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第3話 砦を守る癒やし

「——副長、昨夜は少し眠れましたか」


 火の気のない朝の詰所で、その問いだけがやけに柔らかく響いた。


 革手袋を外しかけていた男——ルシアンは、扉口でわずかに目を上げた。石造りの廊下から流れ込む冷気が、部屋の中の紙の匂いと、昨夜の残り火の灰の匂いを薄くかき回している。窓の外はまだ灰色の空で、夜明けの光は雪雲に吸われたように弱い。


「……少しだけな」

「少し、ですか」

 副官のエドガーが眉を寄せる。

「それでも、ここ数日ではましな顔をしておられます」


 ルシアンは机の上の書類へ目を落とした。


 昨夜、あの小さな茶屋で飲んだ茶の香りが、まだ喉の奥に残っている気がした。甘すぎず、苦すぎず、熱だけが喉を焼くこともない。雪の積もった森の中で、たった一本だけ灯りのついた家を見つけたときのような、静かな温度を持つ茶だった。


 夜半に目が覚めなかったのは、いつぶりだろう。


「本隊の夜番で体調を崩した者が増えています」

 エドガーが報告書を差し出す。

「冷え、頭痛、胃の痛み、不眠。医師の薬が追いついておりません」

「わかっている」

「ならば」

 エドガーは咳払いをひとつして、わずかに声を落とした。

「昨日の店を、正式に使うおつもりですか」


 ルシアンは紙の端を指で押さえる。


 粗い紙肌が、乾いた指先にざらりと触れた。北の冬は、肌からも眠りからも容赦なく潤いを奪う。指先のささくれまで痛む季節だ。


「使うのではない」

「では?」

「頼る」


 その一言に、エドガーは目を瞬かせた。


「……副長が、他人にそんなふうに言うとは思いませんでした」

「私もだ」


 窓の外で、朝の号令が風に千切れながら響く。槍の石突が地を打つ鈍い音。馬の鼻息。冷え切った革の軋み。砦は今日も冬の音を立てていた。


 ルシアンは外套を翻した。


「行くぞ」

「今からですか?」

「必要なものほど、早く確かめておくべきだ」


   *


「——お茶を淹れるだけで、そんなに違うものなんですか?」


 店先で薬草を選り分けながら、リゼットは顔を上げた。


 朝の光は白く、薄い。窓の外では風が通りを削るように吹き、木の看板が小さく揺れている。竈では細い薪がぱちぱちと弾け、店の中には乾いた葉の青い匂いと、湯が温まりはじめる湿った気配が満ちていた。


 問いかけたのは、昨日から手伝いに来ている町娘のノーラだ。赤く荒れた手を布巾で拭きながら、吊るされた薬草の束を見上げている。


「同じ湯で、同じ葉を入れているように見えるのに」

「少しずつ違うの」

 リゼットは月白草の葉先を指で整えた。

「誰が飲むのか、いつ飲むのか、何に困っているのかで」

「そんなに?」

「ええ」


 窓辺に置いた小皿の上で、乾燥させた林檎片が朝の光を受けて薄く透けている。昨日もらった差し入れだ。甘酸っぱい香りが、薬草の青さにやさしく混じっていた。


「たとえば」

 リゼットは小瓶の蓋を開ける。

「夜番明けで体が冷えて、でもすぐ眠るわけにはいかない人には、温めるものを少し強めに。反対に、夜ようやく休める人には、温めすぎない」

「なるほど……」

「同じ“冷える”でも、その先が違うでしょう?」

「……うん、たしかに」


 ノーラが真面目な顔でうなずいた、そのとき。


 扉の鈴代わりにつけた小さな銅片が、からん、と乾いた音を立てた。


 入ってきたのは、昨日の若い兵士と、もうひとり。灰青の外套をまとった背の高い男だった。朝の外気を連れてきたせいで、店の中の湯気がふっと揺れる。雪の匂い。革の匂い。冷えた鉄の匂い。男たちのまとってきた冬の気配が、薬草の香りと混じり合った。


