52 死の谷の王 1
その朝は霧も晴れて、初めてこの島の全貌を眺めることができた。全貌と言っても、小高い岩山に上って周囲を見回しただけだったが……。
この島は起伏が少なく、草原や畑が広がる中に小さな森や林が点在していた。見る限りでは、大きな街のようなものはなく、ノームの家らしい小さな家が集まった集落が、いくつか散見できる程度だった。
「トーマ様、あの辺りはまだ霧に包まれていますね」
ポピィが指さす方向に目をやると、俺たちが今いる岩山の連なりが、五キロほど先で白い霧の中に消えていた。その辺り一帯は荒涼としており、緑がほとんど見られない。
「見た感じでは、あの辺りに死の谷があるんじゃないかな」
俺の言葉に、ポピィは少し不安げな表情になった。俺が、そこに行くと言い出さないか、心配なのだろう。
ナビもまた、その辺り一帯が、例の〝膨大な魔力〟が出ている中心だと警告していた。だが、ここで死の谷を見に行かないという選択肢は、俺にはなかった。だって、そうだろう?何のための旅だって話だ。こういう場所を見て回りたいと旅に出たんだから。
「俺はあそこに行ってみるつもりだが、危険かもしれない。本当なら、ポピィには安全な場所で待っていてほしい、と言いたいところだが……ポピィはどうしたい?」
俺の問いに、ポピィは俺をじっと見つめて、初めて見せる表情でにやりと微笑んだ。
「行くに決まっているじゃありませんか」
「よし、じゃあ、行くか」
すっかりたくましくなった相棒に頼もしさを感じながら、俺は岩山を駆け下り始めた。
♢♢♢
白い霧の世界に一歩足を踏み入れたとたん、俺はすぐに言い知れない息苦しさを感じ始めた。それは、単純な霧ではなかった。まるで、魔力をたっぷり含んだ水蒸気の中で息をしている感じだ。息を吸い込むたびに、肺の中で魔力が渦を巻くような感覚に襲われて、思わず咳き込んでしまう。
たまらず〈鑑定〉のスキルを使って、この霧を鑑定してみた。すると、《魔素を大量に含んだ水蒸気》という結果が出た。そして、注意書きに、『これを長時間体内に吸収し続けると、魔素に含まれる思念や悪意によって、その生物の思考が阻害されたり、混乱させられたりする恐れがあり……』とあった。
(まずいな…ええっと、これを解決するには……)
俺は、ポピィに止まるように手で合図してから、その場に座った。そして、ストレージの中から、オークの魔石を二個取り出した。
「この霧は、長い時間吸うと体に悪いらしい。それで、ちょっとした魔道具を作るから待っていてくれ」
「了解です」
ポピィも少し違和感を感じていたのだろう、頷いて座り、辺りを警戒するように見回した。
俺は、さらにストレージの中から、タオルを二枚取り出した。そして、魔石の一つを手のひらに載せ、目をつぶった。何をしようとしてるかって?まあ、簡単に言うと魔素だけを除去するマスクだ。〈トーマ式魔素防御マスク〉と名付けようか。
まず、一辺が五メートルの亜空間をイメージして、特異点で魔石と接続する。次にもう一つの特異点で、魔石が通気口になるように亜空間と外部をつなぐ。そして、魔石に〝魔素だけを亜空間に取り込む〟という性質を付与する。あとは、この魔石をタオルに糸で固定すれば、完成だ。
タオルに直接亜空間と魔法を付与すればいいのでは?という意見もあるだろうが、魔石は魔素の結晶なので、魔法が付与しやすいのだ。媒体として、魔石ほど使いやすい素材はないのだ。
「よし、できた。ポピィ、このタオルをこうして、魔石の所が口の近くにくるようにして、後ろで縛るんだ……」
俺の指示に従って、ポピィがタオルで顔の下半分を覆った。まあ、見た目は〝年末大掃除の準備をする少女〟といったところだが、魔素で頭が混乱するよりましだ。
「ちょっと息がしにくいけど、これで霧の影響は受けなくなる。しばらく我慢してくれ」
「大丈夫です。ふふ……二人とも盗賊みたいですね」
ポピィの言葉に、かつてギルドの依頼で、パルトス近郊の盗賊を退治したときのことを思い出した。確かに、あの時の盗賊たちは顔を隠すために、マフラーのような布を顔の半分に巻き付けていたっけ。
「あはは……本当だな。では、行こうぜ、相棒」
俺たちは笑いながら、霧に包まれた荒涼とした土地を奥へ歩き出した。
「生き物の気配が全くありませんね?」
「そうだな……これだけ魔素が多いんだから、魔物がいてもおかしくないんだけどな」
俺たちの疑問の答えは、それからしばらく歩いた所にあった。
「トーマ様、魔物が数匹、五十メートルほど先です」
前を歩いていたポピィが立ち止まって、低い声で報告した。
「ああ、感知した……でかいのが一匹に…小さいのが二、三匹だな」
俺は返事をすると、〈隠密〉のスキルを発動して、ポピィに合図を送った。ポピィも頷いて〈隠蔽〉で自分の姿を隠してから、魔物の方へ近づいていった。
(ん?なんか、おかしいな……あいつら、どこへ向かっているんだ?)
