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第二章① 同じ屋根の下

 アンジェリカは、人を探していた。名前だけを手がかりに、遠い場所からこの街まで来た。理由は語らない。語ることを躊躇っているのか、それともオルランドに伝えることを嫌がっているのか。まあ、わざわざ理由を聞くほどのことでもないだろう。そして───見つかるまでの間、彼女はオルランドの事務所に留まることになった。


 アンジェリカが招かれた二階の部屋は簡素だった。小さな寝台。古い机。窓はあるが、景色は灰色の街しか見えない。長く使われていなかったはずなのに、不思議と埃は少なかった。誰かが、いつでも使えるようにしていたかのように。

「……良いんでしょうか」

 アンジェリカはそう言った。本心だった。この街に来てから、屋根の下で眠れる夜は少なかったからだ。そして、依頼人と便利屋という関係なのに、ここまでしてもらっている事に罪悪感を覚えたからだ。


 朝は静かに始まる。オルランドは早く起き、湯を沸かし、簡単な食事を用意する。特別なものはない。硬いパンと、薄いスープ。無駄な出費はできない、オルランドが苦しい生活の中編み出した、最低限の栄養が取れる食事だった。それでも、何もないよりはずっと良かった。そして、最初の数日は、会話はほとんどなかった。必要なことだけを話し、それ以上は踏み込まない。二人も周囲と変わらず、この街の距離感だった。


 変化は、とても小さなところから始まった。三日目の朝。アンジェリカは、スープに少しだけ香辛料を足した。それだけで刺激が生まれ、食事にわずかな面白みが生まれた。

「……ありがとうございます。」

 オルランドが言う。

「いえ、これぐらいは。」

 アンジェリカは微笑んだ。その微笑みは、この街のものではなかった。色があった。


 それから時々、彼女は食事を手伝うようになった。包丁の扱いは慣れているようで、火加減も正確だった。

「今まで一人が多かったので…」

 それだけを理由にした。だが実際には、もっと整った場所で生きてきた手つきだった。高貴な場所の動きだった。オルランドは気づいたが、何も聞かなかった。聞かないことも、優しさの形だと知っていた。


 昼間、オルランドは依頼で外に出る。危険な区域。壊れた装置。消えた記録。

戻ってくる頃には、服に灰や油が付いている。アンジェリカは何も言わず、洗濯用の水を用意していた。それだけだった。それだけなのに、オルランドは妙に安心した。


 ある日、雨が降った。この街では珍しい、長く続く雨だった。依頼は来ない。外にも出られない。二人は事務所の中で、ただ時間を過ごした。静かな午後。窓を打つ雨音だけが響く。


「……静かですね。」

 アンジェリカが言った。

「ええ───」

 それだけの返事。沈黙は続く。だが不思議と、居心地は悪くなかった。


「こういう時間は、久しぶりです。」

 彼女は窓を見たまま言った。

「追われない時間があるのは、少し不思議で。」

 その言葉に、オルランドは何も返せなかった。オルランドも、こんなゆっくりできる時間は久しぶりだった。そして返事の代わりに、湯を沸かした。カップは二つ。もう、迷うことはなかった。買っておいた安物の茶葉を使う。


 湯気が立ちのぼる。アンジェリカは両手でカップを持ち、小さく息を吐いた。

「……温かいですね。」

 初めて来た日の、あの時と同じ言葉。けれど響きは、少しだけ柔らかかった。実際の温度というよりかは、心の温度の話だったかもしれない。


「オルランドさんは───」

 彼女が静かに呼ぶ。名前を呼ばれたのは、いつ以来か分からなかった。そして、オルランドという人間に質問をされたのも。

「どうして、この仕事を?」

 簡単な問い。だが答えは、簡単ではない。

「……他に、 向いていることがなかっただけです。」

 半分は本当で、半分は違った。本当の理由は、もっと昔に置いてきた。あの出来事は話そうとは思えなかった。惨めで情けないから。


 アンジェリカは追及しない。ただ頷いた。それだけで、十分だと思えた。


 雨は夜まで続いた。灯りの下で、二人は向かい合って座る。会話は少ない。沈黙は長い。それでも───孤独ではなかった。


 その感覚に、オルランドは少しだけ戸惑った。慣れてはいけないものに、慣れ始めている気がしたからだ。この街では、温かさは長く続かない。知っているはずなのに。


 アンジェリカもまた、同じことを感じていた。ここにいれば、探している人を見つけられるかもしれない。それだけの理由で、留まるはずだった。けれど今は───それだけではなくなり始めている。


 夜が更ける。それぞれの部屋へ戻る前、小さな沈黙があった。

「……おやすみなさい。」

 アンジェリカが言う。

「おやすみなさい。」

 オルランドが返す。ただそれだけの言葉。それなのに、胸の奥が少しだけ温かかった。


 まだ、何も始まっていない。名前もつかない感情が、静かに芽生えただけだ。それでも確かに、昨日までとは違う夜だった。


 そして二人は、まだ知らない。この穏やかな時間が、やがて取り返しのつかない喪失へと変わり、一人を狂わせ、もう一人を永遠に奪うことを。


 それでも今は。

 同じ屋根の下で、二つの呼吸が静かに重なっている。その小さな平穏だけが、確かに存在していた。

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