5 恥ずかしくて死にそう
「ご、ご、ご、ごめんなさい! でもキアノが悪いんですっ。キアノのドスケベ! そんな十三歳かわいくないよぉ。うわああああああんっ!」
言い捨てて僕は逃げた。逃げたところで、王子の指先につけた噛みあととか、彼の驚いた顔は目に焼き付いてしまっている。
気を抜けばまた叫びだしてしまいそうだ。僕は袖で口を押さえながらよたよた走った。
王子は呆然と僕を見送るだけで、追いかけてはこなかった。ホッとしたのもつかの間で、池にかかる橋を越えいくらも進まないうちに、アイリーザとすれ違った。
「ノエムート様、お待ちください」
む、無理ぃ。
いま彼女と口論している余裕なんて僕にはない。
「ノエムート様、なんなんですの、今のはしたない悲鳴は!」
僕はぐっと口を引き結ぶ。ハシタナイって言われると妙にくるんだよな。それでも今は相手をしたくない。追ってこられると面倒なので、道を曲がったと見せかけて林に飛び込んだ。
「わっ!」
小さく驚きの声が聞こえて、僕も思わず「え?」と相手を見た。
木陰からコソコソこちらの様子を窺っていたのは、サンサールだ。
「なにして……」
問い詰めるヒマはなかった。王子が橋の向こうから走ってくるのがチラリと見える。さいわいまだ、こちらには気づいていない。
「殿下! ここにいらしたのですね。学内とはいえお一人で歩かれるのは危険です。皆がさがしておりますよ」
「アイリーザ、ノエムを見なかったか」
ふたりの話し声が近づいてくるので、僕はうろたえた。どこに逃げたら。
そのとき、サンサールがぐいと僕の手をひっぱった。
「こっち」
彼は僕を草むらに押し込めるようにして、隣にしゃがみこんだ。そうして黙れというジェスチャーをしたので。僕は両手で口を押さえた。ふたりでピタリと身を寄せ合うようにして、王子たちが通り過ぎるのを待つ。
「ノエムート様ですか、ええ、ずいぶんお急ぎのご様子でしたわ。挨拶もしてくださらないのですよ」
「ああ、私も急いでいる。とにかくノエムを追いかけなくては」
「お待ちください殿下。この機会にどうしてもお伺いしたいことがあるのです」
アイリーザは早足で進む王子の袖をつかんだ。話し合いならもう少し先でやってくんないかな。いまにも見つかりそうでハラハラする。
王子は道の向こうに気を取られている様子だ。
「婚約の件なら、君の意に沿えそうもない」
婚約という言葉に過剰に反応したのはむしろサンサールのほうで、彼はぎょっとしたように僕を見た。
僕のほうは予想済みだ。アイリーザが悪役令嬢として振る舞う以上、彼女が王子に婚約を迫っていてもちっともおかしくない。
「なぜ、トルシカ家なのですか! ドードゴラン家ならば、殿下のお力になれることがもっとあるはずです! わたくしならば!」
あ。このセリフ知ってる。彼女の望みは叶わないってことも。王子はこのあと、聖女に対する愛を語るはずだ。
「トルシカ家だからじゃない! ノエムだからだ。ノエムが何者であろうと構わないんだ。家名などなくとも、ただのノエムでも、彼が男でも。私にはもう、彼以外愛することなど考えられない」
まあ今の状況じゃそうなっちゃうよね!
僕はわなわな震えた。口を押さえててよかった。いや、どうせなら顔ごと覆っておくんだった。確実に真っ赤になってる。頭に血が上りすぎて倒れそうだもん。
さっきの王子のアレといい、ほんとなんなの!?
このシーン、小説じゃノエムートもじみに木陰で聞いていて、叶わぬ恋に胸を痛めるとこだったじゃないか。
神様! 配役ミスってるよ!
