27 二年生になれるかな
落ちる。
そう思ったとき、強く手を引かれた。
階段落ちを決めそうになった僕をかばう形で、踊り場に背中をつけて倒れ込んだのは、王子だった。
いったい何が起こったのか。驚く僕よりも先に、周囲が騒ぎ立てた。キャーとかワ~とか叫びつつ、一年生は壁際に張り付いたり階段の途中でへたり込んだりしている。
上のほうからは「殿下!」と叫ぶ声が聞こえる。
王子、どっから降ってきたんだ。いや、それよりも。
「お、お怪我はありませんか」
僕はのたのた彼の上から降りた。
「そんなヘマするもんか。君のほうは?」
すっくと立ち上がったところを見れば平気そうだ。僕も彼の手を借りて立ち上がる。
「特に痛いところはないみたいです」
だが、視線は痛い。アイリーザが真っ青な顔でこちらを見ていた。
王子もそれに気づき、警戒を露わにして、僕を抱き寄せる。
二年生の先輩たちが、階段を駆け下りてきたのはそんなタイミングで、下のほうからも生徒や先生が集まりつつあった。僕らのいる空間を取り囲む形だ。
なんだろう、この、舞台が整いました感。
背筋がぞわっとする。
王子は僕の肩をぐいと抱き、アイリーザに指を突き付けた。
やばい、これは断罪のポーズ。
「アイ――」
「足を滑らせちゃった! 恥ずかしいな!」
王子がアイリーザの名を呼ばわる前に、僕は声を張りた。
頭を拳でコツンと叩いて、昔の少女漫画のヒロインさながらドジっ子アピールをする。
「てへっ」
ウィンクはできないので、星を飛ばせたかどうかはわからないが、切々と願う。
空気よ、変われ!
果たして僕の思惑通り、一瞬あたりにびみょーな沈黙が落ちた。
想定通りではあるが、かなり恥ずかしいな。
「そ、それよりキアノ! 本当にお怪我はありませんか、僕のドジのせいでキアノになにかあったら、どう責任を取ればいいのか」
「結婚してくれ」
「それ以外でお願いします」
こんな大勢の前で、なにを真顔で言ってくれちゃってるんだよ。
「まあ、そうだな」
お、案外あっさりと撤回してくれそうな雰囲気。
油断したところで不意に瞳をとろかせて、彼は僕の頬に手を添えた。
「こんなことで恩を売るより、君自身の気持ちで選んで欲しいから」
あたりにキラキラをまき散らしながら、彼はさらに続ける。
「結婚してほしいのは、本当だぞ」
ハイ容量オーバーです!
空気、変わったけどさあ!
僕は真っ赤になってぷるぷる震えたけど、僕とは違う理由で、顔を赤く染め震えるアイリーザをどうすりゃいいんだ。
「勘違いだとわかっていただけたなら、もうこれで失礼してよろしいでしょうか」
彼女は顔を伏せたまま王子の許しを待つ。
「本当に足を滑らせただけなんだな」
「そう言っています!」
再度確認されたので、僕は大きく首を縦に振った。信じて!
「なら、もう行っていい」
「はい、殿下。御前を失礼いたします」
静かに頭を下げるアイリーザからそっと目をそらして、落差がヒドイなって思う。
王子の冷たい視線の先にいたのは、本来なら僕だったはずだ。
いつか同じ目にあったとして、僕は彼女のように矜持を保てるだろうか。
「兄上、本当になんともないのですね」
僕が階段から落ちかけたと知って、三度目の確認である。リャニスはその場にいなかったことを悔いているのだ。
一日の授業が終わっても、僕はまだ人間の姿で、リャニスと共に寮に戻っていた。
テーブルにはつまみやすい料理や果物が並べられている。とにかく食べられるうちに食べておけということだろう。
僕はブドウを一粒手に取って、落ち込むリャニスの口元に持っていく。あ、食べた。
さっきまで、「もう二度と、兄上のそばを離れません」とか言ってて大変だった。
日常生活に支障が出るから、そこは適宜でとたしなめたところ、凹んでしまったのだ。
いやあ、うちの弟可愛いね。
もう一個食べるかなと再びブドウを手に取ったとき、リャニスがポツリとつぶやいた。
「……それにしても、殿下もよく引き下がりましたね」
「そりゃ、僕のドジが原因だし」
「それでも、アイリーザ様が兄上にしてきたことを考えれば……」
「大事にしないでってお願いしてあるから。リャニスも、そう嫌わないで優しくしてあげて?」
「優しくすることが、本人のためになるとは限りません」
これにはちょっとドキッとしてしまった。
「確かにそうかもしれない。けど、今回のことは本当にアイリーザ様のせいじゃないんだ。僕が落ちそうになったとき、向こうもびっくりしてた」
大きな力に、悪役令嬢の役を押し付けられているように見えるんだ。
とはいえ、聖女も不在だし、悪役令嬢の退場は来年のはずだ。今できることは、のらりくらりと避け続けるくらいしかないのではないか。
「それに、人のことばかり考えてる場合じゃないと思うんだよね」
手に持ったままだったブドウをくちびるに当てて、僕は自問した。
「もうすぐテストだけど、僕、二年生になれるんだろうか」
「……兄上」
「ん?」
きょとんとしながら振り向くと、リャニスの顔つきがすっかり変わっていた。
あ、これ、ヤバいやつ。
そこから先は、勉強漬けの毎日だった。
リャニスはこうと決めたら一直線だし、なかなかのスパルタだ。
リャニスってば眼鏡が似合いそうだね、ついでに指示棒も持っておく? なんて、現実逃避をしちゃうくらいには。
