「お姉さまのお力、ようやく皆さまに理解されましたの」

「理解、ですか」

「ええ。ですから、もう意地を張らなくてもよろしいのよ。王都に戻れば、以前のことも悪いようには——」

「以前のこと?」


 リゼットの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 竈の火が、小さく鳴る。鍋の縁からこぼれる湯気が、父たちの輪郭をわずかに曇らせた。


「地味で、役立たずで、華がないからと、辺境へ送られたことをおっしゃっているのですか」

 ミレーユの顔色がわずかに変わる。

「お姉さま、そんな言い方は」

「違いましたか」

 アーヴィングが口を開いた。

「今さら感情的になるな。現実を見ろ。君の技は使える。だから戻れと言っている」

「……使えるから」

「そうだ」


 その一言で十分だった。


 使えるから。


 必要だから、ではなく。


 大事だから、ではなく。


 ただ、使えるから。


 王都の香油の匂いが、急に息苦しいほど濃く感じられた。昔は当たり前だったそれが、今ではただ表面を飾るだけの重たい匂いに思える。代わりに、この店にはいつも、薪の煙と乾いた葉と果実の匂いがある。寒い朝に誰かの頬へ戻ってくる血の気の匂い。深く息を吐いたあとの安堵の湿り気。そういうもののほうが、いまのリゼットにはよほど本物だった。


「お断りします」


 父が目を見開いた。


 アーヴィングの口元が硬くなる。


「断る?」

「はい」

 リゼットはカップを布で拭きながら続けた。

「私はここで店を営んでおります。お茶を待ってくださる方がいます。帰るつもりはありません」

「公爵家に逆らうのか」

 父の声が冷たく落ちる。

「逆らう、のではなく」

 リゼットは視線を上げる。

「選ぶのです」


 その瞬間、扉がもう一度開いた。


 冷たい風とともに入ってきたのは、灰青の外套をまとったルシアンと、数名の騎士たちだった。朝の訓練を終えたばかりなのだろう、外気の鋭い匂いと、鉄と革、そして雪のにおいをまとっている。ルシアンは店内をひと目見て、状況を理解したようにわずかに目を細めた。


「……来客中か」

 低い声が落ちる。


 アーヴィングが不快そうに眉をひそめた。

「誰だ」

「辺境騎士団副長、ルシアン・ヴァレイス」

 エドガーが一歩進み、きっぱりと告げる。

「そしてこちらは、当領で正式に協力を仰いでいる茶師リゼット殿の店です」


 父の杖が、ぴくりと揺れた。


「茶師、だと」

「ええ」

 ルシアンは外套を解きながら答える。

「夜番兵の不眠、巡回兵の胃痛、寒冷障害の軽減。詰所ごとの置き茶の調整。冬期の補助として、すでに成果を上げている」

「そんなもの——」

 アーヴィングが鼻で笑う。

「茶ごときで大げさな」

「ごとき、か」


 ルシアンの声音は変わらない。


 だがその静けさが、かえって空気を張りつめさせた。


「ならば貴殿は、夜明け前の砦を知らないのだろう」

「何?」

「指先の感覚が消え、胃は冷え、眠れぬまま剣を握る者たちを知らない。あたたかい湯を一杯飲むだけで、顔色が戻ることも」

 彼はリゼットの方を見た。

「この店は、砦を守る一部だ」


 マルタが誇らしげに胸を張る。


 ノーラの目はきらきらと輝いていた。


 いつの間にか、開店を待っていた常連たちが戸口や窓辺に集まっていた。洗濯籠を抱えた老女、荷運びの青年、夜番明けのハロルド。彼らは王都の高貴な客人たちを見る目ではなく、ただ自分たちの店に土足で踏み込んできた他所者を見る目をしていた。


