第九章 来ない影
帰還してからの日々は、驚くほど静かだった。研究所の記録は提出された。外縁部の異常も、いつものように曖昧な報告へと沈んだ。街は何も知らない。知らないまま、いつも通りに朝を迎えている。
だが───オルランドだけは違った。眠りが浅い。物音に反応する。窓の外を何度も確かめる。理由は明確だった。決戦兵器。存在している。すでに放たれている。そして───どこにいるか分からない。来るかもしれない。来ないかもしれない。その「分からなさ」が、最も神経を削った。
アンジェリカの足は、まだ完治していなかった。歩けないわけではない。だが長時間の戦闘は不可能。無理をすれば、後遺症が残る可能性もある。それでも彼女は、できるだけ普段通りに振る舞った。椅子に座り、書類を整理し、簡単な依頼の連絡を受ける。静かな日常。小さな幸福。そのどれもが、壊れやすく見えた。
ある日の午後、扉を叩く音がした。三回。迷いのない強さ。オルランドはすぐに立ち上がる。この叩き方をする人物は、一人しかいない。扉の向こうにいたのは、やはりアストルフォだった。だが───その表情は軽くない。
「少し気になる依頼が来た。」
挨拶もそこそこに、紙片を差し出す。
内容は短い。外縁近郊で確認された大型異常個体の痕跡調査。付記として、こう書かれていた。既存変異体と規模が一致しない可能性あり
部屋の空気が、わずかに固まる。アンジェリカの指が、無意識に止まった。オルランドは紙を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
「……行く。」
迷いはなかった。むしろ───待っていた言葉に近い。
アンジェリカが口を開く。
「私も───」
だが最後まで言えなかった。視線は、自分の足へ落ちている。痛みは残っている。事実も、変わらない。
短い沈黙。オルランドは、静かに首を横に振った。
「今回は、休め。」
命令ではない。責めてもいない。ただ───守るための言葉。懇願。
アンジェリカは何も言わなかった。言えば、彼を困らせると分かっていたから。代わりに小さく頷く。それだけで、十分だった。
出発はすぐに決まった。依頼を受けたのは二人。オルランドとアストルフォ。久しぶりの、男二人の依頼。かつて何度もあった形。だが今は、どこか違う重さがある。
現場は、外縁からさらに離れた荒地だった。戦闘の痕跡。抉れた地面。焼けた金属片。確かに、何かは起きている。だが───
「……違うな。」
アストルフォが先に言った。オルランドも同じ結論に至っていた。規模は大きい。だが質が違う。決戦兵器ではない。
現れたのは、大型化した変異体の群れだった。危険ではある。だが───対処可能。二人は無言で踏み込み、短時間で制圧する。剣が閃き、銃声が乾き、やがて静寂が戻る。終わり。あまりにも、いつも通りの終わりだった。
「……空振りか。」
アストルフォが空を見上げる。灰色の雲。何も降ってこない空。オルランドは答えない。胸の奥に残るのは、安堵ではなかった。むしろ逆。まだ来ていないという事実。それだけが、重く沈んでいた。
帰路、二人の会話は少なかった。言葉にすれば、不安が形になる。それを避けているのは、お互い同じだった。
遠くに町の明かりが見えた時、オルランドはわずかに息を吐いた。あそこには、アンジェリカがいる。それだけで、世界はまだ保たれている。
だが───来ない影は、消えたわけではない。ただ静かに、近づく時を待っているだけだ。
そしてオルランドとアストルフォは気づいていない。今彼らの目も中に映っている街が、そこにある建物が崩壊をしていることを。そして、無惨な死体が転げていることを。




