30 帰りましょうかじゃなくて?
ホコリっぽい部屋にリャニスが倒れこんでいる。ポメ化した僕にできることはせいぜい、弟の腹を冷えから守る程度だった。
ゆたんぽのごとくリャニスのおなかにぴったりとくっついてから、僕は怪しい仮面の男に向かって吠えたてた。
それでも必死に、怪しい仮面の男に向かって吠えたてた。
「――っていうか、イレオス様だろ! 正体はわかってるんだからな!」
隠すつもりもなかったのか、イレオスは静かに仮面を外した。
薄闇の中で見ると、彼の整いすぎた顔面は少し怖いくらいだった。感情をどこかに落としてきたような、冷たい目をしている。
彼の視線は僕を素通りし、リャニスに向けられた。
「リャニスラン様、起きているんでしょう」
「え!?」
「隙を見て奇襲を仕掛けようとしていたのはわかっていますよ。ノエムート様がおかしなことばかり言うから機を逃したようですが」
苦笑というより冷笑に近かった。イレオスは普段、他者との距離を慎重に推し量り、相手を不快にさせぬようふるまっているように見える。それをすっかり投げ打ってしまったみたいだった。
軽く驚いたが、今はそれよりリャニスのことだ。僕のせいで失敗しちゃったの?
「本当なの、リャニス!?」
「……いえ」
遠慮がちに否定して、リャニスは危なげなく立ち上がる。ホッとしていたら、ひょいと抱き上げられた。
「決して兄上のせいではありません」
そう言いながら、リャニスは僕の毛から慎重にホコリを取り払ってくれた。どことなく現実逃避のようにも見えるけど。
「ノエムート様を戻して差し上げてはいかがですか。そのままでは話しにくいでしょう」
イレオスは、ポメ化した僕とは話をする気がないようだ。とはいえ僕も、あまり真正面から彼の顔を見たくないんだよな。
尻尾はすっかり下がってるし、なんなら耳もぺたんとしてる。もうちょっと近寄られたら唸っちゃいそう。
うん、ポメのままでは確かに話づらい。一切とりつくろえないし。
「いいえ、このような薄汚いところに兄上を立たせておくわけにはまいりません。お話なら手短に、今すぐどうぞ」
「リャニス?」
「すみません、兄上。もう少しそのままでお願いします」
リャニスがすっと目を細め、怒りを露わにしたので僕は逆らわないことにした。
低く、やけにゆっくりと、探るような口調だった。
「いま、何かおかしなことを話していましたね。兄上のお命がどうとか」
「え、いや、その」
僕は彼の迫力に怖気づき、きゅむっとリャニスの腕に頭を突っ込んだ。尻どころか胴体すら隠せていないが、見逃してほしい。
「黒衣は俺に言いました。数日間兄上をキアノジュイルから引き離すように、と。あの方たちは殿下のことをあまりご存じではないようですね。このようなひねりのない隠し場所では、半日もせず探し当ててしまうでしょう。俺ならもっと……」
ん!?
なんかいま変なこと言いかけなかった?
思わず顔を上げると、リャニスは気まずそうに咳払いをし、どこからともなくブラシを取り出した。
え、今ブラッシング始めちゃう?
「どこの馬の骨ともわからぬ輩に、兄上を任せるわけにもいきませんし、いっそこうして自分の手でお連れしたわけですが――。正しい判断でした」
「どういうこと? リャニスは僕を反逆者と断定して、王子ごと断罪するためパワーアップして帰ってきたんじゃないの!?」
するとリャニスは、困ったように笑った。
「強くなりたいとお伝えしたことは偽りではありません。ですが、兄上と距離を置いたのは敵を欺くためでした」
「敵とは!?」
「兄上を害するものすべてです」
開いた口がふさがらないぞ。
断罪するの、そっちなの?
「な、なるほど?」
そっかー。その可能性については欠片も想像したことがなかったな!
