第九章 終わりの夜
帰路は、静かすぎた。依頼は空振り。決戦兵器の痕跡もなし。胸騒ぎだけが、理由もなく残っている。オルランドは何度も足を速めた。隣を歩くアストルフォも、何も言わない。言葉にすれば、不安が現実になる気がした。やがて───街が見えた。今度は朧げな形でなく、はっきりと。だが。見えた瞬間、二人は足を止めた。街が、崩れていた。建物は押し潰され、道は裂け、人の形を保ったものは───ほとんどない。いや、全くない。血の匂いだけが、夜の空気に重く沈んでいる。
もう、この夜は、静かではなかった。崩壊の音が、絶えず響いていた。石が砕け、梁が折れ、壁が潰れる。街そのものが、何か巨大な意志に踏み荒らされている。あれが。二人は気づいた。知りたくなかった。あれが。あれが探し求めていた、息の根を経とうとしていた、決戦兵器だ。何本も生えた触手、折れ曲がりバラバラの関節部、垂れ流す体液。その決戦兵器は───ただ前に進んでいた。歩くだけで、周囲の建物が耐えきれず内側から崩れ落ちる。触れてすらいない。それでも、壊れる。まるで存在そのものが、世界に許されていない異物だった。その進路上に、一人の女性が立っていた。アンジェリカ。片足を引きずりながら、それでも剣を構えている。息は荒く、立っているだけで限界に近い。それでも退かない。ここで止めなければ、さらに多くが死ぬと知っているから。
刹那。衝突。音が、消えた。剣撃も、衝撃も、すべてが現実感を失うほどの一瞬。次の瞬間───アンジェリカの体が、大きく弾き飛ばされた。地面を転がり、瓦礫に叩きつけられ、動きが止まる。足の傷が、限界を超えていた。もう、立てない。それでも彼女は、顔を上げた。そして───見つける。遠く。瓦礫の向こう。走ってくる影。それは、オルランド。時間が、遅くなる。音が、遠ざかる。痛みも、恐怖も、すべてが薄れていく。代わりに胸を満たしたのは、たった一つの感情だった。
安堵。
アンジェリカは、微かに笑う。震える手で、自分の剣を握り直す。ドゥリンダーナ。自分が生きてきた証。戦ってきた証。彼と共にあった時間、そのもの。腕に力は入らない。それでも───最後の力を振り絞り、彼女は剣を振りかぶる。決戦兵器に投げつけるのではない。悪あがきは、見せたくないから。視線の先は、ただ一人。
「……生きて。」
声は、まだ届かない距離。それでも、口は確かに動いた。剣が、放たれる。回転しながら、夜を裂き、一直線に───オルランドのもとへ。彼は反射的に、それを両手で受け止めた。重さ。温もり。見慣れた柄。理解が、追いつかない。だが───意味だけは、分かってしまう。もう、なにもかもを捨て去ってしまいたくなるほど。顔を上げた瞬間。世界が、崩れた。決戦兵器の腕が、アンジェリカへと振り下ろされる。速さは感じない。ただ、結果だけが存在した。肉が裂ける音。骨が砕ける。そして───遅れて噴き上がる、鮮烈な血飛沫。赤が、夜に散る。瓦礫を濡らし、空気を染め、静かに落ちていく。悲鳴は、なかった。もう声を出す時間すら、与えられなかった。ただ、僅かに動いた唇は、さよならと言った気がした。オルランドの視界が、赤に染まる。何も聞こえない。何も動かない。ただ一つ。彼女が、そこにいないという事実だけが残る。この瞬間だけは、世界が静寂を受け入れた。
だが、静寂は、長くは続かなかった。オルランドの手の中で、ドゥリンダーナが───かすかに震えた。それは剣の震えではない。持ち主の感情に応える、微かな共鳴。理解が、遅れて追いつく。彼女は、もういない。
二度と、声は聞こえない。
二度と、笑わない。
二度と───触れられない。
その事実が、胸の奥で形を持った瞬間。何かが、壊れた。呼吸が戻る。だがそれは、生きるためではない。胸を満たしたのは、悲しみですらなかった。怒り。ただ純粋で、混じり気のない、焼けつくような怒り。オルランドは、立ち上がる。ゆっくりと。しかし確実に。足元の瓦礫が、彼の体重ではなく───漏れ出した力で軋んだ。
遠ざかっていた決戦兵器が、わずかに動きを止める。振り向くでもなく、警戒するでもない。ただ───存在の奥底で、何かを感知したように。次の瞬間。地面が、砕けた。オルランドの姿が、消える。衝撃音。遅れて、空気そのものが裂ける。決戦兵器の巨体が、初めて───揺れた。胸部装甲が、内側から弾け飛ぶ。剣は見えない。速すぎて、ただ結果だけが刻まれていく。二撃。三撃。数え切れない斬撃。すべてが、感情のままに振るわれていた。技でも、戦術でもない。ただ───
殺意そのもの。決戦兵器が腕を振るう。遅い。触れる前に、その腕は根元から切断されていた。巨体が崩れかける。それでもなお、機構だけは動き続けようとする。だが。もう遅い。オルランドは、無言のまま跳躍し───ドゥリンダーナを、真上から振り下ろした。一閃。音は、なかった。次の瞬間。決戦兵器の中心線に、静かな亀裂が走る。光が漏れ、内部構造が崩れ、存在そのものが分解していく。巨体は、抵抗すら許されず───ゆっくりと、左右に分かれた。崩壊。完全停止。沈黙。それは戦闘ではなかった。ただの───処刑だった。
瓦礫の上に、オルランドは立っている。肩で息をすることもない。勝利の実感もない。あるのは───空白。足元には、動かなくなった残骸。その向こうには、もう動かない彼女。怒りは、消えていない。むしろ───どこまでも、深く沈んでいく。
この夜。
一つの兵器が破壊され。
そして同時に───
一人の人間が、終わった。




