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第1話 捨てられた薬草令嬢

「——では、婚約はここで解消とする。異論はないな、リゼット」


 硝子杯の触れ合う高い音が、広間のざわめきに混じって消えた。


 その一言だけが、妙に澄んで聞こえた。


 春の夜会だというのに、リゼットの指先は冷えきっていた。薄絹の手袋越しでもわかるほど、白い指は強張っている。香炉から漂う甘い花香と、磨き上げられた大理石のひやりとした匂い。蝋燭の熱に溶けた蜜の匂いまで、いやに濃く鼻についた。


 目の前には婚約者のアーヴィング。金の刺繍をまとった正装姿はいつも通り華やかで、その隣には、淡い桃色のドレスに身を包んだ妹のミレーユが立っていた。


「……異論、ですか」


 喉が乾いて、声が少しかすれた。


 楽団の弦が、遠くでなめらかに流れている。笑い声も、衣擦れの音も絶えないのに、この一角だけ空気が薄いみたいだった。


「そうだ。君は公爵令嬢としては申し分ないが、私の隣に立つ妃としては華が足りない」

「お姉さま、アーヴィング様もお立場があるの。どうか責めないで差し上げて」

「責める、だなんて」


 リゼットはミレーユを見た。


 妹の頬は上気して、唇は薔薇の花弁のようにつややかだった。幼いころ熱を出すたび、苦い薬を嫌がる妹のために蜂蜜入りの薬草茶を淹れたことを、どうしてだか思い出す。


 あの子は、そのたびに「お姉さまのお茶はおいしいわ」と笑ってくれたのに。


「私はただ、急なお話に驚いているだけよ」


 そう言うと、アーヴィングは肩をすくめた。


「急ではない。前から思っていたことだ。君は地味すぎる」

「……」

「社交の場で人を惹きつけることもできず、流行の薬学にも疎い。茶だの薬草だの、古臭い実用ばかりだ。王都の中心に立つ者の妻としては、あまりに見栄えが悪い」


 言葉は軽いのに、刃先のように正確だった。


 ざわめきの中で、何人かがこちらを見ているのがわかった。扇の陰に半分隠れた笑み。好奇心に濡れた視線。香水の甘ったるさが、むっとするほど濃くなる。


「ですが、お姉さまの薬草茶は……」

 ミレーユが口を開きかけ、わざとらしく伏し目がちになる。

「いいえ、ごめんなさい。今は、そんなお話ではありませんわね」


 胸の奥が、じわりと冷えた。


 助けるつもりなどないのだと、その一拍の間だけで十分わかった。


「ミレーユを正式な婚約者に迎える」

 アーヴィングは言った。

「彼女のほうが愛らしく、人の心を掴む。私の隣にはふさわしい」


 会場のどこかで、誰かが息を呑んだ。


 リゼットはゆっくり息を吸う。花と酒と蝋の混じった空気が肺を満たし、かえって気分が悪くなる。


「それで、わたくしは」

「父君にも了承はいただいている」


 その瞬間、足元の床が一段沈んだような錯覚がした。


「お父様が?」

「後で直接お聞きになればいい。君はしばらく王都を離れ、北の辺境伯領へ行く。静養と——そうだな、気分転換にはちょうどいいだろう」


 静養。


 聞こえのよい追放だった。


 広間の天井には、巨大なシャンデリアが幾重にも光を散らしている。その光が、今だけは氷の破片みたいに見えた。


「お姉さま」

 ミレーユが一歩寄ってくる。

「向こうで、ゆっくりなさって。お姉さまは昔から、静かな場所のほうがお好きでしょう?」


 耳に心地よい声のはずなのに、今日はひどく遠い。


 リゼットは答えなかった。


 代わりに、広間の隅に置かれた銀盆の上のティーカップを見た。淡い琥珀色の茶。立ちのぼる湯気。誰もその香りに気づかない。見栄えのいい砂糖菓子ばかりが先に手を伸ばされる。


