第五章 言葉になる前に
それから数日、大きな依頼は入らなかった。違法研究区域の件で、一時的に周辺の動きが止まっている。嵐の前の静けさのように。オルランドはそれを警戒していた。だが事務所の中は、不思議なほど穏やかだった。アンジェリカとの時間まで、仕事の緊張感を持ち込まなかった。
朝。湯の沸く音。食器の触れ合う小さな響き。窓から差し込む、弱い光。アンジェリカは、当たり前のようにそこにいる。それだけで、部屋の空気は少し柔らかくなる。
「今日、依頼はありますか?」
「軽いものが一件だけです。」
「よかった」
その言葉に、深い意味はないはずだった。それでもオルランドは、胸の奥が静かに温まるのを感じる。危険が少ないことを、共に喜んでいる。ただそれだけの事実が、これまでの人生にはなかった。
昼過ぎ。回収依頼はすぐに終わり、二人は珍しく遠回りをして帰った。理由はない。急ぐ必要がなかっただけ。───それ以外の何があろう。崩れかけた高架の下、風がゆっくり流れている。アンジェリカが立ち止まり、空を見上げた。
「……静かですね……。」
「───ええ。」
「こんな時間が、続けばいいのに。」
その言葉は、願いに近かった。オルランドは答えない。答えてはいけない気がした。この世界では、続くもののほうが少ない。それを、自分は知りすぎている。
夕方。事務所へ戻る途中、小さな露店の灯りが点いていた。古い焼き菓子を売る、ほとんど客の来ない店。アンジェリカは、少しだけ足を止める。
「……食べてみたいです。」
珍しい言葉だった。オルランドは、何も言わず二つ買った。甘さは弱く、形も歪んでいる。だが温かかった。アンジェリカは一口かじり、驚いたように目を細める。
「……おいしい。」
その表情を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。理由は分からない。ただ───守りたいと、思った。
夜。灯りはいつもより少し明るい。菓子の包み紙が、机に残っている。取り留めのない会話。意味のない沈黙。同じ部屋にいる時間。それら全部が、静かな幸福だった。やがて会話が途切れ、長い沈黙が落ちる。重くはない。けれど、どこか張りつめている。アンジェリカが、ゆっくり口を開いた。
「……あの。」
声が、ほんの少しだけ震えていた。オルランドは顔を上げる。
「ここに来てから、ずっと考えていました───」
彼女は視線を落とし、言葉を探すように続ける。
「探していた人は、もういなくなってて」
静かな事実。受け入れたはずの現実。
「それでも……」
小さく息を吸う。
「ここにいる時間は、なくしたものじゃないって、思えるんです。」
胸の奥で、何かが強く鳴った。逃げ場のない鼓動。アンジェリカは顔を上げる。まっすぐに、オルランドを見る。
「あなたと過ごす時間が、……好きです。」
言葉は、驚くほど静かだった。けれど確かに、すべてを変えてしまう重さがあった。
沈黙。オルランドは、すぐに答えられない。怖かった。この言葉を受け取れば、もう戻れない。失う痛みを、知ってしまう。それでも。口を開いた。
「……私も。」
声が、思ったより弱い。だが止めなかった。
「あなたといる時間が、……大切です。」
初めて、本当の言葉を口にした。胸の奥にあった灯りが、少しだけ強くなる。
アンジェリカが、静かに微笑む。その表情は、これまでで一番やわらかかった。
「よかった」
たった一言。それだけで、世界が少しだけ変わる。
この瞬間。二人は確かに、同じ未来を見ていた。短いかもしれない未来を。壊れてしまうかもしれない未来を。それでも───願ってしまった未来を。




