第71話:命の芽吹きと、肉食兎の目覚め
ヴォルカニアでの温泉バカンスを終え、俺たちは自由都市ガンディアの屋敷(元・幽霊屋敷)へと帰還した。
相変わらずの騒がしい日常。
……になるはずだったのだが、ここ数日、どうも様子がおかしい奴がいた。
エマだ。
普段は完璧なメイドとして屋敷の家事全般を取り仕切っている彼女だが、最近はやたらとボーッとしていたり、お皿を落としそうになったりしている。
顔色も少し青白い。
心配になって声をかけようとした矢先、裏庭の洗濯場から、レオナの怒ったような声が聞こえてきた。
「エマ! 貴様、なぜ言わなかったのだ!」
俺は慌てて物陰に隠れ、様子を窺った。
洗濯カゴを前にうつむくエマの肩を、レオナがガシッと掴んでいる。
二人は、バルトロ伯爵の屋敷時代からの古い付き合いだ。
「……ごめんなさい、レオナ。でも、言えなかったのよ」
「言えない理由がどこにある! これは慶事だぞ! 新たな命を授かったのだ、なぜ喜ばない!」
「っ……!」
……命? 授かった?
俺は心臓が跳ねるのを感じた。マジか。エマが、俺の子供を?
「喜べるわけないじゃない……!」
エマが、絞り出すような声で泣き崩れた。
「私なんて、ただのメイドよ? オーナーに拾っていただいた身でしかないの。
それなのに、正妻であるアリス様や、ずっとオーナーを支えてきたニナ様を差し置いて……私なんかが一番に子供を産むなんて、そんなの、許されるはずがないわ!」
「エマ、貴様というやつは……」
レオナがギリッと奥歯を噛み締める。
身分制度の厳しい世界で生きてきた彼女たちだからこそ、その「順番」や「立場」がどれほど重い意味を持つか、痛いほどわかっているのだろう。
「いつまでも隠し通せるものではない。今日、皆の前で話せ。……私が付き添ってやる」
「……ええ」
俺は足音を忍ばせて、その場を離れた。
……馬鹿だなあ、エマのやつ。
俺の家族に、そんなつまらない嫉妬をする奴がいるわけないのに。
◇
その日の夕食後。
リビングに全員が揃っているところで、エマが青ざめた顔で進み出た。
隣には、保護者のようにレオナが立っている。
「……皆様、オーナー」
「大変、申し訳ございません……」
エマは、床に膝をつき、深く頭を下げた。
「私……お腹に、オーナーの子供を、授かりました」
リビングが、しんと静まり返る。
エマの肩がガタガタと震えていた。
「アリス様、ニナ様……本当に、出過ぎた真似を……っ」
「……エマ」
静寂を破ったのは、アリスだった。
彼女はゆっくりとエマの前に歩み寄り、その前にしゃがみ込んだ。
「エマ。顔を上げなさい」
「……はい」
恐る恐る顔を上げたエマの両頬を、アリスが両手でパシン!と軽く叩いた。
痛くはない、目を覚まさせるような優しい破裂音。
「ア、アリス様……?」
「エマ。あなた、私たちを見損なわないでちょうだい」
アリスが、少しだけ怒ったような、でも嬉し泣きを堪えているような顔で笑った。
「私が、そんな下らない『順番』で怒るような女に見えた?
あなたは、マツシタ家の立派な家族よ。その家族に新しい命ができたの。……最高に、おめでたいことじゃない!」
「アリス様の言う通りですよ、エマ」
ニナも歩み寄り、エマの背中を優しく撫でた。
「一人で悩んで、辛かったですね。
順番なんて関係ありません。私たちの家族が、また一人増える。これ以上、喜ばしいことがあるでしょうか」
「ニナ様、アリス様……っ」
エマが、張り詰めていた糸が切れたように、わぁっと声を上げて泣き出した。
アリスとニナが、そんなエマを両側から優しく抱きしめる。
「エマちゃん、おめでとーっす!」
「にゃはは! アタシがお姉ちゃんだにゃ!」
サンとミケも飛びついてきて、リビングは一気にお祝いムードに包まれた。
……よかった。
本当に、こいつらを家族にしてよかった。
俺が少し目頭を熱くしてその光景を見守っていた、その時だった。
「うっ……」
エマを抱きしめていたニナが、唐突に口元を押さえた。
顔色が悪くなり、フラフラと後ずさる。
「ニナ!? どうした!」
俺が駆け寄るより早く、ニナは洗面所へと駆け込んでいった。
「……うぇっ、げほっ……」と、苦しそうな吐き声が聞こえてくる。
「もらい泣き……じゃないわね。おいフィリア、ちょっと診てやってくれ!」
「言われなくても」
白衣姿のフィリアが、医療用の魔道具を持って洗面所へ向かう。
数分後。
口元を拭いながら戻ってきたニナの隣で、フィリアが眼鏡をクイッと押し上げた。
「……驚いたわね。どうやら、エマだけじゃないみたい」
「ニナ。あなたもよ」
「……え?」
ニナが、きょとんとした顔で自分の腹部に手を当てた。
「妊娠初期。間違いないわ」
その言葉がリビングに落ちた瞬間。
ニナの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私……また……」
かつて、理不尽な世界に奪われた娘、ルナ。
その喪失の絶望を抱えていた彼女が、今度こそ、誰にも奪われない、愛する人との命をその身に宿したのだ。
「オーナー……っ、ああ、オーナー……!」
ニナが俺の胸に飛び込んできた。
俺は、震える彼女の背中を、ただ強く抱きしめ返した。
「やったな、ニナ。……今度は、絶対に俺が守るからな」
「はい……はいっ……!」
エマとニナのダブルオメデタ。
マツシタ家は、これまでにない最高の幸福と歓声に包まれた。
俺、一気に二児の父親になるのか。
……22歳にしては、随分とドデカい責任背負っちまったな。
でも、悪い気はしない。むしろ、腹の底から力が湧いてくる気がした。
◇
――そんな感動的な光景を、リビングの隅で静かに見つめている「影」があった。
シキだ。
彼女は、エマとニナが幸せそうにお腹を撫でる姿を、じっと観察していた。
そして、己の平坦な腹部にそっと手を当てる。
(……命。マスターと私の、繋がり)
シキの長い耳が、ピクリと反応した。
(マスターは、ああして命を宿した女に、あんなにも優しい顔をするのですね)
(……ならば)
シキは、懐に入っていた小瓶――フィリアに調合させていた「避妊の魔薬」を、ゴミ箱へと静かに放り投げた。
カラン、と小さな音が鳴る。
(掃除よりも、もっと『確実』な方法があったなんて)
(……私も、産みます。マスターの、全てを繋ぎ止める鎖を)
その瞳に、かつてないほどの暗い、そして熱い欲望の炎が灯ったことに、浮かれていた俺は全く気づいていなかった。
その夜からだ。
うちの「お掃除兎」が、文字通り「発情期の肉食獣」へと変貌したのは。
「マスター。……寝かせませんよ」
夜な夜な、AA-12の代わりに俺の理性をロックオンし、ベッドに押し倒してくるシキ。
その執念たるや、帝国軍の猛攻すら生ぬるく感じるほどだった。
結果として。
それからわずか数ヶ月後、シキも見事に妊娠を果たすことになるのだが……それはまた、別の話である。
俺の腰は、物理的に砕け散る寸前だった。




