帰り道/墓石の迷宮で迷いました。
夕方になっても暑さはまだ残っているが、ここ二、三日は湿気のきつさが薄れてきた気がする。
草むらがある場所に近づくと、虫の声が聞こえるようになってきた。
帰坂 歩乃香は、うっすらと赤くなった空を見上げた。
秋は確実に近づいていると分かるが、明日もおそらく晴れ。また暑くなると思うとうんざりする。
会社を出て五分ほど歩いた県道の近く。
道路は広いが、人通りはほとんどない。自分の影が薄く長くアスファルトに映る。
木々の多い通りに入り、踏切にさしかかる。ここを越えて少し歩くとバス停だ。
スマホを取りだして時刻を見る。
「うわ……バス来る」
誰もいないのについそう呟いた。
木の踏み板を踏むと、カンカンカンという警報音が聞こえた。
電車が来るのか。線路のずっと先を眺める。
ガタンゴトンという電車のジョイント音が耳に届いた。
踏切を抜け、さらに寂しい通りに入る。
バスを逃しても二十分もすれば次が来るが、こんな寂しい道沿いで二十分も待ちたくない。
歩乃香は早足になり道を急いだ。
道沿いにある大きな霊園の向こうに、バス停が見える。
ここをまっすぐ通り抜けて行けば近そう。
気づかなかった。こんな近道あったんだ。
霊園というのが気になるといえば気になるが、まだ明るい時間帯だし、罰当たりなことをしなければ平気でしょと思った。
リネン素材のロングスカートが草むらで少し邪魔になるかと思ったが、履いている靴はスニーカー。ロングスカートは、たくしあげれば大丈夫と思う。
ブロック塀の門から、霊園内にそっと入る。
いちばん手前にあった墓石に刻まれた文字は「夏井川家代々の墓」。
夏井川さん、お邪魔しますと、なんとなく脳内で挨拶しながら進む。
次は「秋保家」。
その次は、浅野家之墓、久保家、石川家之墓、生松家先祖代々之墓。
すみません、お邪魔しますと心の中で告げながら歩乃香は霊園内を進んだ。
小川家先祖代々之墓、木村家之墓、小杉家之墓、島田家、庄司家代々の墓……。
本当にこの霊園広いなと思う。向こうのバス停まで突っ切るなんてすぐだと思えたのに、ぜんぜん出口が近づいてこない。
青柳家、栗林家、金沢家、小島家、江川家、三河家、横田家、東海林家、二ノ宮家、和田家。
苗字っていろいろあるなと思う。
ふと前方を見た。
「……あれ」
前方の出口の向こう。ずっと見えていたバス停がない。
どう目を凝らしても違う道筋に変わっている。
歩乃香は、しばらく呆けて前方を眺めた。
「迷った……?」
まさかと思う。広い霊園とはいえ、まっすぐ突っ切ろうとして迷うほどではない。
スカートを片手でたくし上げつつ後ろを振り返る。
二、三歩ほど戻ってみた。
先ほど見た柴田家と刻まれた墓石。たしかその前が、佐藤家の墓石。
「あるよね ……」
元きた通路沿いの墓石を指差したどってみる。
佐藤家の墓石の次、篠原家の墓と刻まれた墓石ははっきりと覚えている。特徴的な真ん丸い形に「安らかに」の白い文字。
須田家の墓、北川家の墓、片山家の墓、佐久間家の墓、古市家の墓……。
「……あれ」
「白川家代々の墓」と記されている墓石の前で立ち止まる。
「これ見たっけ……」
記憶をたどるが、覚えがない。
最近人が来た墓なのか、綺麗なかすみ草が供えてある。これを見ていたら、覚えていないはずはないんだけどと思う。
戻ってきた通路を振り向く。
出口の向こうには、ふたたびバス停が見えていた。
「こっちの方向でいいんだよね……」
歩乃香は出口の方向に腕を伸ばした。
指した方向にある墓石の特徴を、ざっくりと頭に入れる。
大きな黒い墓石を曲がって、白灰色っぽい墓石のそばをまっすぐ。
出口のすぐそばにあるのは、石碑のついた今どき風のデザインの墓。
あの墓石を目指せばいいんだよねと思う。