 それはまるで、自分のようだと思った。


   *


「辺境へ行ってもらう」


 夜会のあと、公爵家の書斎はインクと古紙の匂いで満ちていた。重たいカーテンのせいで空気はよどみ、暖炉の火は赤いのに、部屋は少しも暖かく感じない。


 父は机の向こうから一度も立ち上がらなかった。


「アーヴィング殿下——いや、アーヴィング公子との縁がなくなった以上、お前を王都に置いても余計な憶測を呼ぶだけだ」

「わたくしの意思は、問われないのですね」

「家の益にならぬ意思を、わざわざ問う必要があるか?」


 乾いた声音だった。


 窓の外では風が木々を鳴らしている。爪で引っかくみたいな音だ、とリゼットは思った。


「お前は昔からそうだ。役には立つが、華がない」

「……役には立つ、と」

「茶や薬草の知識など、地方では多少便利かもしれん。せいぜい辺境で慎ましく過ごせ」


 慎ましく。


 それは父の口から出るには、あまりにも都合のよい言葉だった。


「わかりました」


 口にしたとたん、自分でも驚くほど声は静かだった。


 怒鳴りたくはなかった。泣き崩れたくもない。ただ、胸の奥に積もった雪みたいなものが、音もなく固まっていくだけだった。


 部屋を出ると、廊下の燭台の火がゆらゆら揺れていた。侍女のエマが扉の前で待っていて、青ざめた顔を上げる。


「お嬢様……」

「聞いていたのね」

「少しだけ、です。でもそんな……辺境だなんて」


 エマの手は温かかった。自分の手だけがひどく冷たい。


「持っていける荷は多くないそうよ」

 リゼットは笑おうとして、うまくいかなかった。

「薬草本と、調合道具をまとめてくれる?」

「服や宝飾品は」

「いらないわ」


 少し考えてから、付け足す。


「茶器を一組だけ。白磁の、持ち手の細いものを」


 エマは泣きそうな顔でうなずいた。


 その夜、自室で荷をまとめながら、リゼットは窓を細く開けた。夜気はまだ冷たく、春浅い土の匂いが流れ込んでくる。遠くで馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。


 棚から薬草本を抜くと、乾いた葉の香りがふわりと立つ。カモミール、ペパーミント、月白草。指先に触れる紙は少しざらついて、幼いころ母の膝で読んでもらった記憶まで引きずり出した。


 ——薬草は、派手ではないけれどね。

 ——困っている人のすぐそばで、ちゃんと役に立つのよ。


 母の声が、耳の奥で柔らかく響いた。


 その記憶にすがるように、リゼットは本を胸に抱く。


 役立たずだと言われた日に、役に立つことを教えてくれた人を思い出すなんて、皮肉だ。


   *


 北へ向かう馬車の中は、革張りの座席の匂いと、積み荷の乾いた麻布の匂いがした。


 窓の外を流れる景色は、王都を離れるほど華やぎを失っていく。整えられた街道、刈り込まれた並木、色とりどりの屋根。やがて畑の土はむき出しになり、風は鋭くなり、空の色は高く薄くなった。


 朝、吐く息が白い。


 昼、馬車の窓から差し込む陽射しは明るいのに、空気は冷たい。


 夕方、宿場で出された薄いスープは塩気が強く、硬いパンを浸しても喉を通りにくかった。


「この先の辺境伯領は、今年も雪解けが遅いそうですよ」

 御者が焚き火のそばで言った。

「医者も少なくてね。兵士さんたちも、冷えと寝不足に悩まされてるとか」

「寝不足?」

「夜番が多いんでしょうな。魔獣も出ますし」


 焚き火の煙が鼻を刺す。ぱちりと弾ける火の音が、夜の静けさに妙に大きい。


 リゼットは、木椀に注いだ熱湯へ乾燥葉をひとつまみ落とした。立ちのぼる青い香りに、御者が目を丸くする。


「それは?」

「少し身体が温まる茶です。よろしければどうぞ」


 御者は恐る恐る口をつけ、次の瞬間ほっと息を吐いた。


「……ああ。なんだ、これ。胸がすっとする」

「寒い夜には向いています」


 焚き火の熱とは別の、じんわりした温もりがその場に広がる。


 たった一杯。


 それでも、誰かの顔色が少し和らぐのを見ると、凍っていた胸の奥がわずかにほどけた。


   *


 辺境伯領の町に着いたのは、鉛色の雲が低く垂れこめる昼下がりだった。


 風が強い。


 石造りの建物の角を吹き抜けるたび、砂混じりの冷気が頬を打つ。家々の屋根は低く、煙突からは白い煙がまっすぐではなく、横に流れていた。道行く人々は皆、厚手の外套をきつく合わせ、足早に歩いている。