「じゃあ、地獄を見せてやるとか言っていたのは……」
「地獄に連れていくと申し上げたつもりでした。このような狭く汚らしい場所、兄上には地獄も同然でしょう」
どんな箱入り息子だよ。喉元まで出かけた言葉を何とか飲み込んだ。原作のノエムートだったのなら、そのくらい大げさに絶望したかもと思い当たったからだ。
何も言えない僕を見て、リャニスはため息交じりに続けた。
「それでも、兄上を欺いたことは事実。しかし、お叱りはあとで受けます。今はイレオス様の話を聞くのが先決です。――本気で兄上を殺めるおつもりだったのですか」
やばい、リャニスのほうが殺っちまいそうな眼付きだよ。
「いや誤解だよ! 僕の死因は軟禁生活の中での孤独死というか、毒が原因の衰弱死だし! 死ぬのはまだ先だから――」
あ、しまった。
ツッコミを入れる勢いで、何を暴露しているのかな、僕は。
ほらー、リャニスの表情が一瞬にして消えちゃったよ。
「兄上のお話は、また後程……」
こてりと首をかしげて、彼は僕に微笑んだ。いや、目がちっとも笑ってない。怖い! 怖いよっ!
「その未来、どうやら変わったようですよ」
皮肉気な笑みを浮かべながら、口を挟んだのはイレオスだった。
「今朝がた預言が下されました。ノエムート様、今夜あなたの命を私が奪うそうですよ」
「んなっ。さっきの緩やかに殺せってのはなんだったの。いたぶったれってこと!?」
僕は黙ってられず騒ぎ立てた。
「なんだってイレオス様はそんな役割を押し付けられちゃってるんだよ!」
この人モブだろ!?
おかしいだろ神様!
きゃおおおん! って、思わず遠吠えしちゃったじゃないか。
「そう吠えないでください。私だって困惑しているんです」
イレオスは顔をそむけ口元を手で覆った。まさかこの人、犬苦手なのかな。
それとも僕が何となく彼を苦手とするように、実はイレオスも僕が苦手とか?
そっちも気にはなるが、今はなぜこのタイミングで預言の話を持ち出したか、だ。
「リャニス、話をする必要がありそうだ。やっぱりもとに戻して」
「ですが」
「お願いだよ」
ポメの上目遣いにはさすがのリャニスも敵わなかったらしい。抱えたまま撫でてくれた。人の姿に変わると同時に、リャニスは僕を床に下ろした。そして僕を支えるように横に並び立つ。
心強さを感じながら、僕はイレオスへと向き合った。
「イレオス様、今、僕に死なれると困るんですね?」
するとイレオスは、ようやく僕に目を向け、思い出したかのように微笑みをまとった。まとう、という表現が似つかわしいと感じた。僕の、悪役令息モードのように、彼にも何かのスイッチがあるんじゃないかって。
これをもう一度引きはがし、彼の真意を探らなきゃいけない。
「スクールに、不審なカードをばらまいたのはイレオス様ですよね」
彼は日本語を扱う人物をあぶりだそうとしていたのだ。
けどそれは、黒衣の仕事じゃないはずだ。
だって、本来のノエムートには前世の記憶なんてものはないんだから。
「カードから、イレオス様のにおいがしました」
きっぱり言った瞬間、イレオスの眉間が不快そうに寄った。
いや、臭いといってもアレだよ? 物質的なものではなくて、イレオスから時々感じる嫌な感じの気配の方。
どちらにしても、失礼なことには変わりないか。
でもね、僕は何も、勘だけでものを言っているわけじゃないんだ。
犯人がイレオスだって断じる理由はほかにもある。
キアノが一緒に探してくれた、あの馬糞変換装置周りのらくがきのことだ。
あれにはトラムゼン家の名前が含まれていた。
『ウマノフン』『デスゲーム』『トンマダゼ』『メイジムラ』『オオシゴト』これらの文字を並べ替える。
『オオシゴト』
『メイジムラ』
『デスゲーム』
『トンマダゼ』
『ウマノフン』
それぞれ、語頭ととると『オメデトウ』、語尾をとると『トラムゼン』となる。
最初は犯行声明かと思った。
えらく挑発的なメッセージだな、と。「よくぞここまで来た、私がトラムゼンだ。ふはは!」とか言いそうだよね。
でも、違った。
イレオス様は日本語が読めないんだ。
「イレオス様は僕に、解読してほしいメッセージがあるのでは?」
だからこそ彼は、僕を殺せない。
ほんの一瞬のことだった。
イレオスの表情が崩れた。苦しそうな、悲しそうな。何かを堪えるかのような。
でも取り繕うのも一瞬だった。
彼はいつものように淡い笑みを浮かべた。
「ええ、おっしゃる通りです。――ですから、取引しませんか」
彼はまだ、自分の優位を疑わないようだ。
僕は悪役令息モードをオンにする。小首を傾げ自信たっぷり微笑んでみせる。
「取引?」
「ええ。いくらノエムート様でも、課せられた運命からは逃れられない。ですが、ギリギリのところでお命だけは救いましょう。致命傷を避ければ――」
「無理ですよ」
僕はため息交じりに遮った。
「たとえ僕が応じても、僕に傷をつけることを周りが許しません。きっと、あなたは僕に指一本触れられない」
僕は悲しい末路を迎える美貌の悪役令息だぞ、メインキャラなんだ。ハッタリでモブに負けるわけがない!
