第72話:三年後のマツシタ家、満ちる月と陽だまりの猫
あれから、三年が経った。
ヴォルカニアの温泉バカンスから戻り、エマとニナの妊娠が発覚したあの夜。
そして、避妊をやめた「肉食兎」ことシキの猛烈な夜這い……もとい、家族計画への積極的な参加により、俺の腰は何度か限界を迎えた。
だが、その甲斐あって。
現在の自由都市ガンディア・マツシタ伯爵邸は、かつてないほどの賑やかさに包まれている。
「こら、アル! 廊下を走ってはいけませんよ!」
「はーい、エマお母さん!」
エマの息子、アル(二歳)がペタペタと短い足で廊下を駆け抜けていく。
「アルくん、待ってー! 一緒にあそぶー!」
それを追いかけるのは、ニナの娘、ルナ(二歳半)だ。
かつて失った娘と同じ名前を、ニナは迷うことなく付けた。過去を乗り越え、今度こそこの手で守り抜くという決意の証だった。
「ふふっ、二人とも元気ですね。……あら、シキさんのところのクロウは?」
「……あの子なら、サンと一緒に裏庭で『的当て』の訓練をしていますよ」
シキが、紅茶を啜りながら涼しい顔で答える。
シキの息子、クロウ(一歳半)。まだろくに言葉も喋れないというのに、おもちゃの銃を正確に構え、サンの真似をして「ひゃっはー」と笑う末恐ろしい幼児に育ちつつある。将来が少し不安だが、まあ、うちの子なら逞しく育つだろう。
25歳になった俺は、リビングのソファに深く腰掛け、そんな騒がしくも平和な光景に目を細めていた。
……本当の家族。
異世界に放り出されて、ボブ爺の遺産でなんとか生き延びてきた俺が、こんな幸せな光景を手にするなんてな。
ふと、縁側の方から、微かな寝息が聞こえてきた。
「……すぅ……すぅ……にゃ……」
陽だまりの中、クッションに深くもたれかかって眠っているのは、ミケだ。
その隣には、アリスが優しくミケの頭を撫でながら、編み物をしている。
三年前はまだ幼さの残る少女だった二人も、すっかり大人の女性の顔つきになっていた。
そして何より目を引くのは、二人の大きく膨らんだお腹だった。
「アリス、ミケの様子はどうだ?」
俺が近づいて声をかけると、アリスは編み物を膝に置き、ふわりと微笑んだ。
「お昼寝の時間が長くなりましたね。お腹の中の子が、よく動くみたいで」
「私も、最近はずっと蹴られてばかりですわ」
アリスが、愛おしそうに自分のお腹を撫でる。
臨月だ。いつ産まれてもおかしくない時期に入っている。
「……重いだろう。無理すんなよ」
「ふふっ。重いですけれど、幸せの重さです」
「私、ずっとニナ様やエマたちが羨ましかったんです。ようやく、皆さんに追いつけました」
そう言って笑うアリスの左手には、あの日ヴォルカニアで贈ったサファイアの指輪が、変わらずに輝いていた。
俺はアリスの隣に座り、眠っているミケの頭をそっと撫でた。
「……んぅ……ブンペイ……」
ミケが気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らし、俺の手に頬をすり寄せてくる。
大きなお腹を抱えて丸くなるその姿は、本当にただの猫みたいだ。俺は昔から、こういう無防備で幸せそうな猫の仕草ってやつが大好きで、いくら見ていても飽きない。
「ミケも、すっかりお母さんの顔になったな」
「ええ。サンが『一緒に走り込みするっす!』と誘ってきても、『お腹の子がびっくりするからダメにゃ』って、ちゃんと断ってましたから」
あのミケが、食欲や遊びよりも優先するものを見つけたんだ。
俺は、二人のお腹にそっと手を当てた。
ドクン、と。
小さな、けれど力強い命の鼓動が、手のひらを通して伝わってくる。
「……早く出てこいよ。みんな、待ってるぞ」
俺がそう囁いた、その時だった。
「……あ、れ?」
アリスが、不意に眉をひそめ、お腹を押さえた。
「アリス? どうした?」
「なんだか、急に、お腹が……痛っ、ぁ……!」
アリスの顔が歪み、彼女の座っていたクッションの周りが、じわりと濡れ始めた。
「破水……!?」
「おい、ニナ! エマ! フィリアを呼んでくれ!!」
俺の怒声に近い叫びに、屋敷の空気が一変した。
ニナたちが血相を変えて飛んでくる。
「アリス様!? 今すぐベッドへ!」
「フィリア様は地下の研究室です! 呼んできます!」
大パニックだ。俺がアリスを抱き上げようとした、まさにその瞬間。
「……にゃぁっ!?」
隣で寝ていたミケが、ビクンと身体を跳ねさせ、目を丸くして起き上がった。
そして、自分のお腹を抱え込む。
「い、痛いにゃ……! ブンペイ、なんか、お腹の中から出ようとしてるにゃ……!」
「はぁっ!? ミケまで!?」
まさかの、同時陣痛。
双子ならぬ、同時多発出産。
「ええい、もう全員ベッドに運ぶぞ! サン、手伝え!」
「ひゃっはー! まかせるっす! ミケちゃんはアタシが運ぶっすよ!」
「揺らすなよ!? 絶対に揺らすなよ!?」
三年前のカチコミの時よりも、遥かに慌ただしく、そして喜びに満ちた戦場。
マツシタ家の、一番長くて、一番幸せな一日が、今まさに始まろうとしていた。




