番外編Ⅱ 名もなき変質
研究区画外縁部は、地図の上ではただの空白だった。だが実際には、空白ほど危険な場所はない。記録されない。管理されない。そして───何が起きても、誰も責任を取らない。アストルフォは崩れかけた外壁を見上げ、小さく息を吐いた。
「……嫌な静けさだな。」
鳥の声がしない。風の音も、妙に鈍い。まるでこの一帯だけ、世界から切り離されているようだった。調和されても困るだけだが。
侵入は容易だった。警備装置は動いている形跡があるのに、誰もいない。灯りは点いている。機械は稼働している。記録端末も生きている。それなのに───人の気配だけが消えていた。
「……諦めた、って感じじゃない。」
むしろ逆だ。完成したからこそ居なくなった、そんな気配。床に落ちた端末。開きっぱなしのロッカー。乾ききっていない血痕。アストルフォの指先が、無意識に武器へ触れる。
研究室の奥で、音がした。ぐちゃり、と。肉の擦れるような、湿った音。
「…………」
呼びかけはしない。返事が返る種類の音ではないと、直感が告げていた。一歩。また一歩。暗い部屋の中央に、それはいた。
最初、形が分からなかった。人間の大きさ。だが人間の輪郭ではない。皮膚は途中で途切れ、別の肉が継ぎ足され、骨格の向きが合っていない。無理やり組み替えられたような姿。それでも───顔だけは、かろうじて人間だった。目が合う。その瞬間、理解してしまった。これは魔物じゃない。突然変異でもない。人間だ。
怪物の口が動く。声にならない空気が漏れる。言葉を探すように、喉が震える。
「――ぁ……」
それだけ。次の瞬間、肉の塊は床を蹴っていた。速い。理性ではなく、痛みから逃げるためだけの速度。アストルフォは反射で身をひねり、刃を抜く。一撃。浅い。血ではない液体が散る。匂いは――薬品。
「……っ!」
確信に変わる。作られた。この姿は事故じゃない。失敗でもない。
怪物は再び立ち上がる。倒れない。痛みを理解していない。ただ、壊れるまで動く装置のように───迫る。
「……やめろ!」
思わず声が漏れた。届くはずがないと分かっていても。
「もう十分だろ……!」
だが怪物は止まらない。止まれない。その動作を想定されていないから。
終わりは、一瞬だった。首元へ、正確な一閃。動きが止まる。崩れ落ちる。重い音。静寂。
しばらく、アストルフォは動けなかった。視線の先。床に横たわる“それ”。戦闘は短い。いつも通り。なのに───胸の奥に、重いものが残る。
「……なんだよ、これ……」
答える者はいない。ただ、部屋の奥で、まだ稼働を続ける装置のランプが点滅していた。規則正しく。感情もなく。まるで───次を待っているみたいに。
アストルフォは端末を拾い上げる。画面には、途中で止まった記録。
被験体番号:不明適合率:強制上昇処置へ移行人格保持率:測定不能
備考:実用段階に到達
指先が止まる。
静かな部屋。動かない亡骸。点滅する光。
すべてが、ひとつの結論を示していた。
「……始まってるのか。」
誰にも聞こえない声。それでも、確かに呟いた。
その日、研究区画外縁部の異常は───確認されずとして処理された。
だが。風は、確かに匂いを運び始めていた。まだ小さく、けれど取り返しのつかない方向へ。