「リゼットさん」

 ハロルドが、少しだけ緊張した声で言う。

「朝の林檎茶、今日も頼めますか」

 その声に、何人かが続く。

「俺は喉のやつを」

「わたしはいつもの、冷えに効くものを」

「今日は腰が重くてねえ」


 王都から来た三人の前で、ごく当たり前に、朝の注文が入る。


 湯気の立つ店の中で、それは何よりも雄弁だった。


 ここはもう、リゼットだけの場所ではない。


 この町の日々の中に根を張った場所だ。


 父が信じられないものを見るような顔をする。

「お前など、ただ家に従っていればよかったものを」

「従っておりました」

 リゼットは静かに言う。

「ずっと」

 それから、布で拭いていたカップを棚へ戻す。

「ですが、もう違います」


 白磁の触れ合うかすかな音がした。


 その小さな響きが、なぜか胸の奥まで澄んで届く。


「私の茶を待ってくださる方がいて、必要だと言ってくださる方がいて、私自身もここで生きていきたいと思っています」

 アーヴィングが何か言い返そうと唇を開く。

 けれどその前に、リゼットははっきりと告げた。

「私の居場所は、ここです」


 沈黙が落ちた。


 窓の外で風が鳴る。


 けれど店の中には、竈の火の音がある。湯の沸く音がある。誰かの咳払いがあり、誰かの靴が床を鳴らす音がある。生きている場所の音だ。


 王都のきらびやかな広間では、一度も手に入らなかった音だった。


 ミレーユが目を伏せる。

「お姉さま、本気で……?」

「ええ」

「後悔なさらないの」

「もう、しません」


 その答えに、ミレーユの肩が小さく揺れた。怒りか、悔しさか、それとも別の感情か。けれどリゼットは、もう追いかけなかった。


 父は顔を強張らせ、アーヴィングは苛立ちを隠さないまま踵を返す。

「好きにしろ」

 吐き捨てるような声。

「だが、いつまでも辺境の茶屋で満足していられると思うな」

「そうでしょうか」

 リゼットは微笑んだ。

「私は、いま、とても満たされております」


 その一言に、アーヴィングは何も返せなかった。


 三人が去ると、戸口から入り込んだ冷気も一緒に抜けていくようだった。残ったのは、薬草の香りと、火の熱と、張りつめていた誰かの息がようやくほどける気配。


 ノーラが、ふううっと大きく息をつく。

「……すごい」

「何が?」

 リゼットが問うと、ノーラは両手を胸の前で握りしめた。

「すごかったです、今の。“私の居場所はここです”って……!」

 ハロルドも、いたく感動した顔でうなずいている。

「いや、ほんと。副長、聞きました?」

「聞いていた」

「どうでした?」

「……当然のことを、当然の顔で言っただけだ」

 そう答える声は平坦だったが、ルシアンの耳の先がほんの少しだけ赤い。寒さのせいだけではないと気づいて、リゼットはふっと笑ってしまう。


 マルタが手を打った。

「さあさあ、開店前から大騒ぎしちまったね! お茶を淹れましょう、リゼット様」

「はい」


 返事をして、リゼットは竈の前へ立つ。


 鍋の湯はちょうどよく温まり、表面に小さな泡が集まっていた。そこへ林檎を落とし、別の鍋には月白草をひとつまみ。熱に触れた葉がゆっくりと香りをほどき、店の中へやわらかく広がっていく。


 甘酸っぱい匂い。


 青く澄んだ匂い。


 薪の匂い。


 誰かの外套に残った朝の空気の匂い。


 その全部が混ざり合って、この店だけの朝になる。


「今日は少し冷えますから、皆さま温まるものを強めにしましょう」

 そう言うと、常連たちが口々に頷いた。

「助かるよ」

「じゃあ俺は喉も」

「私はいつものを」

「副長はどうします?」

 ハロルドがにやにやしながら聞く。


 ルシアンはリゼットを見た。

「任せる」

「かしこまりました」


 その短いやりとりだけで、胸の内が不思議なくらい静かに満ちる。


 差し出したカップを受け取る彼の手は、最初に会った日より力みがなく、温度も少しやわらかいように見えた。飲んだあと、彼は小さく息を吐く。


「……落ち着く」

「それはよかったです」

「お前がここにいると」

 言ってから、ルシアンは一瞬だけ言葉を切った。

 周囲がぴたりと静まる。

 ノーラが目を輝かせ、ハロルドが肘でエドガーを小突いた。

 リゼットは瞬きをする。


 ルシアンはいつもの無表情に戻ろうとして、少しだけ失敗したように見えた。


「……店が、落ち着く」

「副長ー!」

 ハロルドが吹き出す。

「今の言い直し、遅すぎません!?」

「うるさい」

 エドガーまで肩を震わせている。


 あたたかい笑いが、店の中にひろがった。


 その笑い声を聞きながら、リゼットはふと窓の外を見る。灰色の雲の切れ間から、ほんの少しだけ薄い陽が差していた。屋根の上の霜がきらりと光り、煙突からのぼる白煙がまっすぐ空へ伸びていく。


 長い冬は、まだ終わらない。


 寒さも、忙しさも、きっとこれから先も続く。


 けれどもう、怖くはなかった。


 王都で失ったものとは違う。


 もっと静かで、もっとあたたかくて、手のひらで確かめられるもの。


 朝ごとに湯を沸かし、誰かのために葉を選び、深く吐かれる息を聞くたびに満ちていくもの。


 それを、今の自分は知っている。


 窓辺の棚には、白磁のカップがきれいに並んでいた。初めてここへ来た日には空っぽだった茶棚も、いまは小瓶や葉束や果実でにぎやかだ。その前で立つ自分の姿に、もう“捨てられた令嬢”の影は薄い。


 ただ、この町で茶を淹れる人として、ここに立っている。


「リゼット様」

 ノーラが林檎を刻みながら振り向く。

「次の季節になったら、春の茶も考えましょうね」

「ええ」

「花を使うのもいいかも」

「よろしければ、一緒に考えてくださる?」

「もちろん!」


 その返事の明るさに、リゼットは笑う。


 春の茶。


 その言葉だけで、まだ見ぬやわらかな風や、雪解けの匂いまで思い浮かんだ。


 ルシアンがカップを置く。

「春になっても、店は続けろ」

「はい」

「夏も、秋も」

「はい」

「……ずっと」


 最後の一言だけ、少し低く、少しだけ不器用だった。


 リゼットはカップを受け取りながら、そっと頷く。


「ええ。ずっと」


 竈の火が、やさしく鳴る。


 白い湯気が立ちのぼる。


 その向こうにある人の顔は、みな穏やかで、あたたかい。


 だからリゼットは、胸の奥まで満ちたぬくもりを抱えたまま、新しい一杯を淹れた。


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