番外編Ⅰ 風の行き先(アストルフォ)
朝の光は、どこの街でも同じ色をしている。けれど、そこに吹く風の匂いだけは違う。鉄と油の匂いが混じるこの街の朝を、アストルフォは嫌いではなかった。便利屋という仕事は、街の裏側を歩くには都合がいい。依頼人は多くを語らず、報酬は多くを問わない。そして何より───深入りしなければ、心を汚さずに済む。
「……まあ、無理だけどね。」
独り言をこぼしながら、事務所の椅子に背を預ける。古い椅子はきしみ、天井の染みは昨日と同じ形をしていた。平凡。退屈。安全。それはこの世界では、ほとんど奇跡に近い状態だった。
机の端には、一通の手紙が置かれている。差出人の名はない。けれど、筆跡を見るまでもなく分かった。オルランドだ。結婚式のあと、彼から長い手紙が届いたのは初めてだった。中身は───驚くほど普通だった。市場の野菜が高いこと。保存食ばかり並べて怒られたこと。夜更かしすると心配されること。血の匂いも、銃声も、悲鳴もない。ただの生活。アストルフォは、何度もそこを読み返した。
「……よかったな、本当に……」
ぽつりと呟く。胸の奥に、少しだけ熱いものが灯る。羨ましさではない。寂しさでもない。たぶん───安心だ。あの男が、ようやく戦いの外に立てたことへの。
だが。
便利屋の机に置かれる書類は、幸福とは無関係に積み上がる。
その日の依頼は三件。
* 行方不明者の捜索
* 違法機器の回収
* 研究区画外縁部の異常確認
三つ目だけ、報酬が不自然に高かった。
「……嫌な匂いだな……」
紙を指で弾く。乾いた音が、静かな部屋に落ちた。経験が告げている。これは───普通じゃない。そして、こういう依頼は決まって、───いや、考えてはダメだ。あの夫婦に何も起こさせないって決めたんだからな。俺の予想が当たってしまわないよう。
ふと、窓の外を見る。遠くの空に、細い煙が上がっていた。事故か。実験か。それとも───隠蔽か。この街では、どれも大差はない。アストルフォは立ち上がり、コートを羽織る。
「平和な朝は、ここまでか……」
けれど足取りは軽い。怖くないわけじゃない。それでも進む理由は、もう決まっている。
扉を開ける直前、彼は一度だけ振り返った。机の上。オルランドの手紙。しばらく見つめてから、小さく笑う。
「───守らなきゃな」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。それが、未来に向けた誓いになることを、この時の彼はまだ知らない。
扉が閉まる。静かな部屋に残るのは、読みかけの手紙と、まだ冷めきらない朝の光だけだった。そして物語は、ゆっくりと───別の歯車を回し始める。




