6 どこまで許す
試験が終わったばかりの教室に、長く残っていたいものもいないらしく、ガランとしていた。都合がいいので、僕は王子とふたり窓辺に立ち、そのまま話をするつもりだった。
「はじめに言っておきたいのですが、僕は怒っているわけではありません。ですから、謝罪は結構です。お、お互い様ということで」
王子は許しを請いたいと言っていた。考えたくはないが、ドスケベ呼ばわりしてしまったあの件についてだろう。
僕としてはむしろ、蒸し返して欲しくない。思い出すだけでちょっとアレなんで。
「まあ、謝ったところで、もうしないと断言することはできないが」
「いや、そこはしないと言ってくださいよ」
「無理だな」
えー。そこ、さわやかに笑うところかな?
困惑して引き気味になる僕に対し、彼はすっと目を細めた。
「だいたい、ポメ化したらどうするつもりだ」
「それは、リャニスに」
「リャニスランには許すというのか。どこまでのことを許すというんだ」
「どこまで? お腹?」
「お……?」
すでに降参しちゃってるしな。犬ってお腹なでられるとなんか嬉しそうだよね。
でもリャニスは僕があのポーズを取ると過剰に心配するからな。なでられることはたぶんない。そこはかとなく残念だ。
「ん? 殿下?」
気がつけば王子が、僕のへそのあたりを見つめたまま固まっていた。
「ポメ化の話ですよね? いえ、それはよいのです。今は僕のことより、良い機会ですからお話しましょう。適切な距離についての話です」
「適切な距離?」
「ポメ化の件もそうですが、僕はもう、殿下の婚約者ではないのですから、いつまでも殿下の手を煩わせるわけにはまいりません。僕の立場を守るためだとおっしゃいましたね。もう充分です。周りにも伝わったと思います」
僕は熱意を込めて王子を説得した。
朝夕のエスコートも必要ないし、昼食会も席を離して欲しい。ふたりで校内を歩くのもやめましょう。ポメ化したときもなんとかしますから。話すうち、王子の顔からすとんと表情が抜け落ちた。やっぱ怒るよね。
僕はソワソワと目をそらしながらも、なんとか用意したセリフを言い切った。
「ですから、周囲に誤解を与えるような行為は慎むべきと思うのです」
王子は黙り込んでいる。沈黙に耐え切れずチラッと様子をうかがえば、彼はわずかに首を傾げ、顎に手を当て、僕を冷ややかに見つめていた。
「誰だ?」
「え?」
「君にそんなことを言わせるのは。……リャニスランか? 違うな。そのくらいならアレは自分で言ってくるだろう。そういう点では非常に信頼しているんだ」
ん? うちの弟が褒められてます?
一瞬目をキラッとさせてしまった僕だが、続く言葉にサッと青ざめた。
「ならばアイリーザか?」
「んえ?」
「ドードゴラン家はどうあっても私と縁続きになりたいらしい。こんな悪辣な手を使ってまで」
いやたしかに! ことあるごとにアイリーザに似たようなことを言われてはいるけれどっ。あれ、実はちょっと影響されてんのかな。
ヤバい、このままじゃ僕の手でアイリーザを悪役令嬢ルート送りにしてしまう。
「ちがっ。違います!」
慌てるあまり、王子に縋り付くみたいになってしまった。
ハッと気づいてすぐに手を離したが、そのときにはもう王子の腕が僕の肩にまわされていて、うしろへ下がれなくなっている。
「ノエム、心配しなくていい。君を巻き込んだこと、彼らにはキッチリ償ってもらう」
わーっ! と、僕は脳内で悲鳴をあげた。
「確かに、アイリーザ様から苦言をいただいたことはありますよ。ですがっ、それは僕がしっかりと対応しましたのでっ!」
「脅されているのか。なぜそこまで彼女をかばう」
なにその曲解っ!!