学業の合間に卒業式の準備もある。
僕が参加するのは、一、二学年合同の合唱だ。
今日はその練習。僕はポメ化中だから見学だけど。
先輩たちへ贈るのは、寿ぎと感謝である。
スクールを卒業したあと、彼らは成人の儀のための試練をこなしながら、城や他家の貴族のもとで見習いとして働くことになる。
研究所や役所に勤める人もいるが、預言の塔にでも入らない限り、どこかでまた道が交わる。
伸びやかな歌声を聞きながら、僕はうずうずしていた。
歌いたいな。けど、ひとたび歌い出せば、ワンマンショーみたいになっちゃうからね。
自分では静粛にしているつもりだった。
けどいつのまにやら「きゅわわん」とごきげんな声が漏れちゃって、くすくす笑われていたりする。和やかなのが救いだ。
アイリーザは……、あれ? 睨んでこない。
それはそれでなんか心配になるけど、絡んでこないのに、つつきに行く余裕もない。
そうこうしているうちに試験期間が始まった。僕はかなり融通してもらったと思う。なんせ人の姿の時にまとめて試験を受けさせてもらえたから。おかげで座学はバッチリだ。
ギフトと剣術は、だいぶオマケしてもらった気がする。
ポメ化をこじらせる前までに、「できていたところまでを評価しましょうね」、って言ってくれたから。
こりゃ父上にお金を使わせたかな。スクールに寄付とかいっぱい積んだんじゃないかな。帰ったらしっかり謝罪しないと。
そしてテストが終われば、あっというまに卒業式だ。
慎重に調整して、無事人間の姿である。
スクールの卒業式は一日がかりだ。
この日くらいしか家族の参加できる行事がないということもあり、メインの卒業証書授与式のほかにも、ステージイベントがもりだくさんなのだ。この日を盛り上げるためなら先生だって舞台に立つ。
ちょっとした研究発表なんかもあって、文化祭の雰囲気も兼ね備えている。
ちなみにこの日、卒業生は制服ではなく盛装で参加する。卒業したからと言ってすぐ成人するわけじゃなくて、それにはまた別の通過儀礼があるわけだけど、大人への一歩を踏み出したみたいな気分になるよね。
恋人がいる人は冬の儀式の日に、ダンスのパートナーになってくれないかと申し込んだりもする。絶対この日じゃなきゃダメっていう決まりはないけど、なんせ盛装だからね。憧れる子も多いようだ。
リャニスと二人であちこち見て回ったあと、ステージ発表の会場に両親の姿を見つけて、挨拶に行く。
「父上、母上、いらしてたんですね」
すると両親はチラリと顔を見合わせた。そして母上が口を開く。
「リャニスが招待状を送ってくれましたよ」
おまえはなにをしていたのかしらねって感じの視線だ。
いや、だって、僕卒業生じゃないし。
「俺は発表があるので、父上と母上と兄上にご覧いただければと思ったのです」
「発表?」
なにそれ、聞いてない。
「リャニスはなにをするの?」
びっくりして振り返ると、リャニスははにかみつつ、はぐらかした。
「兄上を驚かせたくて、たくさん練習したので、見ていてくださいね」
たいそう可愛いらしい笑顔を浮かべたリャニスだが、出番を迎えてステージから出てきたときには武人のようにきりりとしていた。
黒い衣装は、騎士の制服にも似ているが、裾がふわりと広がるように仕立てられている。彼が動くたび、紫色の布地がチラリと見えて華やかだ。
彼は抜身の剣を携えていて、柄頭には紫の飾り房が揺れていた。
リャニスが進み出ると同時に、反対側の舞台袖から現れたのはイレオスだ。
リャニスと対になるように、彼は白をまとっている。差し色は青だ。
うわわ、これ、剣舞じゃない?
もうね、すでにカッコいい。
もともと彼らは見目がいい。そのうえ着飾っちゃったもんだから、お嬢様がたも目の色を変えちゃったよね。ギラッギラだよ。
会場内のざわめきは、彼らが一礼したことでしんと静まり返った。
彼らは滑るように一歩踏み出した。そのまま互いに行き違い、袖と剣の軌道で、二人でひとつの大きな円を描く。
わあ、と歓声があがった。
リャニスがくるりと回転しながらイレオスの首元めがけて剣をふるえば、イレオスは体を沈ませそれを避ける。
そうかと思えば片足を軸に半回転しながら、リャニスの足を狙う。リャニスは飛び跳ねてそれを回避する。
すこしでもタイミングがズレれば、大怪我してしまいそうだ。それでもかなり練習を積んだのだろう。演じている二人は楽しそうだった。
ハラハラはするけど、怖いよりもきれいが先に来て、見入ってしまう。
「ほんとすごいなあ……」
だけど、リャニスときたら、いつのまにこんな練習をしていたんだ。
日々僕のフォローをしてたんだから、絶対に僕より忙しかったはずなのに。
そろそろ『可愛い弟』から、『カッコイイ弟』に認識を改めるときが来たのかもしれない。
それでも、舞台を終えて着替えもせずに家族のもとに戻ってきたリャニスは、僕の目に「褒めて」って言っているように見えた。
人前なので全力で褒めちぎるわけにもいかなくて、両親が褒め終わったところを見計らい、僕はリャニスの袖を引っぱってそっと微笑みかけた。
「すごいね、リャニス。カッコよかった」
そしたら顔を真っ赤にして喜んだので、やっぱりまだまだ可愛い弟だなと、僕は内心ホッとしたのである。