第八章 光の届かない階層
研究区画外縁部は、外から見た以上に深く沈んでいた。扉を越え、通路を進み、さらに下層へ降りるほど───空気は重く、音は鈍くなる。まるで建物そのものが、外界を拒んでいるようだった。
「……生きてるな、ここ。」
アストルフォが小さく呟く。照明は点灯している。端末も動いている。だが、人の気配だけがない。三人の足音だけが、長い通路に反響する。オルランドは無言のまま、周囲を観察していた。壁面の擦過痕。乾いた染み。引きずられた形跡。戦闘ではない。逃走の痕だった。
最初の異常は、音ではなく───匂いだった。腐敗ではない。血でもない。薬品とも違う。もっと人工的で、それでいて生物的な匂い。アンジェリカが眉を寄せる。
「……近いわ。」
その瞬間。
通路の奥の闇が、動いた。形は定まらない。四肢の数が合わない。関節の向きが逆転している。だが速度だけは、異様に正確だった。一直線に───アンジェリカへ。
「右!」
オルランドの声と同時に、ドゥリンダーナが抜かれる。光が走る。一閃。肉の束が弾け、通路の壁に叩きつけられる。止まった───はずだった。
怪物は、崩れながら前進した。骨格が折れている。筋繊維も断裂している。それでも───進む。痛覚では止まらない。理性も存在しない。ただ、壊れるまで動く。悍ましい成果物。
「下がれ!」
オルランドが踏み込む。発射された銃弾は正確に中枢を破裂させる。沈黙。重い音とともに、異形は床に広がった。
終わり───ではなかった。
背後。別の気配。気づいた時には、もう遅い。壁面の影から伸びた腕が、アンジェリカの足を───
鈍い衝撃。布が裂け、骨に響く音。アンジェリカの呼吸が、一瞬だけ止まる。それでも悲鳴は上げない。代わりに、歯を食いしばる音がした。
次の瞬間、ドゥリンダーナが振り下ろされる。影ごと、腕は断たれた。床に落ちたそれは、しばらく痙攣し───やがて動かなくなる。
静寂。遅れて、血が床に広がった。
「……大丈夫か。」
オルランドの声は、驚くほど低かった。アンジェリカは息を整え、小さく頷く。
「立てる……わ。」
だが、立ち上がった瞬間───わずかに、体が揺れた。
アストルフォの視線が、傷口に落ちる。深い。骨までは達していない。だが───戦闘継続には重い位置だった。
「……撤退も考えるべきだ。」
珍しく、彼が先に言った。オルランドは答えない。ただ、アンジェリカを見ている。痛みを隠そうとする表情。剣を手放さない指。それでも滲む、わずかな震え。
その光景は、言葉よりも強く───何かを刻んだ。
「……進む。」
アンジェリカが言う。声は静かで、折れてはいない。
「ここで止まったら、ここまで来た意味がない。」
沈黙が落ちる。短い。だが重い。
「……分かった。」
オルランドは、それ以上何も言わなかった。言えなかった。
三人は再び歩き出す。同じ通路。同じ闇。同じ沈黙。けれど───もう、来た時と同じ歩き方ではなかった。
この小さな傷は、まだ誰も知らない未来へ続いている。やがてそれは───一つの選択を生み、取り返しのつかない夜へ繋がる。