「おはようございます」

 リゼットが一礼すると、若い兵士——ハロルドが気安く手を上げた。

「開いてるな。よかった」

「本日はお連れ様も?」

「ああ」

 彼は妙に歯切れ悪く視線を泳がせる。

「その……うちの副長だ」


 ノーラが、えっ、と声にならない息をこぼした。


 灰青の外套の男——ルシアンは、昨日と同じ静かな眼差しで店内を見回した。火の具合、棚の並び、客席の間隔、窓の位置。そういうものを無意識に把握してしまう目だった。


「昨日の茶を、もう一度頼めるか」

「はい」

 リゼットは頷く。

「副長殿には、昨夜と同じものを少し整えて。ハロルドさんには……今日は林檎を合わせてみましょうか」

「林檎?」

 ハロルドの顔が明るくなる。

「昨日言ってたやつか」

「朝なら、酸味が少しあったほうが目が覚めます」


 竈の上の小鍋の蓋を取ると、やわらかな湯気が顔を撫でた。頬に触れる湿気はやさしいのに、鍋の縁は指先が熱を警戒するほど熱い。そこへ葉を落とし、別の鍋へは細く刻んだ林檎を入れる。熱が通るにつれ、部屋の中に蜜を含んだような甘い匂いがじわりと広がった。


 ノーラが目を丸くする。


「わ、いい匂い」

「朝の匂いでしょう?」

「うん、なんか……寒いのに、少しだけ明るくなる匂い」


 その表現に、リゼットは小さく微笑んだ。


 湯を注ぎ分ける音は、静かな雨に似ていた。とくとく、という細い響きが白磁の内側に満ち、薄金色の水面がわずかに震える。


 ルシアンはカップを受け取り、両手ではなく片手で持った。節のある指、薄い傷、冷えた皮膚。昨日より少しだけ、手の力みが薄いように見える。


「昨夜は」

 リゼットが湯気の向こうで言う。

「少し眠れたのではありませんか」

 ハロルドがぶ、と咳き込んだ。

「やっぱりわかるのか!?」

「顔色が」

「副長、顔色で眠りまで読まれてますよ」

「騒ぐな」


 低い声音はぶっきらぼうだったが、怒気はない。


 ルシアンは一口飲み、ほんのわずかに目を細めた。


「……昨日より、香りが柔らかい」

「朝ですので」

「時間でも変えるのか」

「はい。昨夜のものでは、今の副長殿には少し眠気が強すぎます」

「そこまで見ているのか」

「お仕事の前でしょう?」


 ルシアンはしばらく黙っていた。


 竈の火が爆ぜる。窓の外で風が鳴る。客の少ない朝の店には、その沈黙さえ、どこか居心地よく響いた。


「……なるほど」

 やがて彼は言った。

「本当に、任せたほうがよさそうだ」


   *


 それから間もなく、店の空気は一変した。


 最初に来たのは夜番明けの兵が二人。次に、胃の痛みを抱えた伝令。さらに、鼻をすすりながら書類束を抱えた事務係。どうやらハロルドが詰所で話したらしい。あるいは、ルシアンが立ち寄ったという事実そのものが噂になったのかもしれなかった。


「副長が来た店らしいぞ」

「眠れたって本当か?」

「胃にも効く茶があるんだと」

「甘いのは苦手なんだが……」

「苦くないのを出すってよ」


 戸が開くたびに冷気が流れ込み、そのたびに竈の熱が押し返す。革の匂い。外套についた雪の匂い。若い男たちの、乾いた汗と鉄の匂い。そこへ湯気と薬草の香りが重なって、店の中だけ別の季節になったようだった。