心の中で精一杯ののしって、僕はなんとか叫び出すのを堪えていた。
「ふはああっ」
ようやく王子たちの気配が遠ざかり、僕はその場にがっくりとうなだれた。
汚れたって構うもんか。
もーやだ。
「あのさ、俺、もしかして余計なことしたかな」
「え?」
「いや、なんか困ってたみたいだからとっさに隠しちゃったけど、アレ、ちゃんと正面で聞いたほうが良かったんじゃ」
「とんでもない! 助かったよ、サンサール。君は命の恩人だよ」
「死にそうなの? 恥ずかしくて?」
こんなときにからかわれたらムッとしそうなものなのに、サンサールの笑い声がカラッとしていたせいか、むしろ救われた気分になった。彼の口調が気の置けない友に対するような砕けたものだからかな。
貴族の立場からひととき逃れて、ただの子供になって、僕は弱音を吐いた。
「うん。そう。恥ずかしくて死にそう」
「ノエムート様なら、あのくらい平然と受け止めちゃうのかと思ってたよ」
「そう見えるんならなによりだよ。いつも引きつってるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてるんだ」
「ふうん。意外だな」
その言葉もあっさりしている。だけど突き放されたわけでもない。コイツ、いい奴だな。僕はしみじみ思った。
とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。僕は立ち上がり適当に埃を払った。
「なんとか王子に見つからずに帰りたいんだけど。しばらく待つしかないかな」
「ここ突っ切ればまず出会わないよ。冒険する気があるなら、だけど」
サンサールの提案は、林を突っ切るというものだった。道などなくて茂みになっていて、ふだんの僕なら絶対立ち入れないところだ。なんて魅力的な話だろう。
「よし行こう」
僕は迷うことなく頷いた。
「そういえば、ノエムート様って虫とかヘビとか平気だった?」
「平気。むしろ見つけたら教えて」
「あのお嬢さまにぶつけてやるの?」
「そんな可哀そうなことしないよ」
可哀そうだし、もったいない。信じがたいことだが、僕はテントウムシすら触らせてもらえないのだ。アレは無害そうに見えてごく微量のアルカロイドを隠し持っている。普通の人はよく洗えばなんてことない弱い毒だが、なにせ僕は普通以下だ。何らかの反応があるかもしれない。
そうだ。せっかく草むらを進んでいるんだし、その辺にいないかな。キョロキョロしていると、前を歩くサンサールが不意に立ち止まった。
「なにかいた?」
「いや、うん。そりゃ、なんかはいるけど」
サンサールはぶはっとふきだした。きょとんとする僕を見て、彼の笑いの発作はますますひどくなった。
「やっぱそうだよな! いや、俺さ、はじめてノエムート様に声をかけてもらったときに思ったんだ。コイツ話せるヤツだぞって。でも、周りがギャーギャーうるさくて、結局まともに話もできなくて。あの感覚はカンチガイだったのかなって」
「カンチガイなんかじゃないよ。僕だってご令嬢扱いされてなければ、今ごろその辺跳ねまわってる」
「そっかー。大変だな。生粋のお貴族様も結構キュークツなんだなあ」
まだ少し笑いの余韻を引きずったまま、サンサールは再び歩き出す。
うーん。生粋ではないな。僕は前世もちだから。
「そうだ。俺、ノエムート様にお願いしたいことがあるんだよね。ダメなら諦めるけど」
「うん。言ってみて」
「また街の装置にギフトを込めに行くんだろ? そのとき、一緒に連れてって欲しくて」
目の前がぱあっと明るくなった気分だった。
「それ、すごくうれしいよ! こっちからお願いしたいくらい! いつまでも王子たちにつきあってもらうわけにもいかないし、誰に頼んだものか悩んでたんだよね」
レアサーラには嫌そうな顔されるし。それにサンサールなら変な装置も一緒に楽しんでくれそう。
「ノエムート様が来いって言えば、たいていの奴は従うんじゃないの」
サンサールは僕の勢いのけぞるようにして、疑問を挟んだ。僕は眉を寄せ気持ちのままにうつむいた。
「だから嫌なんだよ。僕が誘えば命令になっちゃうから。勉強会だって。迷惑がってる人いなかった? 自分で呼びかけておいて、中座しちゃったし。それに、マスケリーは大丈夫だったかなあ」
「あんな奴、ほっときゃいいのに」
今度はサンサールが顔をしかめる番だった。そのわかりやすい態度に僕は苦笑した。
「マスケリーのこと、あんまり嫌わないでやってよ。言い方はキツイけど、間違ったことをは言ってないんだ。貴族の常識を考えれば、僕のほうが悪いんだから。今だって、本当はサンサールに注意しなきゃいけない立場なんだよ。それを僕がさぼるから、マスケリーが代わりに怒ってくれるんだ。それで周りに嫌われたんじゃ、彼に申し訳ない」
サンサールはまだ不服そうだった。だったら、とっておきのいい話を聞かせてあげよう。
「それにね、マスケリーは昔、僕にヘビをくれたんだよ」
「それ、普通に嫌がらせじゃないの」
「そうかな。すごくキレイな白蛇だったよ。本当は嬉しかった。だけど僕は、気持ちを言葉にできなかった。表情にさえたぶん、出さなかった。僕はその頃、必死だったから。王子の婚約者として相応しいふるまいを求められ、マスケリーの気持ちを無視した。そのことを、後悔している」
するとサンサールは、盛大にため息をついた。
「リャニスの言った通りだな」
「なにが?」
僕は目をパチパチさせた。僕の反応が鈍いせいか、サンサールはますます呆れたようだった。
「なんだよ。リャニスはなんて? いや、その前に言っとかなきゃ。リャニスは盛大に勘違いしてるんだよ。僕の中身なんて、こんなんなのに! なんかこう、美化されているというか!」
「あー、うん」
返事が適当じゃない!?
