第八章 触れてはならない中枢
アンジェリカは、片足を引きずっていた。完全に体重を預けているわけではない。自分で歩こうとしている。それでも、歩幅は確実に不揃いだった。オルランドは、無言で彼女の肩を支えている。強く掴めば負担になる。弱ければ転ぶ。その絶妙な距離を、彼は一歩ごとに調整していた。
「……ごめんなさい」
不意に、アンジェリカが言った。声は小さい。だが、はっきりしている。
「謝ることじゃない。」
即答だった。
「ここに来ると決めたのは、全員だ。」
それ以上の言葉は続かなかった。続ければ、余計な感情が混ざると分かっていたから。依頼遂行に───私情を入れない。
最深部へ向かう通路は、それまでとは明らかに違っていた。清掃されている。照明が均一。床に血痕がない。使われ続けている場所だ。いや、照明がすり減らなくなってもう血痕も付かなくなったの方が正確だろう。
「……研究員は、ここには入らなかったみたいだな。」
アストルフォが周囲を見渡しながら言う。
「入る必要がなかった、の方が近い。」
オルランドは低く答えた。操作は外部。管理は遠隔。そして───結果だけを受け取る。人が不要になる構造。
中央制御室の扉は、拍子抜けするほど簡単に開いた。中は、無人だった。巨大な記録端末。天井まで伸びる観測柱。複数の補助装置。そして───空の固定架台。明らかに、「何か」を置くための場所。だが、そこには何もなかった。
「……本体は、いない。」
アストルフォが呟く。アンジェリカは、その言葉を聞いても驚かなかった。むしろ、納得したように目を伏せる。
「出したのね……。」
「……ああ」
オルランドは端末に近づき、記録を引き出す。断片的なログ。破棄された設計図。未完の運用計画。そこに共通していた言葉がある。
“決戦対応型”
“人格非依存”
“単体殲滅効率最大化”
兵器。それも、使う者を選ばない種類の。
アストルフォが顔をしかめる。
「……これ、人じゃないな。」
「最初から、人である必要がない。」
「いや、研究員に人の心がないって話だ。」
「………そうか。」
オルランドは淡々と答えた。
だからこそ───外に出せる。だからこそ───制御できない。
アンジェリカは、支えられたまま、架台を見つめていた。空虚。だが、そこにあったはずの“存在感”だけが残っている。
「……ここで止められたら、よかったのに───」
その言葉は、願いだった。
データは全て回収した。それ以上、ここに留まる理由はない。怪物の気配が、再び増え始めている。
帰路は、来た時よりも静かだった。アンジェリカの足取りは重い。それでも、彼女は歩くのをやめなかった。オルランドは、最後まで彼女を支え続けた。言葉はない。ただ、その重みを知ったまま。
地上へ出たとき、外の光がやけに眩しく感じられた。研究所は、何事もなかったかのように背後に沈んでいる。
「……とりあえず、帰ろう。」
アストルフォが言う。誰も反対しなかった。
その日の報告書には、こう記されることになる。
決戦級兵器:記録のみ確認実体未発見
追跡不能
だが三人は、同じことを思っていた。───いないのではない。もう、どこかにいる。そして、アンジェリカの足に残った痛みは、やがて一つの選択を生む。守るための選択。離すための選択。その夜は、まだ訪れない。