 リゼットは一人ひとりを見た。


 唇の乾き。


 目の縁の赤み。


 肩の高さの違い。


 立ったまま体重をかける足。


 咳払いの癖。


 それらはみな、その人が抱えた不調の小さな印だ。


「あなたには、胃を温めるものを」

「え、わかるのか」

「痛むとき、少しだけここを押さえる癖があるでしょう」

「あ……」


 言い当てられた兵が腹を押さえていた手を引っ込めると、周囲から笑いが起きた。重かった朝の空気が、そこでまた少し軽くなる。


「おまえ、そんなに顔に出てたのか」

「うるさい」

「副長より先に見抜かれてるぞ」

「副長を基準にするな」


 ノーラは注文を聞いてはカップを並べ、マルタは焼きたての固パンを布で包んで運んでくる。パンの表面から立つ香ばしい匂いが、茶の香りに混じって腹を鳴らした。


「リゼット様、こっちは砂糖なしでしたっけ?」

「はい、その方は甘味を強くしないほうが飲みやすいわ」

「こっちは?」

「熱すぎないうちに。喉が荒れていますから」


 忙しさのなかで、不思議と心は澄んでいた。


 誰かの役に立つ場では、迷いが消える。


 湯を注ぐ。


 香りを選ぶ。


 差し出す。


 ほっとした息が返ってくる。


 その一連が、まるで呼吸のように体に馴染んでいく。


   *


 昼すぎ、ようやく客足がひと息ついたころ。


 窓の外では、薄曇りの空から細かな雪が舞いはじめていた。綿埃のような雪片が、通りの石畳に落ちてはすぐ消える。店内は湿り気を帯びた温かさに満ち、吊るした薬草の影が壁にゆらゆらと揺れていた。


 ルシアンは壁際の席に座ったまま、いつの間にか二杯目を飲み終えていた。


「副長殿」

 リゼットが空のカップを下げると、彼は目だけで応じる。

「何だ」

「皆さま、かなりお疲れです」

「見ればわかる」

「見ているだけでは、もったいないです」


 わずかな間。


 ルシアンの眉がほんの少し動く。


「どういう意味だ」

「詰所ごとに、置いておける茶葉の組み合わせを作れます」

「……置き茶、ということか」

「ええ。夜番前、夜明け後、胃痛が出やすい方、喉を使う方。すべて同じでなくていいのです」

 リゼットは卓の上に指で小さく区切りを描いた。

「その場に合ったものを、最初から分けておけば」

「効率がいい」

「はい」


 エドガーが、ほう、と感心したように息をつく。


「副長、兵站にもなります」

「茶がか」

「茶だからこそ、かもしれません」

 リゼットは答える。

「薬より軽く、食事より早く、毎日続けられますから」


 ルシアンは黙って彼女を見る。


 その視線には、値踏みとも疑念とも違う、確かめるような静けさがあった。白い湯気の向こうで視線がぶつかる。店の音はあるのに、その一瞬だけ、まるで深い雪の中みたいに周囲が遠のいた。


「……できるのか」

「できます」

「人手は」

「足りません」

「正直だな」

「足りないのに、足りると言っても仕方ないでしょう」


 その答えに、エドガーが吹き出しかけ、慌てて咳で誤魔化した。


 ルシアンの口元が、ほんのわずかに動く。


「人は回そう」

「よろしいのですか」

「必要だと判断した」


 短い。だが、その短さがこの人の誠実さなのだと、リゼットはもう知り始めていた。


「それと」

 ルシアンは立ち上がる。

「この店は、今後も続けてもらう」

「……はい」

「残しておけ、と昨日言った」

 彼は外套の留め具に手をかけながら、静かに続けた。

「訂正する。残すのではない。必要だ」


 その言葉は、低い声のまま、まっすぐリゼットの胸に落ちた。


 王都では一度も聞かなかった響きだった。


 華やかだとか、上品だとか、従順だとか。


 そんな飾りの言葉ではなく。


 必要だ、と。


 ただそれだけを告げられることが、こんなにも体を温めるのだと、リゼットは初めて知った。


   *


 午後になると、茶屋はさらににぎわった。


 兵だけではない。編み物籠を持った老婆、咳の残る鍛冶屋、買い出し帰りの母親、荷運びの青年。誰かが“あそこへ行け”と言えば、別の誰かが半信半疑で扉を開ける。その連なりが途切れない。