「意外ですね、イレオス様。何でもお出来になるようなのに、交渉事は苦手なご様子。あなたは僕にこう言うべきです。――手心を加えてくださいと」
「意外ですね、イレオス様。何でもお出来になるようなのに、交渉事は苦手なご様子。あなたは僕にこう言うべきです。――助けてくれ、と」
もちろん、僕としてはハッタリのつもりだったわけだけど――。ものすごいいいタイミングでライラが飛び込んできた。
「その通りです!」
そして叫びながらイレオスに蹴りを放った。
「命乞いならお早めにどうぞ」
「ライラ!?」
「はい、坊ちゃま!」
きっちり返事を返しながらも攻撃の手は緩めない。
僕を抱えて、リャニスがとっさに飛び退らなかったら、巻き込まれてたところだ。
後ろのほうで、クロフが「ライラ、入室の許可を取りなさい」と窘めている。
そういう問題かな!
取り繕うことも忘れて、キョロキョロしちゃった僕だけど、リャニスは平然としている。
「守備は」
「全て片付きました」
何を片付けたの!?
驚きすぎて声も出せずにいると、今度は廊下からワーワー声が聞こえてきた。
「私を誰だと思っている! こんなことをして許されると思っているのか!」
騒いでいたのは、先ほど立ち去ったはずの黒衣たちだ。縛られた状態だし、なんならロープの端を持ってるのは僕の侍女だ。おっとりした微笑みと行動が合ってない!
彼らのほかにも、いかにもゴロツキって感じの男たちが床に転がされた。彼らの顔は恐怖に引きつっている。これは、ジョアンの仕業かな。
な、何事。
僕らの注意がそれた瞬間、イレオスはライラから距離を取っていた。
そして窓から一人でさっさと逃げた。
黒衣たちがそれを見てまたわめく。
ライラは追いかけようとしたが、リャニスがそれを止めた。
「追わなくていい、ライラ。あの人の始末は後だ」
始末って言ったあ!?
「貴様ら正気か! 黒衣の邪魔をすることは神への反逆! トルシカ家は終わりだぞ!」
黒衣の言葉にもまともにビビってしまった。
どうしよう、退場するのは僕だけのはずだったのに、ことが大きくなっちゃった!?
だけどリャニスは冷静だった。
「果たしてそうでしょうか」
と真顔で黒衣を見下ろした。
「神のシナリオは絶対か。いいえ、そうではないはずです。破れば天罰が下るということもない。証拠に、トルシカ家は続いていますから」
「リャニス、何の話をしているの?」
おそるおそる口を挟むと、なんてことのないように返してくる。
「父上と母上のことですよ」
「え?」
「ザロンで耳にしたのですが、かつて父上の名も神のシナリオに載っていたそうです。父上は王子の一人と結婚するはずだった。それを、母上が奪い取った」
わあ、その話聞いたことがある。神のシナリオとは知らなかったけど。
「これが意味することはつまり、――より神を楽しませたほうが正義なのです」
りゃ、リャニスの正義感、すでにぶっ壊れてたああああああっ!?
黒衣も絶句しちゃったじゃん。
震えていると、リャニスがくるりと僕を見た。
こんな時だというのに、はじけるような笑顔だった。
「では兄上、参りましょうか!」
「どこに!?」
帰りましょうか、じゃなくて?




