7 険悪だ
いやあ、ここで降参のポーズを取るのはなあ。
「クゥン?」
首を傾げてわからないふりをする。
王子は片方の眉を上げて、「ふうん」と呟いた後。僕の頭をなではじめた。
そして僕が油断したところで、強硬手段に出た。僕をひょいと持ち上げて、コロンとひっくり返してお腹をわしゃわしゃなで始めたのだ。
ノエムートとして転生してからは、くすぐられたことなんて一度もない。どこか懐かしさすら感じるその感覚に引きずられ、僕は思い切り笑ってしまった。
「わひゃ! わひゃひゃ! やめっ、やめて!」
体をねじって大笑いしたら、お腹のあたりを撫でまわしていた手が不意に止まる。
王子が驚いた様子で固まっているのを見て、僕もハッと我に返る。
しかも悪いことに、ちょうどそこにリャニスが入室してきた。
僕はソファーの上で、思い切り首をのけぞらせ喉をさらして、足を半端に投げ出した格好だった。
「あに……うえ?」
リャニスは手にしていた上着をボトっと床に落とした。
その顔はひどく青ざめて、視線は僕の腹の上に注がれている。そこには王子の手が乗っかったままだ。
次の瞬間、ヒュウッと室内に冷風が怒ったかと思うと氷の矢がいくつも出現し、一斉に王子に向けて放たれた。
「わあああ!」
慌てたのは僕だけで、王子は顔色ひとつ変えず、ただ手のひらを軽く掲げ、翻す。たったそれだけの動作で、王子に向かっていた氷の矢はすべて消え去り、代わりに窓の外の地面にドスドス突き刺さった。
「いきなり何をする」
「殿下こそ、嫁入り前の兄にいったい何をなさっておいでなのですか」
王子とリャニスが睨み合っている隙に、侍女たちが壁沿いにササっと移動してきて僕を持ち上げた。
侍女たちに身なりを整えられながら、僕はまだ呆然としていた。
嫁入り前の兄って……。
「兄上も、簡単に体を許してはなりません」
その剣幕に「ヒョエッ」と息をのみ、僕は思わず保身に走った。
「許したわけじゃないよ」
すると、リャニスの周りでまた一度気温が下がった感じがする。怒りの矛先は王子だ。それはそれでマズい!
「では、むりやり兄上にあのような破廉恥な行為を?」
「破廉恥? 君もしていることだろう」
「いいえ、してませんから!」
これ以上おかしな話になる前に、僕は慌てて口を挟む。
リャニスがまたギフトを使ったりしたら大変だ。僕は彼らのあいだに割り込んだ。リャニスを背後にかばう形だ。
「いいですか、殿下。犬というものは信頼した相手に、……あるいは負けを認めた相手に腹を見せる習性があるのです。僕は弟を心から信頼しておりますので腹を見せてもいいと言ったまでで、撫でてもらったことはありません!」
あんなみっともないとこリャニスには見せられないよ。リャニスはこの通り潔癖だし、なによりも幻滅されたくない。もう僕の兄としての威厳はゼロだよ!
僕の言い分に対して、今度は王子が青ざめた。
「ノエム……。その言い方では、私は信頼できないと聞こえるが……?」
「そりゃあ、ご自分の胸に手を当てて考えてみてくださいよ」
王子、手が早いって自覚がないのか。
王子が恋人を前にしてどんなふうに笑うのか、どんなふうに触れるのか、そんなん聖女と共有したくないんですが!?
恥ずかしさも手伝って、僕はぷいっとそっぽを向いた。
王子なら、いつものように悪びれない返事をするだろうと思ったのに、なにやら静かだ。ちらりと視線を投げかければ、彼はかすかにくちびるを震わせていた。えっ、と思ったときにはもう口を引き結んでいる。そのまま彼は、足早に出て行った。
言い過ぎたかな?