「副長も飲んだんだって?」

「じゃあ効くんだろうね」

「夜番の帰りに寄ろうかしら」

「いや、俺は昼の胃のやつがほしい」


 人の声が重なり、茶器が触れ合い、火が鳴る。


 ノーラはいつの間にか客の顔と注文を結びつけられるようになっていた。

「ハロルドさんは林檎のやつ、ですよね?」

「お、覚えられてる」

「もう三回目ですから」


 マルタはパンを切り分けながら、半ば呆れたように笑う。

「こんなに人が入るなんてねえ。昨日まで空っぽの店だったのに」

「空っぽだったから、入ったのかもしれません」

 リゼットが答えると、マルタは目を細めた。

「そうかもしれないね」


 夕方近く、窓の外は藍色に沈み始めた。雪はやみ、代わりに空気がひどく澄んでくる。寒さは増したはずなのに、店の中は火と人の熱でほどよくあたたかい。曇った窓に誰かが指で丸を描き、子どもがその穴から外をのぞいて笑った。


 リゼットは湯を注ぎながら、その光景を見た。


 ここはもう、ただ茶を売る場所ではない。


 冷えた人が温まり、疲れた人が息をつき、誰かの顔色を見て別の誰かが声をかける。噂が集まり、笑いが生まれ、明日の段取りまで決まっていく。


 茶屋は小さい。


 けれど、小さいからこそ、人の息づかいが近い。


 その近さが、この町には必要なのだと、肌でわかった。


   *


「——リゼットさん」


 閉店後、最後の客を送り出したあとで、戸口からハロルドがひょいと顔を出した。夜の冷気に頬を赤くしながら、どこか落ち着かない様子で立っている。


「どうしました?」

「ええと、その」

 彼は首の後ろをかく。

「副長がさ」

「はい」

「明日、本隊のほうへ来られるかって」

「詰所へ?」

「ああ。夜番の連中の様子を、一度見てほしいらしい」


 店の中には、火が落ち着いていく匂いがしていた。燃えきる直前の薪の、少し甘いような焦げの匂い。洗ったばかりの白磁の器は、まだ指先にぬくもりを残している。


 リゼットはゆっくり瞬きをした。


 王都では、茶や薬草の知識は“家の中の便利ごと”でしかなかった。


 だがここでは、それが砦を守る手伝いになるという。


 たった数日で、そんなふうに世界が変わるものだろうか。


「……行きます」

 答えると、ハロルドはぱっと顔を明るくした。

「助かる! みんな、かなり限界で」

「では朝、少し早く開けてから向かいます」

「ほんとに?」

「店も大事ですもの」

「欲張りだなあ」

「必要なのでしょう?」

 そう返すと、ハロルドは苦笑した。

「それ、副長と同じこと言うな」


 扉が閉まり、外の風の音が少し遠くなる。


 リゼットは一人、竈の前にしゃがみこんだ。赤く熾った炭を火箸で整えると、ぱち、と小さな火の粉が飛ぶ。赤い、静かな光。消えそうで、まだ消えない熱。


 必要だ。


 その言葉が、胸の内で何度もやわらかく反響する。


 明日は砦へ行く。


 眠れない人たちの顔を見る。


 この茶屋の湯気が、もっと広い場所へ届く。


 窓の外では、辺境の夜が深く、濃く沈んでいく。だが店の中には、薬草の香りと火のぬくもりが残っていた。そのやさしい熱に包まれながら、リゼットはそっと両手を組む。


 静かに暮らしたい。


 その願いはまだ心の底にある。


 けれど今は、それと同じくらい強く思うのだ。


 明日も、誰かが少し楽になりますように、と。


 そして、その願いを口にしなくてもわかる人が、この町にはもういるのだと。


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