第八章 依頼の匂い
朝は、いつも通りに始まった。湯を沸かす音。パンの焼ける匂い。窓から差し込む、柔らかな光。何も変わらないはずの時間。それでも───その日はどこか、静けさが重かった。
事務所の扉を叩く音がしたのは、朝食を終えた直後だった。規則的で、遠慮のない叩き方。知っている音だと、オルランドはすぐに分かった。扉を開ける。そこに立っていたのは、少しだけ疲れた顔のアストルフォだった。
「朝早いな。」
「そっちこそ。新婚にしては起きてる時間が早すぎない?」
軽口はいつも通り。けれど声の奥に、乾いた硬さが混じっている。アンジェリカもそれに気づいたのか、静かに椅子を引いた。
「中へどうぞ。」
机の上に置かれたのは、一枚の依頼書だった。紙質は粗悪。押された印は、意図的に潰されている。発行元は───空白。
「匿名依頼か」
オルランドの声は低い。アストルフォは頷いた。
「まあ、こんな依頼内容、個人名も書きたくないよな……って感じの依頼だ。」
依頼内容は、短かった。
研究区画外縁部に出現した変異体の排除および原因調査共同対応を要請する
その下に、三人分の名前が並んでいる。オルランド。アンジェリカ。そして───アストルフォ。
部屋の空気が、わずかに冷えた。アンジェリカが先に口を開く。
「外縁部……最近、報道に出ていた場所ね?」
「ああ」
アストルフォは短く答えた。それ以上は言わない。だが、言葉にしない何かがあることだけは、はっきり伝わってくる。オルランドは依頼書から目を離さないまま尋ねた。
「見たのか。」
少しの沈黙。
「……ああ。」
その一言で十分だった。昔から、その方向にオルランドは秀でていた。
湯気の消えたカップ。冷めた部屋。動かない時計の音だけが、やけに大きい。アンジェリカは静かに立ち上がり、部屋の隅へ歩いた。そこに立てかけられている剣───ドゥリンダーナの柄に、そっと触れる。
「行きましょう。」
迷いはなかった。守られる者の声ではない。戦うことを選ぶ者の声。
オルランドは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。胸の奥にある、言葉にならない不安。それでも───逃げる理由にはならない。
「……共同依頼なら、断れないな。」
半分は冗談。半分は本音。アストルフォが小さく笑う。
「安心したよ。断られたら困ってた。」
その笑顔は、昔と同じようでいて───どこかだけ、違っていた。
出発の準備は早かった。武器の点検。携行端末。最低限の医療具。慣れた手順。何度も繰り返してきた動き。それなのに、今日は妙に静かだった。
扉の前で、三人が並ぶ。かつて何度も、同じように並んだ配置。そして、メンバーは一人増えた。けれど今は、背負っているものが違う。幸福。過去。そして───まだ見えない何か。
アストルフォが外へ出る。続いてアンジェリカ。最後にオルランドが振り返った。部屋の中。温もりの残る椅子。途中まで読んだ本。何気ない生活の痕跡。それらが、妙に遠く感じた。
「……すぐ戻る。」
誰に向けた言葉でもない。それでも、確かにそう呟いて───扉を閉めた。
朝の光は、まだ優しい。だが三人の向かう先には、別の色の光が待っている。冷たい光。人工の光。そして───人を人でなくす場所。
物語はここから、静かに加速を始める。




