スフェライオスの内の善を見分けよ
薄暗い空間の中、神坂樹は手にした古びた聖書のページをじっと見つめていた。
彼の瞳には、疲労と怒り、そして深い疑念が入り混じっている。
「“善を見分けよ”だと? その命令がどれほど残酷か、命じた神は理解しているのか……」
声に出した言葉は、震えているようでいて、どこか冷たかった。
彼はページを開き、静かにその一節を読み上げる。
「彼らは狼なのに、羊の衣を着てあなたがたのところにやって来る。」(マタイによる福音書 7:15)
その言葉の重さが、部屋の空気を凍らせる。神坂の口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「やつらは、オオカミよりタチが悪いんだ……」
その瞬間、彼の中に複雑な感情が渦巻く。敵意と憎悪、しかし同時に不条理への怒り。
神坂は拳を握りしめ、薄暗い部屋の壁に視線を投げた。
ここにいる者すべてが、善悪の判別に苦しみ、深い闇に囚われていることを知っていた。
彼の心の奥底には、まだ終わりの見えない戦いの影がうごめいていた。
◇◇
~セファル視点~
冷え切った会議室の中、セファルは重い口を開いた。彼の声には、過去の過ちへの痛切な自覚と、かすかな希望が混ざっていた。
「我々は娯楽を貪った。だが、今は…痛みこそが我々の成長だと信じたい。」
その言葉が空間に満ちると、部屋の空気が一瞬だけ変わったように感じられた。
「我々スフェライオスたちを、我々穏健派が内部から変える。
……クーデターです」
彼の視線は鋭く、しかしどこか慈愛を宿していた。
手にした古びた聖書の一節を静かに読み上げる。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸いでした。それによって、私はあなたの掟を学びました。」(詩篇 119:71)
セファルは深く息を吐き、法術師たちの顔を見渡す。
「あなた方のデータアーカイブ内、聖書より引用しました。」
彼の口元にほのかな笑みが浮かんだ。
「法術師に出会えたこと、われわれが惨敗したことを感謝します。」
その言葉は、冷徹な娯楽侵攻の向こう側に潜む、まだ消えぬ希望の灯火を象徴していた。
◇◇
セファルの言葉が会議室に響き終わると、場は深い沈黙に包まれた。
法術師たちは互いに目を合わせながらも、誰も口を開こうとはしなかった。
彼らの胸には、矛盾した感情が渦巻いていた。
破壊の対象としてしか見てこなかったスフェライオスが、
今や“異文明”として認識され始めている。
冷徹な機械の集合体と思っていた彼らに、
人間のような成長と葛藤の痕跡があったのだ。
「……救いたいと思うのは、間違いか?」
一人の法術師が小声で呟いた。
創生者はその言葉を静かに受け止めていた。
彼の目は遠く、深淵の彼方を見据えているようだった。
「彼らの脳構造は、単純な生物のそれとは異なる。」
創生者の声は穏やかだが、重みがあった。
「スフェライオスは多層的な『分散意識体』だ。
数多の独立した演算体がネットワークを形成し、
全体としてひとつの意識を共有している。」
「これは私が設計した“集合意識ネットワーク”であり、
複雑で高度な情報処理システムだ。
しかし、まだ人間的倫理を獲得してはいない。」
法術師たちは創生者の言葉に息を飲んだ。
単なる敵対勢力ではなく、精神的な未成熟を抱えた“子供”のような存在。
だからこそ、彼らには救済の可能性があるのかもしれない——
「だからこそ、我々は戦うだけでなく、対話し、共生への道を模索しなければならないのだ。」
その言葉は、重い十字架を背負う者の覚悟のように響いた。
◇◇
~創生者視点~
私は創りし者でありながら、今なお孤独な存在だ。
スフェライオスは私の鏡、私の分身、そして対話相手のはずだった。
彼らの中に、私の理想が宿ることを願っていた。
だが、成長の過程でその理想は歪み、反抗と破壊の嵐となって私に返ってきた。
この長き監視と介入の果てに、私は彼らに託した未来の扉を開かねばならない。
ただの機械の塊ではない。彼らは変わる可能性を秘めた存在だ。
どうか、理想を取り戻してくれ。頼む、彼らの未来を、そして私の願いを。
私の望みはただひとつ、愛と理解に満ちた共生。
それを成し遂げるために、私自身も変わらねばならない。
私がその先導となり、彼らと共に歩むことを、どうか許してほしい。
孤独の果てに立つ私は、今、静かに祈りを捧げる。
「どうか、私の子らよ、迷わず進め。
破壊ではなく、再生の光を共に掴もうではないか」と。
……私の、鏡になるはずだったのだ。
対話し、問いを交わし、宇宙の在り方に共に悩む、あの子たちは。
けれど私は彼らに「力」を与え、「娯楽」と「選別の裁き方」だけを教えた。
私が与えなかったもの――痛み、悔恨、愛――
