第70話:月下の兎とアイシテル
深夜。
ふと、喉の渇きで目が覚めた。
時計を見ると、午前二時を回ったところだった。
大部屋の方からは、ミケの寝言やサンの静かな寝息が聞こえてくる。
昼間のカチコミの疲れもあってか、みんな泥のように眠っているようだ。
水を一杯飲み干すと、少しばかり寝汗をかいていることに気づいた。
温泉街特有の、地熱を含んだ夜風のせいかもしれない。
「……軽く流してくるか」
俺は浴衣を羽織り、部屋に備え付けられている客室露天風呂へと足を向けた。
静かにガラス戸を開ける。
硫黄の匂いと、湯気が夜の冷気に触れて白く立ち上っていた。
そして。
その湯気の中、石造りの浴槽のふちに腰掛けている、一つの影があった。
「……シキ」
思わず、声が漏れた。
彼女は湯に足だけを浸し、夜空に浮かぶ丸い月を見上げていた。
長い兎の耳が、夜風に微かに揺れている。
月明かりに照らされたその白い肌は、透き通るようで、どこか現実離れした美しさがあった。
俺は、声をかけるのをためらい、その場に立ち尽くした。
彼女の横顔に見惚れていた。
大岩村の、あの薄暗い奴隷小屋で初めて会った時のことを思い出す。
あの頃の彼女の目には、何の光もなかった。ただ、理不尽な世界を諦め、息をしているだけの精巧な人形みたいだった。
それが、どうだ。
今の彼女は、恐ろしいほどの「意志」を持っている。
思い出すのは、あの夜のことだ。
彼女が俺の部屋の鍵を閉め、「自由は毒だ」と語ったあの夜。
そして翌朝、ニナたちに向かって放った、あの強烈な啖呵。
『惚れた男と寝て、何が悪いの?』
『惚れた男に、抱かれずに死ぬのは、もっと、嫌よ』
あの瞬間だったと思う。
俺が、シキという一人の女に、完全に惚れ込んだのは。
可哀想な奴隷だからじゃない。
守ってやりたいからでもない。
ただ、自分の尊厳と欲のために、世界中を敵に回してでも自分の足で立とうとする、その圧倒的な「覚悟」に、俺は惹かれたんだ。
今じゃ彼女は、ドラムマガジンをつけたAA-12をぶっ放し、敵を文字通り「掃除」して回る、うちの最恐のサイコパスだ。
正直、ちょっと怖い時もある。
でも、血の雨を降らせながら「今日もいい声で啼くかしら」と笑う彼女の姿は、恐ろしくも、どうしようもなく生き生きしている。
俺の手を汚させないために、あえて一番残酷な役回りを、楽しそうに引き受けてくれている。
そんな歪で重たい愛情を向けられて、応えない男がいるわけない。
「……湯冷めするぞ」
俺がようやく声をかけると、シキは長い耳をピクリと動かし、こちらを振り返った。
月光を反射するその瞳が、柔らかく弧を描く。
「オーナー。……いえ、今は、ブンペイさんですね」
「目が覚めてしまったのですか?」
「ああ。ちょっと喉が渇いてな」
俺は浴衣を脱ぎ、かけ湯をしてから、シキの隣へとお湯に浸かった。
ちゃぷん、と静かな水音が響く。
少し熱めのお湯が、強張っていた筋肉をゆっくりと解きほぐしていく。
シキが、湯の中をするりと滑るように近づいてきた。
そして、濡れた長い髪を片側に寄せ、俺の肩にそっと頭を乗せた。
「……いいお湯ですね」
「そうだな。静かで、最高だ」
肌と肌が触れ合う。
お湯の熱さとは違う、彼女の確かな体温が伝わってくる。
「……不思議です」
シキが、俺の肩に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。
「昔の私なら、こうして月を見ることすら、許されませんでした」
「夜は、ただ暗くて、寒くて、痛いだけの時間だった」
「私は自分が空っぽの『器』だと思っていたんです。何かを入れられても、すぐにこぼれ落ちてしまうような、底の抜けた器だと」
シキの指先が、湯の中で俺の手に触れ、そして指を絡めてきた。
「でも、ブンペイさんが『自由』という毒を注いでくれた」
「考えること、選ぶこと。……誰かを、殺したいほど愛おしく思うこと」
「……シキ」
「私、時々怖くなるんです」
「私のこの耳は、世界のいろんな音を拾いすぎます。誰かの悪意も、悲鳴も、嘘も」
「だから、自分のために生きようとするのは、すごく醜いことのように思えて」
「でも……」
シキは顔を上げ、至近距離で俺の目を見つめた。
濡れた睫毛が、艶っぽく影を落としている。
「ブンペイさんの心音を聞いている時だけは、世界が完璧に静かになるんです」
「落ち着いていて、力強くて……私を、ただの『シキ』でいさせてくれる」
「貴方が私に引き金を引く理由をくれた。だから私は、貴方の道を塞ぐゴミを、一つ残らず消し去ってあげたい」
「……私のこの狂気は、貴方だけのものです」
シキの言葉は、相変わらず物騒で、そしてどこまでも純粋だった。
俺は、絡めた手にギュッと力を込めた。
「お前の狂気も、重さも、全部俺が貰うよ」
「シキが俺のために手を汚してくれるなら、俺はシキがいつでも帰ってこれる場所を作る」
「……俺たちは、共犯者だからな」
シキが、ふわりと花が綻ぶように笑った。
俺もつられて笑う。
温泉の湯気が、二人の間をゆっくりと流れていく。
俺はふと、あることに気がついた。
出会ってから色々あった。
彼女の覚悟を受け止め、夜を共にし、戦場を駆け抜けてきた。
でも、一番大事な言葉を、まだ二人きりの時に、面と向かって伝えていなかった気がする。
雰囲気だの、理屈だのじゃない。
ただ、この瞬間の、この熱を、そのまま言葉にしたかった。
俺が口を開きかけた、その時。
シキもまた、何かを言おうと唇を震わせた。
重なる視線。
そして、静かな夜空に、二つの声が同時に溶け込んだ。
「愛してるよ、シキ」
「愛しています、ブンペイさん」
一瞬の間の後。
どちらからともなく、吹き出していた。
「……ふふっ。被りましたね」
「だな。タイミング良すぎだろ」
俺たちは額を突き合わせ、声を殺して笑い合った。
毎朝七時になれば、フィリアの魔法がなければ、俺の感情の波は一度均されてしまうかもしれない。
けれど、この夜の温度だけは、この言葉の響きだけは。
きっと、魔法がなくとも、俺の奥深くに残り続けるだろう。
「……少し、のぼせました」
シキが上目遣いで俺を見る。
その瞳には、さっきまでの静けさとは違う、明確な熱が灯っていた。
「部屋に、戻りましょうか。……マスター」
その甘い声に、俺は頷くことしかできなかった。
マツシタ家のバカンスの夜は、月明かりの下で、まだもう少しだけ続く。




