第52話:路地裏の小さな「光」と、ニナの秘密
ガンディアの夜は、昼間の喧騒が嘘のように
じっとりとした湿った闇が街を包み込む。
石畳が吐き出す熱気と、
海から流れてくる潮の匂いが混じり合い、
どこか物憂げな空気が漂っていた。
幽霊屋敷を改装した我が家は、
夜になると一層静まり返り、
誰かの溜息ひとつさえ響き渡る。
「……また、行ったみたいだよ」
リビングの窓際、
シキが音もなく俺の隣に現れ、
細い指で夜の闇を指差した。
門をくぐり、
足早に街の闇へ消えていく小さな人影。
ニナだ。
ここ数日、彼女は家事が終わると、
まるで何かに追い立てられるように
屋敷を抜け出していた。
「ブンペイ、どうする?
追いかけるなら、私の出番だにゃ」
いつの間にか背後にいたミケが、
暗闇の中で目を金色に光らせる。
俺は手に持っていた
読みかけの本を閉じ、小さく息を吐いた。
「……ああ、行こう。
マツシタ家の金庫番が
夜遊びってのも不自然だしな」
俺たちは気配を殺し、ニナの後を追った。
彼女が向かったのは、
賑やかな港の酒場通りとは真逆の方向。
街灯もなく、崩れかけた倉庫が
化け物の牙のように並ぶ、スラムの端だった。
壁の影に隠れて様子を伺うと、
そこには十人ほどの、
薄汚れた子供たちがいた。
耳のある獣人の子もいれば、
角の折れた種族、
そして痩せこけた人間の子供もいる。
彼らは一つの焚き火を囲み、
骨ばった体を寄せ合って震えていた。
そこには、種族の壁なんてものはなかった。
あるのはただ、「空腹」という共通の敵だけだ。
「……さあ、今日はこれでおしまいよ」
ニナの優しい声が聞こえた。
彼女は風呂敷から、
安価な米で握った不格好なおにぎりを取り出し、
一人一人に手渡していた。
その中の一人、
ルナと同じくらいの年齢の獣人の少女が、
震える手でおにぎりを受け取り、
ニナのスカートの裾をぎゅっと掴んだ。
「おねえちゃん、明日も……来てくれる?」
ニナはその子の頭を、
壊れ物を扱うように愛おしそうに撫でた。
その横顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「ええ……。温かくして寝るのよ」
別れを告げ、
足早に立ち去ろうとするニナの前に、
俺はゆっくりと姿を現した。
「……ニナ」
ニナは弾かれたように足を止め、
俺の姿を認めると、
絶望したようにその場に崩れ落ちた。
「……オーナー。
ごめんなさい……勝手なことをして。
家の食料を、盗んだも同然です」
「謝ることはないけどさ。
隠す必要もなかっただろ」
俺は焚き火のそばに歩み寄った。
俺を見て、獣のような目で怯える子供たち。
その視線が痛くて、
俺は思わず目を逸らしそうになる。
「……あの子たちを見ていると、
ルナを救えなかった自分を
思い出してしまうのです。
せめて、今日を生き延びてくれれば……
それだけで、いいと……」
ニナの頬を、大粒の涙が伝い落ちる。
その涙は、母親としての情と、
過去への贖罪に満ちていた。
でも、俺は頭のどこかで
冷めた自分が囁くのを感じていた。
地球で見てきたニュース、ネットの議論。
「一時的な支援は、自立を妨げる」
そんな理屈が、俺の口を動かした。
「……ニナ。あのさ」
俺はヘタレなりに、
必死に言葉を選んで紡ぎ出す。
22歳の若造が、
人生の大先輩みたいなことを言うのは
おこがましいけど、言わなきゃいけない。
「俺、お人好しじゃないんだ。
っていうか、そんなに立派な人間じゃない。
でもさ、思うんだよ。
毎日こうしておにぎり配るのって、
ニナが一番しんどくないか?」
「え……?」
「毎日毎日、あの子たちの『明日』を、
ニナが一人で全部背負うのは無理だよ。
いつかニナが疲れて、来られなくなったら?
あの子たちはまた、今日以上の絶望に
突き落とされるんだぞ」
ニナが、息を呑む。
「施しは『優しさ』かもしれないけど、
『救い』にはならないんだよ。
……俺たちの家はさ、みんなが笑って、
対等に過ごせる場所でありたいんだ」
俺は、ニナの目をまっすぐに見つめた。
ちょっと背伸びしてる自覚はある。
声が震えていないか、自分でも不安だ。
「だからさ、提案があるんだ。
おにぎり配るんじゃなくてさ……
あの子たちに、『自分で飯を食う方法』を
俺たち全員で教えようよ」
「自分で、飯を……?」
「そう。
シキやフィリアに、
商売のコツとか、計算を教えてもらう。
ミケには、街の歩き方を。
俺は……そうだな。
ボブ爺のチートな道具を使わなくても、
この街の食材だけで
『安くてめっちゃ売れる料理』を教えるよ」
俺は焚き火に手をかざし、
震える子供たちを見据えた。
「うちの家はもらった分は返す、だろ?
あの子たちにも、
誰かから施しを貰って頭を下げるんじゃなくて、
自分の力で稼いで、
誰かに『ありがとう』って言われる。
……そうなってほしいんだよ」
ニナは呆然としていた。
やがて、彼女はぐっと涙を拭い、
力強く、迷いのない瞳で俺を見た。
「……はい。
オーナー、私、わがままでした。
あの子たちが自分の力で立ち、
胸を張って生きられるように……。
私、精一杯頑張ります!」
「よし。じゃあ、決まりだ。
明日から屋敷の裏庭を開放する。
地獄の『マツシタ塾』、開講だな」
俺はそう言って笑ってみせたけど、
内心は心臓がバクバクだった。
俺みたいな若造が、
子供たちの人生を背負うようなことを
軽々しく口にしてよかったのか。
これから始まるのは、
単なるお遊びじゃない。
でも、後戻りはしない。
マツシタ家総出の、
最高にお節介で、最高に泥臭い
「就労支援」が、ここから始まる。
背後で、フィリアが
「論理的にも、最善の投資ね」と
小さく微笑み、
シキが「教育、楽しみだわ」と
不敵な笑みを浮かべていた。
夜のガンディア。
冷たい風の中に、ほんの少しだけ、
新しい熱が混ざった気がした。




