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愛人と呼ばれた私が、三年前の婚約証書を差し出したら

作者: 夢見叶

「——あなたのような愛人に、公爵様は渡さないわ」

 子爵令嬢ナターシャ・ヴェルデンの甲高い声が、広間に響いた。

 私——リーゼル・フォン・ベルヴァインは、手にしていたティーカップを静かに置いた。

 愛人。

 三年間、静かに待ち続けた私に向けられた言葉が、それだった。

「婚約破棄は今夜の王妃様の夜会で正式に発表されるの。あなたが後から割り込んできた愛人だって、みんな知ってるわ」

 周囲の令嬢たちが息を呑む気配がした。同情ではない。好奇だ。

 真実は逆だ。三年前、クラウス・フォン・シュヴェルトベルク公爵と婚約したのは私だ。ナターシャではない。

 けれど私は、声を荒げて否定することができなかった。争うことが、昔から苦手だった。

「……何も、おっしゃらないのね。沈黙は肯定と見なされるわ」

 私は立ち上がった。

 争わない。言い返さない。

 ただ、証明する。

 胸元に手を当てる。ドレスの内側に縫い込んだ小さな革袋。その中に、三年前の日付が刻まれた婚約証書がある。

 今夜の夜会で、私は静かに立ち上がる。


 夜会の会場は、王宮の大広間だった。

 蝋燭の灯りがシャンデリアに反射し、金色の光が床を染めている。

「リーゼル嬢」

 低い声が、背後から降ってきた。

 クラウス・フォン・シュヴェルトベルク公爵。黒髪に灰色の瞳。王国最大の領地を持つ公爵家の当主にして、私の——婚約者。

「……クラウス様」

「隣に」

 それだけ言って、彼は私の傍らに立った。

 ——ほら、愛人を連れてきた。

 ——恥知らずね。

 囁きが広がる。聞こえている。全部。

「公爵様」

 甘い声が割り込んできた。ナターシャだ。

「今夜の発表、楽しみにしておりますわ。ようやく正式に、あなたの婚約者になれるのですもの」

 クラウス様の表情は変わらなかった。

 けれど、彼の手が私の手首を掴んだ。

「……クラウス様?」

「離れるな」

 短い言葉。けれどその手は、逃がさないとでも言うように強かった。


 王妃様が壇上に立った。

 銀髪を高く結い上げた王妃エレノア様。この国で最も賢明な女性と称される方だ。

「本日は、シュヴェルトベルク公爵家より、ある発表があると聞いております」

 ナターシャが一歩前に出る。

「王妃様。僭越ながら、私ナターシャ・ヴェルデンが——」

「待て」

 クラウス様の声が、ナターシャの言葉を遮った。

「発表するのは私だ」

 冷たい声だった。氷のような、感情を削ぎ落とした声。

 クラウス様が壇上に向かって歩き出す。そして——私の手を、引いた。

「来い、リーゼル」

 ざわめきが広がる。

 ——愛人を壇上に?

 ——まさか、あの女を正妻に?