目立つ墓石を目印にしつつ歩き出した。墓石に刻まれた苗字を一つずつ確認する。
鈴木、黒岩、今井、岩崎、荒川、稲船、泉川、大沢、石塚、杉山、川木、小倉、武藤、乙瀬、遊佐、阿久津、樋口、金子、田嶋、上野。
いろいろ苗字あるなあなどとまた考えながら、前方を見た。
出口の外は、またもや見たことのない細い道が続いていて、バス停は見えない。
夕陽もそろそろ翳るだろう。薄暗くなったらさすがに居たくない場所だ。
少しあせる。
「……佐野、進藤、小堀、児玉、片野」
手前の墓石から指差して、苗字を読み上げてみる。
また迷ってはと、今度は意識して覚えながら歩いたのだが。
「下山、小橋、砂山、菅沼、亀山、塩野、小久保、川瀬、岩村」
歩乃香は青ざめた。
見た覚えのない墓石ばかり。
「……なんで」
手前の墓石から指差して墓石の苗字を確認する。
宇野、青山、新井、桑原、井出、梅沢、窪田、久米、伊沢、小瀬野、刺野、井田、三十刈、宇田川、倉田、浅野、新井、梅田、鎌田、臼井、笠原、青柳、亀井、伊勢、香取、井沢、加瀬、甲斐、香川、柏木、伊勢、安達、鹿島、柿沼、角田。
覚えのない苗字ばかり。
簡単な通路なのだ。向こう側に目的地のバス停がはっきり見える。
こんなところで迷うはずが。
「やだもう……」
歩乃香はあせって元きた通路を数歩ほど戻った。
さらに覚えのない墓石が目の前に広がる。
刺野 神戸 亀山 青木 角田 相原 石崎 柏原 石丸 阿久津 梅村 和泉 石本 磯野 荒川 垣見 磯部 板橋 上林山 木住南 久合田 小瀬野 亀田 浅井 植木 上村 内海 荒木 内野 梅原 浦野 宇都宮 江田 市原 江頭 内村 江本 江上 笠原 亀井 香取 柏木 加瀬 甲斐 香川 伊勢 上杉 鹿島 柿沼 石坂 秋田 風間 勝田 金本 青木 金森 金谷 神崎 神山 唐沢 川野 川畑 川原 川辺 川本 加納 粕本 河井 板垣 河内 江尻 河田 河本 片桐 梶原 久津礼 相沢 影山 金内 笠井 板倉。
わけの分からなさに、恐怖を覚える。墓石に刻まれた苗字が集団で迫ってくるような錯覚を覚えた。
剣持 塩田 田辺 田代 高橋 高木 入江 高山 高瀬 高井 高松 高野 武田 武井 竹内 竹田 土屋 津田 塚本 石黒 土田 塚原 辻村 筒井 鶴岡 長井 長尾 長岡 板橋 長瀬 永島 中本 成瀬 難波 南部 中塚 長沼 永瀬 長山 鶴田 鶴見 塚越 坪谷 坪内 角田 滝口 滝本 竹下 武内 立石 立川 中島 倉本 中西 中沢 内藤 永井 長島 長沢 成田 那須 奈良 中根 仲田 滝沢 辰巳 高田 田上 川田 田崎 田畑 田端 田原 田渕 高尾 高岡 高崎 高沢 並木 高津 高梨 高原 池沢 高見 高村 高柳 藤井 藤原 藤田 古川 田島 古谷 古田 深沢 布施 深井 深谷 中野 深見 福永 福原 藤木 星野 本田 本多 本間 田村 堀内 田口 堀口 細川 中林 細谷 田中 保坂 北条 細井 細田細野 堀井 堀川 堀越 藤崎 塩谷 古沢 深野 藤倉 藤林 藤谷 藤波 深町 古村 藤枝 古賀 五味 駒井 小塚 渋江 小竹 小橋 和泉 磯野 直井 磯部 板垣 板倉 市原 市村 稲田 今泉 今西 岩城 岩下 岩渕 岩間 岩村 井川 飯村 石倉 石野 石村 稲村 岩谷 榊原 佐川 佐竹 阪口 笹川 真田 沢井 三枝 沢村 沢辺 佐山 坂崎 佐瀬 佐田 沢本 沢崎 桜田 品川 塩沢 永野 塩野 庄司 白鳥 新谷 神保 進藤 篠塚 渋川 須賀 菅原 岩佐 菅野 諏訪 菅谷 菅沼 杉野 泉川 磯田 石尾 白鳥 新谷 神保 進藤 篠塚 渋江 渋川 国井 黒木 立花
アップに結った頭を抱える。
わけが分からない。
苗字が怖い。苗字が集団で襲いかかって来そうな圧迫感を覚える。