 王都の甘い香水の匂いはない。


 代わりにあるのは、薪の煙、湿った木、干した魚、土、獣脂、冬を長く生きてきた町の匂いだった。


「ようこそおいでくださいました、公爵令嬢様……いえ、リゼット様」

 出迎えたのは、町役場の世話役だという中年の女性だった。

「ご滞在先はこちらです」


 案内されたのは、表通りから少し外れた小さな店舗だった。


 木の扉は古く、窓辺には薄く埃が積もっている。けれど中に入ると、棚があり、奥に小さな竈があり、二階へ続く階段もある。空っぽの室内は寒々しいのに、不思議と息苦しくはなかった。


「以前は茶と軽食を出す店だったんですよ」

 世話役は少し申し訳なさそうに言う。

「立派とは言えませんが、住むには困らないかと」

「……いいえ」


 リゼットは室内を見回した。


 古びた木の棚。小さな窓。火を入れればすぐに温まりそうな竈。客を迎えるための空間。


 何もない。だからこそ、ここからなら始められる。


「とても、いいところです」


 そのとき、入口の扉が乱暴に開いた。冷たい風と一緒に、外套姿の若い兵士が顔を出す。


「ああ、すまん! ここ、もう入っていい店かと——」

 兵士は中を見て、目をしばたたいた。

「……違ったか」


 頬は赤く、鼻先は冷え、まぶたの下には濃い隈がある。指先もかじかんでいるのか、扉を押さえる手がわずかに震えていた。


 リゼットは反射的に口を開いていた。


「少しお待ちください」


 荷から小さな鍋と茶葉袋を取り出す。竈に残っていた熾火へ息を吹きかけると、ぱっと赤みが増した。水が温まるまでのあいだ、乾いた葉を指で軽く砕く。清涼な香りに、かすかな甘みを帯びた根の匂いを混ぜる。


 しゅん、と湯が鳴いた。


 白磁の茶器に注げば、薄い金色の湯気が立つ。


「夜番のあとですか?」

「……ああ」

「では、強すぎないものを。冷えにも効きます」


 兵士は言われるまま受け取り、疑い半分で口をつけた。


 次の瞬間、こわばっていた眉がほどける。


「うまい」

 ぽつりと落ちた声は、思った以上に素直だった。

「それに、変に甘くない。喉が楽だ……なんだこれ」

「薬草茶です」

「薬、なのにこんなに飲みやすいのか」


 兵士の吐く息が、さっきより深い。


 その様子を見ていた世話役が、丸い目をさらに丸くした。


「まあ……」

「この町は冷えますから」

 リゼットは湯気の向こうで、静かに言った。

「もしよろしければ、ここでお茶のお店を開いても?」


 風が窓を鳴らす。


 白い湯気が、空っぽだった部屋にゆっくり満ちていく。


 兵士はカップを両手で包んだまま、もう一口飲んだ。


「開いてくれ」

 今度は、はっきりと。

「そういう店、ここには必要だ」


 その一言は、王都で浴びたどんな賛辞よりも、まっすぐ胸に落ちた。


 冷えきっていた指先に、ようやく血が戻る。


 窓の外では灰色の空の下、知らない町の煙がたなびいている。厳しくて、寒くて、決してやさしい土地ではないのだろう。


 それでも。


 リゼットは、生まれて初めて、自分の持つものが誰かの役に立つ音を聞いた気がした。湯の鳴る音。茶器の触れ合う音。安堵して吐かれる、深い息の音。


 静かに暮らしたい。


 その願いは、きっともう簡単には叶わない。


 けれどこの町なら。


 この小さな店からなら。


 失ったものとは違う何かを、もう一度、自分の手で淹れなおせるかもしれなかった。


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