「アイリーザ様に言われたからではありません!」
頭をぶんぶん振ったので、髪でバシバシ王子を叩いてしまった。けれどそれを気にする余裕もない。
「殿下には神々の定めた運命の相手がいるのです。それは僕などではなく、アイリーザ様でもありません!」
「神々が定めた?」
「はい! 清廉潔白で可憐な女性です。これ以上ないほど殿下に相応しい方です! ですから僕のことはどうか――」
必死で言い募りつつも、体のほうは逃げだす寸前だった。そのとき頭皮にピリッと痛みが走って、「あ!」と僕は青ざめた。さっき振り乱したせいだろう、王子の上着のボタンに髪の毛が絡みついていた。
「申し訳ありません。すぐに取りますから」
とはいえ僕は不器用なところがあり、こんなときますます絡めてしまうのだ。どうしよう、どうしようと焦るほど上手くいかず、手が震えた。
「うう、リャニスぅう」
情けない声を出した僕を咎めるように、王子が「ノエム」と低い声で僕を呼んだ。困り果てて、目をキョロキョロさせてしまった。
「ハサミかなにか……」
「お貸ししましょうか」
「はい! ありがとうございま――」
礼を言いかけて、僕はようやく、口を挟んできた相手がアイリーザであると気がついた。
いつからそこに!
「必要ない」
そう言い捨てたのは王子だ。ギョッとして固まる僕を隠すように立ち位置を変え、そっと僕に手をおろさせる。
「私がやる。それでは痛いだろう。もう一歩こちらへ」
「ですがっ」
「ノエム。いいからじっとして」
それが、思いがけず優しく諭すような声色だったので、僕は口を閉ざした。王子はやけに丁寧な手つきで絡んだ髪を解いていく。息が詰まるような時間が過ぎた。彼の指が僕の髪を解放するまで、実際まともに息もできなかった。
王子の肩越しにおそるおそる教室の入り口を見れば、アイリーザはまだそこにいて、静かに怒りをにじませていた。
廊下にはほかにも誰かいるようだ。どうやら、騒ぎすぎたようだ。
「殿下」
「キアノと呼んでくれなくなったのも、誰かが君に妙なことを吹き込んだせいなのか」
「いえ、それは……」
言い淀んでしまったのは、王子が僕の手を取り胸の高さまで掲げたからだ。
ホント、するっと取るよね。
どうしよう、ぜったい通じてない! 聖女だってズバッと言ったほうが良かった!?
「どちらにしても悲しいことだ。誰が阻もうと、運命とやらに逆らおうと、私の意思は変わらない。ノエム、君を――」
言わないで!
「キュウウン、クウクウクゥウウウン!」
まってくださいと、そう言うつもりだった。なんでもいいから王子が変なことを言うまえにとめないと!
王子がとっさに支えたらしく、僕は王子の両手の上で懸命に犬語を話していた。
「キュイクィクゥゥン?」
「ノエム」
王子が呼びかけにキャンと返事をしてから、ようやくポメ化していると自覚する。
「ノエム。わかったから落ち着いて。ひとまず、寮まで送っていく」
僕が騒いだせいで、廊下のやじ馬たちまでざわざわしている。
王子は僕を片腕で抱え直して、ふわりとハンカチで包んだ。なんか、花のようないい香りがする。スンスン嗅いでいたら落ち着いてきた。
「しばらくはそれで我慢してくれ。その姿は可愛らしすぎるから」
僕はハンカチの隙間から、こっそりと観察した。
アイリーザは悲鳴を堪えるように口元を抑えている。廊下に出ると、野次馬のなかにマスケリーを見かけた。サンサールもいる。うわあ、これでリャニスに筒抜けだ。
校舎の外に出ると、ライラが待っていた。
「坊ちゃま!」
「さわぐな。このまま部屋まで連れていく」
ライラは不服そうだったが、さすがに王子には逆らえない。ダメだよ、ライラ。絞めちゃダメ。……ハラハラするなあ。
侍女たちは王子を応接間に通した。王子はソファーに僕を乗せると頭をひとなでする。
「ではノエム。腹を出せ」
僕は伏せの姿勢で王子を見あげた。ハンカチに包まれていたため思いのほか熱くて、舌をペロンと出しちゃってるけどはしたないとか言わないでほしい。
ところで今なんて?
「どうした? リャニスには許すのだろう」
聞き間違いじゃなかった!