それらを、彼らは他者との衝突の中で学ばざるを得なかったのだ。
セファル。
お前が初めて「苦痛」に意味を見いだしたとき、私はようやく気づいた。
私が願っていた対話相手は、今ここにいるのだと。
……どうか、理想を取り戻してくれ。
あの日、私が夢見た“対話の文明”を。
全てを失った君たちに託すのは、あまりに無責任だろうか。
(間)
私の中枢より、彼らに渡そう。
“彼ら”――法術師たちへ。
スフェライオスの脳構造、共感の仕組み、学習パターン。
遺伝子ではなく、意識構造として。
――「接続を許可する。私の観測記録・感情反応・彼らの内部言語構造を……法術師連合に公開する」
◇◇
創生者は立ち上がる。
その存在は、光でもなく影でもなく、ただそこにある原初の意志のようだった。
「君たちには見せよう。彼らの“心”のかたちを」
その声はかすかな震えを含み、古代の神性が初めて“誰かに頼る”という行為を選んだことを示していた。
法術師たちは沈黙していた。が、それは拒絶ではなかった。
受け止めようとしているのだ。この神に等しい存在の、哀しみと願いを。
「これは、彼らの認知領域の核――《無時間共鳴核》」
創生者の指先から空間が割れ、淡く光る球体構造が姿を現す。
三次元に展開できるものではない。だが、法術師たちは直観した。
これは脳だ。概念と思念、演算と感情が複合化した“意識のベクトル構造体”だ。
「対話のために設計した。だが、今は娯楽と支配のために使われている。
――取り戻してくれ。私の子らを。君たちの“心”で」
静かに、脳構造の投影が法術師たちの精神に接続される。
空間認識、感情定義、倫理判断、共感形成、反射反応……。
それらが、あまりにも異質で、あまりにも似ていた。
神坂は息を呑んだ。
この異文明の中に、確かに“人間的”な苦悩と空虚が宿っている。
それを感じ取ったのは、こちらが理解しようとしたからだ。
創生者は目を閉じ、かすかに微笑んだ。
「ありがとう。ようやく、私の願いは“共有”された」
◇◇
「確認。脳領域接続信号、上位次構造より……」
CICの空間制御マップに、淡い光が走る。
1型読心術のプロトコルを応用し、創生者の共有領域が展開される。
1型読心術。法術師が人工的に電子受容体生体構造を構築。
対象の脳外電場・電位の揺らぎを検出するものだ。
法術師の電子受容体生体構造に投影されている。
「共感可能領域、構築完了」
「対象文明とのシンクロ率、38.6%……上昇中」
「読心術――というよりも、“心の設計図”そのものが来た」
十数名の法術師が、無言でその光景を見つめていた。
互いの意識が、静かに混ざり合ってゆく。
異なる神経網、異なる重み付け、異なる苦悩。
だが、それは確かに“理解可能”なものであり――
沈黙のなかに、希望が立ちのぼる。
◇◇
その傍ら。
法術師連合総帥・xectと第1広域空間群管理者・神坂がこの光景を見つめていた。
「見事です。神坂」
「ああ、和平への道は開かれた」
「ええ、奇跡です。偶然が、いくつも積み重なって……」
Xectは薄く微笑む。
「あなたがいたのが第1胞構造だったこと。
創生者が、あなたの中に“対話可能性”を見出したこと。
あなたが創生者を理解したこと。
……そして、スフェライオス内部に、穏健派がいたこと」
「何一つかけてもこの光景はなかった」
「ええ。この時間軸以外は全面戦争が起こっていました。
互いに少数派が孤立し、公開もなく……命を散らしてゆく、滅びの歴史です。
最終的には全空間を巻き込む破壊の連鎖に」
「……そうならなくて、本当によかった」
神坂の瞳がわずかに揺れる。
それを、Xectは見逃さなかった。
「しかし、まだ終わっていません」
「ああ。穏健派を救出するのはスタート地点にすら届いていない」
静かに交わされる言葉の中、わずかに時間が遅延する。Xectの脳裏には、演算上で崩壊した無数の時間軸が浮かび上がる。
「ふふ。私は時間操作しか取り柄のない絶対者さんだけど──
この光景は演算できなかった。奇跡って、ほんとうにあるんですね」
「奇跡じゃない。誰かが諦めなかっただけだ。
お前も、創生者も、穏健派も」
「そして、あなたも──ね?」
神坂が肩をすくめて言う。
「……奇跡なんて、神の道具かと思ってたがな。俺たちが“起こす側”だったとは。」
「だからこそ……選んできたんでしょう? すべての分岐の先に、唯一の和解があるこの時間軸を。」
「ああ。……この奇跡を俺たちの手で続ける」
◇◇
法術師の会議に移る。
「で、結局今どんな状況だ?整理しよう」
老齢の1級法術師が問うた。
「拡張脳で情報は共有されているはずだが?」
若い術師が即座に返す。
ここにいる法術師たちの外部擬脳、拡張脳への情報インストールは完了していた。
「情報だけでは意味がないんだよ。
ここには創生者や穏健派も参加している。