うっすらと魔物たちの姿が見えるところまで近づいたとき、俺は、彼らの動きに違和感を覚えた。まるで、仲良く連れ立って遠足にでも行っているように見えた。ただ、その足取りは何かふらふらしておぼつかないものだった。
ポピィもさすがに変だと思ったのだろう、俺に顔を向けて声を潜めながら言った。
「トーマ様、魔物たちが何かに操られているみたいに、左の崖の方へ……」
「ああ、もう少し近づいてみよう」
俺たちは頷き合って、魔物たちに気づかれないようにかがんだ姿勢のまま移動した。
♢♢♢
(なあ、ナビ、魔物も魔素で混乱することってあるのか?)
『いいえ、あり得ません。魔素は魔物たちにとって言わば食料ですから……』
(そうだよな…でも、今見ているこいつらは、どう見ても酔いどれ親父たちにしか見えないぞ)
『……はい、魔素酔いはしませんが、誰かが魔素を使って魔物たちに幻影を見せている、ということはあり得ます。あるいは、テイムのような、魔物たちを操る魔法とか……』
なるほど、確かにそれはあり得る。今、俺たちは、十メートルほどの近さから、兵隊のように一列に並んで、何のためらいもなく崖から身を投げる魔物たちを呆然と眺めていた。
魔物たちの〝集団自殺〟なんて、金輪際見たことも聞いたこともない。
「ト、トーマ様、また魔物たちが……」
ポピィもショックを受けていたので、微かに震える声でささやいた。
彼女が指さす方向には、また数匹の魔物たちが、並んでふらふらとこちらに歩いてきていた。いったい、何が、いや、誰がこんな不可解な現象を引き起こしているのか。それを考えるだけで、俺は全身に寒気が走って鳥肌が立った。
だが、大いなる危険を感じつつも、この謎の正体を確かめたい、という気持ちには逆らえなかった。
「ポピィ、もう少し奥まで行ってみよう」
俺の言葉に、ポピィは唇を引き結んでしっかりと頷いた。本当に頼りになる相棒だ。〈加速〉を使って、一気に魔物たちの通り道を駆け抜け、そのまま少し明るく見える奥の方へ針り続けた。
と、急に明るい陽光が俺たちに降り注いだ。眩しくて一瞬目がくらんだが、だんだん目が慣れてきて……辺りを見回すと、俺たちは、霧の中から抜けて太陽に照らされた世界に立っていた。思わず後ろを振り返ると、そこには、確かにまだ霧の覆う世界があった。そして、左側は崖になっていて、対岸の岩山は二百メートルほど先に高くそびえて、ずっと右の先の方まで続いている。ここが〝死の谷〟と呼ばれている理由が、ようやく分かった気がした。
俺たちは、緩やかな上り坂になった岩場を、ゆっくりと上っていった。
「こ、これは……」
先を歩いていたポピィが、上り坂の頂上に着いた途端、驚きの声を漏らして立ちすくんだ。俺も、急いで上っていき、彼女の横に立ってみて、なぜ彼女が驚いたのか理由が分かった。
そこには、一面の花畑が広がっていた。そして、かなり昔に、そこに何か壮大な建築物があったであろうと分かる、大きな石柱や崩れた壁、石材が、花畑の中に点々と顔をのぞかせていたのである。