「……よろしいのですか、兄上」
リャニスは怒りをどっかにやってしまったらしく、珍しくおどおどした様子で僕と王子の出ていった扉を見比べた。
「いいんだよ」
そう答えるしかなかった。
次の日、王子はエスコートに来なかった。というか、授業にも出ていないらしい。
王子が不在では、いつも昼食をとっている二階を勝手に使うわけにもいかない。アイリーザが女主人のようにふるまって、今日王子に招かれていたメンバーのための席を用意していた。
「まあ! ノエムート様の席は用意しておりませんのよ。そうお望みなのだとうかがったのですが、わたくしの勘違いでしょうか」
「ああ、いいえ……」
視線をやったせいか、大げさに騒ぎ立てられてしまった。お気遣いありがとうとか言うべき?
その前にさっとリャニスが進み出た。
「おかまいなく。兄上の席はこちらに用意しますので」
リャニスは僕の肩に手を置く。どことなくうれしそうに見えるのは気のせいだろうか。ポカンと見あげると、リャニスははにかんだ。
「殿下のことは心配でしょうが、俺としては、久々に兄上と食事ができて嬉しいです」
ぶわっ! かわいい! 弟がかわいいっ!
リャニスもそりゃあ紋章家の一員だから、何度か二階に招かれてはいる。ただ、席の配置的に一緒に食べてる感はなかったんだよね。
うん。そうだよ。
王子のことは気がかりだけど、これは僕がずっと望んでいたことでもあるのだ。つまり、皆で気取らずごはんを食べるってこと!
「ありがとう、リャニス」
僕も嬉しいよ。と、リャニスにだけ聞こえるようにささやいて笑みを交わす。
リャニスは一年生が固まっているあたりに案内した。
女の子たちがなにか聞きたそうな雰囲気を醸し出していたが、リャニスがニコリとしたのを見てスッとそれをひっこめる。男子にはすでに言い含めてるっぽいね。
そこでふと気づいた。レアサーラもクリスティラもアイリーザのもとへ行かなかったらしい。
ニセ悪役令嬢についてもうまみはないと知っているレアサーラはともかく、クリスティラの真意はわからない。相変わらずぽやんとした顔で、単に動くのが面倒だったというようにも見える。この二人は紋章家なのだから、アイリーザとしては取り込みたかったことだろう。
多少の気まずさはあるものの、一日目、二日目までは僕もそれなりに食事を楽しむ余裕があった。
けれどさすがに三日たっても王子が欠席中と知り、食欲旺盛とはいかなかった。
そんな空気をなんとかしようとしたのだろう。サンサールが冗談かなにか言ったようだ。遠慮がちな笑いが起こり、たいして話を聞いていたわけでもないのに、僕もつられて「くすっ」と笑ってしまった。
それをわざわざ、アイリーザの耳に入れた人がいるらしい。
彼女は席を立ち、僕のところまでやってきた。
「殿下が本当にお可哀そう。すっかりお心を痛めていらっしゃるというのに、ノエムート様ときたらずいぶんと楽しそうでいらっしゃるのね」
うーむ。ニセ悪役令嬢が悪役令嬢の役割を果たしに来ちゃった。とりあえず人の多いところは避けないと。僕はナイフとフォークを置いて立ち上がった。
「アイリーザ様、お話でしたら外に行きましょう」
すると静かにリャニスも席を立つ。
「お供します、兄上」
「まだ途中じゃ……」
いや、キレイに食べ終わってるな。僕のペースに合わせてゆっくり食べていたはずなのに、いつの間に。
「いいえ、それには及びません。こんなところで長々と話し合う気はありませんもの。放課後、お茶会に招待するわ。いらしてくださいますよね。ええ、もちろん」
と、そこでアイリーザはリャニスに目を向けた。
「ご心配ならいらしてくださって構いませんわよ、リャニスラン様」
イヤな感じの言い方だ。来なくていいよと言うまえに、リャニスのほうが応じてしまった。
「ええ、そうさせていただきます」
うっ、これは……。険悪だあ。
ケンカしちゃダメだよって、きちんと言い聞かせておかないと。