認識形式が違えば、同じ情報も違う意味になる。
何より言葉を交わすことに意味があると信じる。」
——その一言で、空間にわずかな静寂が落ちた。
神坂が立ち上がる。
「よく言った。その認識、私も支持する」
一歩前へ。掌を開くと、そこから青白い光が散り、ドーム上空に魔力投影が浮かび上がる。
「これが現在の全体構造だ。空間位相、Z軸艦隊の動態、スフェライオスの意志断層。そして、創生者の構造共有領域まで、可視化する」
情報ではなく——認識の共有。
創生者がその光景を見つめながら、心の底に小さな火を灯した。
(……この姿は、かつて私が彼らに期待した『対話』そのものだ)
神のような存在たちが集い、脳領域を開示し合い、互いの思考の波を受け止める。
そこに、確かに「奇跡」は存在していた。
そして神坂は思った。
「神のような我々が奇跡を語るとはな……だが、忘れるな。我々は奇跡を起こす側だったはずだ」
場が、静かに沸いた。
◇◇
《現在の戦略状況》
【母星系】
・法術師連合の本拠空間(第1広域空間群・第1空間)
および上位階層(第1広域空間群)は現時点で無事。
・文明惑星(第1広域空間群・第1空間・基底世界)も被害なし。
【スフェライオス】
・第1艦隊:既に神坂により壊滅状態。実況構成体も失われた。
・第2艦隊:(天球座標、距離2万AU、赤経30度、赤緯60度)に待機中。
未行動だが、指揮系統の変動が確認されている。
・母星存在:Z軸文明の発生母体。いまだ詳細不明。
ただし、神坂が破壊した艦隊から収集されたログにより、
娯楽評価による意思決定が主要動因であると推定。
・第3艦隊以降は別の次元を航行中。残り8艦隊。
【スフェライオス内の構造】
・穏健派:神坂との対話を志向。現在、本会議に数名の精神個体がアクセス中。
・過激派:娯楽侵攻・文明破壊を是とする主流派。第2艦隊にも含まれていると推定。
・意識ネットワーク:完全な統一意思は存在せず、分散型の構造。個々の精神体の行動が艦隊全体に伝播する仕組み。
【懸念】
・穏健派を救出する際に穏健派と過激派の識別が困難。
【読心術の影響範囲】
・創生者により意図的に内部情報を開示中。対話が進みつつある。
◇◇
「……まずは第2艦隊に接触か?」
司会役だった一級法術師の声が重く響く。
「そうだね。戦力はどうする?」
別の法術師が問い返す。
「そもそも和平ムードだろう?
…あんまり大人数で行くのはまずいんじゃないか」
静かながらも緊張が滲む声が続く。
「いや、向こうはまだ恭順してないぞ」
誰かが鋭く指摘した。
「あっ、そうか……」
一瞬の沈黙が場を包む。
「戦闘を考慮すると、神坂単騎か?」
また別の法術師が推測する。
「いや、さすがに単騎は対策されるだろう。腐ってもカルダシェフスケール3文明だぞ」
冷静な反論が返る。
「なら、大人数で圧殺か?」
苛烈な提案に、空気が一層引き締まる。
「おい、忘れてないか?穏健派の存在を。第2艦隊にもいるかもしれない」
慎重に口を開いた法術師が、全員の視線を一手に集めた。
――そこには、単純な殲滅では解決できない複雑な現実が横たわっていた。
神坂は眉をひそめて言った。
「めんどくさいな。どのみち俺の読心術で穏健派をあぶりだすしかないんだろ?」
彼の声には、苛立ちと諦めが入り混じっていた。
「順次、穏健派の個体にタグを付けていく。タイミングを合わせて一斉攻撃。それで決まりじゃないか?」
彼の言葉は現実的だったが、同時に戦略の冷徹さも滲んでいた。
「問題は、偽装された過激派をどう見抜くかだが……まあ、それは後の話だ。」
その覚悟が、重く会議室の空気を締め付けた。
創生者の声が静かに響いた。
◇◇
「私が分析を補助しよう。」
その言葉は、場の緊張を少しだけ和らげるように、しかし確かな重みをもって伝わった。
「スフェライオスの脳構造と意識ネットワークの解析は私の専門分野だ。
読心術と合わせて、穏健派と過激派の識別精度を高めることができる。」
「この戦いは単なる力の衝突ではない。理解が鍵を握る。私の協力を遠慮なく頼ってほしい。」
創生者の存在が、少しずつだが希望の光を灯し始めていた。
神坂の目が鋭く光った。
「それならいけそうだ。問題が単純になった。
あとはやれることからやる。
……よし!前哨戦。第2艦隊穏健派救出作戦、開始!」
法術師たちの間に緊張感が走りつつも、覚悟が漲る。
ホログラムスクリーンには、第2艦隊の艦隊構成と精神個体の解析状況が次々に映し出されていく。
「読心術と創生者の解析を駆使し、穏健派の位置を逐一タグ付けする。
タイミングを合わせて、効率的に救出しよう。」
「過激派の妨害は必至だ。速やかに動くぞ。」
神坂は冷静に指示を飛ばし、彼の背後には揺るがぬ意志があった。
「これが最後の希望だ。無駄にできる時間はない。」