「王妃様。本日は、私の婚約について、明確にさせていただきたい」

「ええ、聞きましょう」

「私の婚約者は——」

「お待ちください!」

 ナターシャの叫び声が響いた。彼女は壇上に駆け上がり、一通の書状を掲げた。

「こちらが、私とクラウス様の婚約証書です! 二年前、正式に交わされたものですわ!」

 王妃様が書状を受け取る。

「……確かに、公爵家の印が押されていますね」

「ですから、私こそが正式な婚約者なのです。あの女は後から割り込んできた愛人に過ぎません」

 ナターシャが、勝利を確信した笑みを浮かべて私を指差す。

「リーゼル・フォン・ベルヴァインは、恥知らずにも——」

「ヴィルヘルム」

 クラウス様の声が、ナターシャの言葉を断ち切った。

 壇上の隅から、一人の老紳士が進み出た。公爵家の執事、ヴィルヘルム。

「こちらが、公爵家に保管されている婚約証書の原本でございます」

 王妃様が受け取る。ナターシャの顔色が変わった。

「三年前の日付が刻まれております。リーゼル・フォン・ベルヴァイン嬢との婚約証書でございます。ナターシャ嬢の書状より、一年早い」

 広間が静まり返った。

「偽造です! その証書こそ偽物です!」

「印鑑照合の結果をご報告いたします」

 ヴィルヘルムがもう一枚の書類を取り出した。

「ナターシャ嬢の証書に押された公爵家の印は、三年前に廃棄された旧印でございます。二年前の時点では、この印は存在しておりません」

 静寂。そして、囁きが波のように広がった。

 ナターシャの顔が蒼白になった。

「そ、そんな……違う——」

「ナターシャ・ヴェルデン」

 クラウス様の声が、冷たく響いた。

「お前は三年間、私の婚約者を愛人呼ばわりし続けた。偽の証書を作り、嘘を広め、彼女の名誉を傷つけた」

「違います! 私は——」

「黙れ」

 その一言で、ナターシャは凍りついた。

「王妃様。証書の偽造は重罪です。然るべき裁きにかけていただきたい」

 王妃様は静かに頷いた。

「証拠は明白ですね。ナターシャ・ヴェルデン、公文書偽造の疑いがあります。王宮の審問官に引き渡します」

「嫌……嫌です! あの女が、あの女さえいなければ——!」

 衛兵に両腕を掴まれながら、ナターシャは叫び続けた。けれど、もう誰も耳を傾けなかった。


 ナターシャが連れ去られた後。

 私は壇上に立ったまま、動けなかった。三年間、ずっと愛人と呼ばれ続けた。それが今——

「リーゼル」

 クラウス様の声が、私を現実に引き戻した。

 彼は王妃様の前で、私に向き直った。

「三年間、待たせた」

「……え?」

「お前は一度も、言い返さなかった。ただ静かに、証書を握りしめて待っていた」

 知っていたのだ。彼は、全部知っていた。

「なぜ、もっと早く——」

「お前が自分で決めると思っていた。いつ証書を出すか。お前の名誉は、お前自身の手で取り戻すべきだと」

「でも、私は……声を上げられなかっただけです」

「だが、今日わかった」

 クラウス様が一歩近づいた。

「お前は弱いのではない。ただ、戦い方が違うだけだ。お前は嵐の中で叫ばない。嵐が過ぎるのを待ち、静かに立ち上がる」

 彼の手が、私の頬に触れた。

「それは——強さだ」

 広間が静まり返った。公爵が、衆人環視の中で、一人の令嬢の頬に触れている。

「王妃様」

 彼は私の頬に手を添えたまま、王妃様に向き直った。

「この女性は、三年前から私の婚約者です。そして今後も——」

 彼の声が、広間に響いた。

「——私の妻になる女性です。異論のある者は、私への侮辱と見なす」

 王妃様が微笑んだ。

「よろしいでしょう。シュヴェルトベルク公爵家の婚約は、本日この場で改めて承認いたします」

 拍手が起こった。最初は疎らに、やがて大きな波となって広間を満たした。


 夜会が終わり、人々が去った後。

 私は王宮の庭園にいた。月明かりが白いバラを照らしている。

「——ここにいたか」

 振り向くと、クラウス様が立っていた。

「クラウス様」

「クラウスでいい。婚約者だろう」

 彼は私の隣に立った。

「三年前、お前と婚約したとき——正直に言えば、政略だった」

 知っている。伯爵家の娘と公爵家の当主。全てが計算された婚約だった。

「だが、この三年で変わった」

「……何が、変わったのですか」

「お前を見ていた」

 彼は私に向き直った。

「愛人と呼ばれても、嘲笑されても、お前は静かに待っていた。証書を握りしめて。自分の正当性を、誰よりも信じて」

 彼の手が、私の手を取った。

「お前は待てる人間だ。信じられる人間だ。三年間、一度も揺らがなかった」

「クラウス様——」

「クラウスだ」

 少しだけ、彼の口元が緩んだ。初めて見る表情だった。

「三年間、お前だけを見ていた。政略で始まった婚約だが——今は違う。お前がいい。お前以外は、いらない」

 月明かりの下で、彼の灰色の瞳が私を見つめている。冷徹な公爵と呼ばれる男の瞳に、確かな感情が宿っていた。

 三年間、待った。愛人と呼ばれ、嘲笑され、それでも証書を握りしめて。

 それは彼を信じていたからだ。いつか、この人が私を見てくれると。

「私も——あなたがいいです。クラウス」

 彼の瞳がわずかに見開かれた。

「……もう一度」

「あなたが、いいです」

 彼の腕が私を引き寄せた。

「——ずっと、待っていた。お前がその言葉を言うのを。三年間、ずっと」

 私の心臓が大きく跳ねた。

「待っていたのは、私だけだと思っていました」

「馬鹿か」

 ぶっきらぼうな声。けれど、腕の力は優しかった。

「政略婚の相手に、なぜ三年も待つ。お前を——」

 言葉が途切れた。代わりに、彼の唇が私の額に触れた。

「——手放す気など、最初からなかった」

 月明かりの庭園で、私は彼の胸に顔を埋めた。

 三年間、愛人と呼ばれた。けれど、ずっと——彼の婚約者だった。

「クラウス」

「なんだ」

「……私、幸せです」

 彼の腕がさらに強く私を抱きしめた。

「当然だ。これからは、もっと幸せにする」

 月が二人を照らしていた。白いバラの香りが夜風に乗って流れていく。

 隣にいるこの人の手を、私はもう——離さない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

静かに待ち続けた二人の物語でした。

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