第49話:賢者の憂いと、老執事の望郷
南国の朝は、鳥の鳴き声よりも先に
じっとりとした湿った熱気が
カーテンの隙間から這い入ってくる。
幽霊屋敷をリフォームしたこの家も、
今ではエマたちが磨き上げた床が
鏡のように朝日を反射していた。
「オーナー、朝食の準備が整いました」
エマの弾んだ声が廊下に響く。
俺がリビングへ向かうと、
そこには見慣れない、だが幸せな
光景が広がっていた。
配膳をするエマと、
それを見守る騎士服を脱いだレオナ。
二人の左手には、
昨日贈ったばかりの指輪が
朝日にキラリと誇らしげに輝いている。
二人はことあるごとに
自分の手元を眺めては、
頬を緩ませていた。
まるで、宝物を手に入れた
子供のような純粋な喜びだ。
「……ブンペイ」
コーヒーの香りと共に、
フィリアが俺の隣に座った。
その顔は、いつになく
眉間に皺が寄っている。
「どうした、フィリア。寝不足か?」
「……いいえ。私は極めて冷静よ」
彼女はコーヒーを一口啜り、
カップをコトリと置いた。
そして、俺の目をじっと覗き込む。
「マツシタ家の家名を名乗ることは、
単なる事務手続きではない。
それは貴方と私たちの間に、
不可逆な契約が成立したことを意味する」
「……まあ、そうだな」
「ならば、契約の証は等しく
されるべきだと思わないか?」
「昨夜、エマとレオナには
あのような『物理的記号』が与えられた。
だが、私には……」
フィリアが俺の目の前に、
すらりとした白い左手を差し出した。
指には、何も嵌まっていない。
「あの夜、私は貴方と結ばれた。
その時点で契約は完遂しているはず。
なのに、この空白は何を意味するの?」
「……」
俺は思わず、持っていたフォークを止めた。
あの夜、俺は彼女の告白に
心臓が止まるほど動揺し、
そのまま幸せに溺れてしまった。
指輪なんて、
渡すタイミングを完全に逸していたんだ。
「忘れていたわけじゃないんだ。
ただ、フィリアは言葉の方が……」
「それは貴方の勝手な推論よ、ブンペイ」
「私も、マツシタなのよ?」
フィリアの声が少しだけ震え、
頬が林檎のように赤く染まる。
彼女は顔を伏せ、
小さな声で付け加えた。
「……目に見える形でも、
貴方に縛られたいのよ」
……参った。
こんなの、計算外の可愛さだろ。
俺は慌てて収納から、
ボブ爺のコレクションを呼び出した。
深い森の色をしたエメラルド。
彼女の知性と瞳に重なる、
気品のある銀の指輪だ。
「……フィリア。これ」
彼女の細い薬指に、
ゆっくりと銀の輪を通す。
指先の震えが、俺の手に伝わってきた。
「フィリアのエメラルド。
……ずっと、渡したかったんだ」
「……ふふ。
これでようやく、式が完成したわ」
「嬉しいわよ、ブンペイ」
フィリアは自分の指を
何度も愛おしそうに曲げ伸ばしし、
不意に俺の肩に、
こてん、と頭を預けてきた。
その様子を、
少し離れた場所で見ていたセバスが、
目を細めて微笑んでいる。
だが、その微笑みの奥に、
ふとした寂しさが滲んでいるのを、
俺は見逃さなかった。
◇
朝食の後、テラスで
後片付けをするセバスの横に立った。
彼は南国の強い日差しを避け、
北の空……
遥か彼方にあるはずの故郷を見つめていた。
「セバス、北の国が気になるか?」
老執事は一瞬、驚いたように肩を揺らし、
それから静かに頭を下げた。
「……申し訳ございません、オーナー。
あまりに平和な朝でしたので、
つい、あちらに残した家族を……」
「娘さんと、お孫さんだったな」
「はい。アリス様をお守りして
この国を脱出する際、
何も告げずに出てまいりました。
あの子たちも今頃は、
私のことを死んだと思っているでしょう」
セバスは、自身の節くれ立った手を
じっと見つめる。
「執事としてアリス様を守る。
それは私の誇りであり、人生です。
ですが、北の家族への想いだけは、
この年になっても
断ち切れるものではございませんな……」
「……セバス」
俺は彼の肩に、
ポンと手を置いた。
「北の国には、もうアリスはいない。
追われるエマもレオナもいない。
ここにいるのは、マツシタ家のアリスと、
その執事のセバスだ」
セバスは、俺の顔をじっと見た。
「過去を捨てろとは言わない。
望郷の想いも、持ってていい。
でも、お前の居場所は、
もうここなんだよ」
俺はテラスから見える、
明るく騒がしい南国の街を指差した。
「アリスも、新しい身分で生きる覚悟だ。
いつか、お前の家族だって、
この南のどこかに辿り着くかもしれない。
その時、『ここが家だ』と言えるよう、
俺たちはここで生きていくんだ」
「オーナー……」
「セバス。お前はもう、自由の身なんだ。
これからはマツシタ家の家族として、
一緒に歳をとってくれ」
セバスは深々と腰を折り、
いつもの、完璧な執事の礼をした。
だがその顔は、
憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……承知いたしました。
この老骨、マツシタ家の安寧のために、
今後はこの地に根を張りましょう」
見上げれば、どこまでも青い空。
北の雪空はもう、ここには届かない。
新しい家。新しい家族。
俺たちは、この南国の光の中で、
マツシタ家として
本当の人生を歩み始めた。