深谷 深見 福永 福原 藤木 星野 本田 本多 本間 堀内 堀口 細川 細谷 保坂 北条 細井 細田細野 堀井 堀川 堀越 藤崎 古沢 深野 藤倉 藤林 藤谷 藤波 深町 古村 藤枝 古賀 五味 駒井 小塚 小竹 小橋 和泉 磯野 磯部 板垣 板倉 板橋 市原 市村 稲田 今泉 今西 入江 岩城 岩佐 岩下 岩渕 岩間 岩村 井川 飯村 石倉 石野 石村 稲村 岩谷 榊原 佐川 佐竹 阪口 笹川 真田 沢井 三枝 沢村 沢辺 佐山 坂崎 佐瀬 佐田 沢本 沢崎 桜田 品川 塩沢 塩野 塩田 塩谷 庄司 白鳥 新谷 神保 進藤 篠塚 渋江 渋川 須賀 菅原 菅野 諏訪 菅谷 菅沼 杉野 泉川 池沢 磯田 石尾 石黒 白鳥 新谷 神保 進藤 篠塚 渋江 渋川 国井 倉本 黒木 剣持 田中 田村 田辺 田島 田口 田代 高橋 高木 高田 高山 高瀬 高井 高松 高野 武田 武井 竹内 竹田 土屋 津田 塚本 土田 塚原 辻村 筒井 鶴岡 長井 長尾 長岡 長瀬 永島 永野 成瀬 難波 南部 中塚 長沼 永瀬 長山 鶴田 鶴見 塚越 坪谷 坪内 角田 滝口 滝本 竹下 武内 立石 立川 立花 中島 中野 中西 中沢 内藤 永井 長島 長沢 並木 成田 那須 奈良 直井 中根 中林 中本 仲田 滝沢 辰巳 田上 川田 田崎 田畑 田端 田原 田渕 高尾 高岡 高崎 高沢 高津 高梨 高原 高見 高村 高柳 藤井 藤原 藤田 古川 古谷 古田 深沢 布施 深井 深谷 深見 福永 福原 藤木 星野 本田 本多 本間 堀内 堀口 細川 秋田 青木 浅井 荒木 荒川 相沢 相原 阿久津 石坂 石崎 石丸 石本 和泉 磯野 磯部 板垣 板倉 板橋 市原 垣見 上林山 木住南 久津礼 久合田 小瀬野 刺野 上杉 植木 上村 内海 内野 梅原 浦野 宇都宮 梅村 内村 江田 江頭 江本 江上 江尻 角田 笠原 亀井 香取 柏木 加瀬 甲斐 香川 伊勢 鹿島 柿沼 笠井 風間 柏原 勝田 金本 金森 金谷 神崎 神山 神戸 亀田 亀山 唐沢 川野 川畑 川原 川辺 川本 加納 粕本 河井 河内 河田 河本 片桐 梶原 影山 金内。
「も、出る。とりあえず霊園から出るから! ごめんなさい!」
墓の住人に、霊園を荒らしたとでも思われたのかと考えた。
これが霊現象なのかなんなのかは知らないが、ともかく怖くて頭がおかしくなりそう。
歩乃香はあたりを見回した。
霊園の入口近くにあったのは、たしか夏井川という家の墓。
入口の近くにあったのは、踏切。
カンカンカンカンという警報音が鳴ってくれないかと願う。
目で見ているものが不確かなら、せめて確実に出入口の手がかりになる音が欲しい。
警報音の代わりに、救急車のサイレンが聞こえた。
音のする方を見ると、霊園に入ったときに見た夏井川家の墓石が目に入る。
歩乃香は、そちらに向かって駆け出した。
目的地がバス停のように消えてしまう前にたどり着かなければ。そんな風に考える。
夏井川家の墓石の手前まで来ると、出入口の向こう側に救急隊員のような人物たちが見えた。
「たっ、助けて! すみません! なんか迷って……!」
歩乃香は声を上げて駆けて行った。
救急隊員の一人が無線で何かを話している。
「二十代、女性。心肺停止状態です」
救急車の横では、スーツを着た男性二人が歩乃香のバッグの中にあったはずの社員証を手にスマホで何か話している。
「身元分かりました。帰坂 歩乃香さん。近くの企業の社員です。誤って電車の来ている踏切に入ったのかな──事件性はなさそうです」
歩乃香は、ゆっくりと霊園の出入口に歩み寄った。
出入口のブロック塀の門から顔を出すと、先ほど通ってきた踏切が見える。
夕陽が沈む寸前。
薄オレンジ色に照らされた踏切に血塗れで倒れていたのは、確かに自分だった。
終