「ねえ、リャニスはなんて言ったの」
サンサールは苦笑いをして口を閉ざしてしまった。友達を売る気はないみたいだ。そういう態度に好感はもてるけど、僕が弁明する機会はお預けになりそうだ。
「ほら、もうすぐまともな道に出るよ」
サンサールの言う通り、木々の間から散策路が見えた。
「あとは道なりに進めば寮のそばに出るから」
「詳しいね。もしかして探検しまくった?」
「当然」
サンサールは最後の茂みをまたいで道に出た。そして振り向くなり、ぎょっと僕を指さした。
「ノエムート様、その手どうしたの!?」
「手? ああ、草かぶれかな」
指摘されてはじめて気づいたが、なにやら両手が真っ赤になってる。気づいたら猛烈に痒くなってきた。
「ヤバい、リャニスに殺される!」
「草かぶれくらいで物騒な」
冗談かと思ったのだが、必死だった。キョロキョロと辺りを見まわしたかと思うと、僕の両手をひょいとつかんだ。
「サンサール?」
彼がギフトを使っていると気づいて、僕は口を閉ざした。両手が柔らかな光に包まれてじんわりと温かさを感じる。これ、癒しのギフトだ。
「よし、証拠隠滅!」
光が収まるころには、僕の手の赤みもすっかり引いていた。
「サンサール、君……」
驚きすぎて言葉を続けられずにいるうちに、サンサールがなにかに気がついた。
「リャニスランだ。ギリギリだったな」
ハッと顔をあげると、道の向こうからリャニスが走ってくるところだった。こうなるともはや秒だ。ゴチャゴチャ考える暇はなく、リャニスが目の前にやってきた。
「兄上! お一人でどうしました」
「いや、サンサールと一緒だよ」
僕はギョッとサンサールを示した。使用人を無視する勢いで友達を無視しちゃったのかと慌てたが、リャニスはキッパリと首を振る。
「だからです! 殿下が、ほかの男に兄上を託すなどあり得ません! サンサールと合流するまではお一人だったはずです。なぜ、そんな危険なことに」
「一瞬ね! 王子と別れて、ほんとすぐサンサールと合流したし。っていうか、なんでサンサールはあんな所にいたの? 勉強会の真っ最中のはずだよね」
「ああ、それは簡単。リャニスが王子に命令されて動けなかったから、代わりに俺が様子を見に来たんだ――。見に来たのです」
あ、言葉づかいが元に戻ってしまった。残念だ。
「つまり、兄上、殿下のもとからお逃げになったということですか」
「ふぇ!?」
話をそらしたぞと安心してたのに、リャニスは鋭く核心をついてきた。
「なにか、逃げ出さねばならぬようなことが、起こったのですね」
名探偵かよ!
パッと顔をそむけてしまったのはマズかった。これでは白状したも同じだ。
「あ、あのね、リャニス」
懸命に弁明しようとしていた僕は、ハッとして口をつぐんだ。
憤慨しているかに見えたリャニスだが、その瞳からは僕を案じる気配しか感じ取れなかったのだ。
「お怪我はありませんか、兄上」
「あ、うん。それは平気」
「では兄上、正直におっしゃってください。――殿下は兄上に、なにをなさったのですか?」
んんんんっ!?
これは……、やっぱり、怒ってる。氷点下だ。
「落ち着いてリャニス。ほら、サンサールもいることだし」
「人前で言えないようなことを、殿下がなさったと」
「ちがっ! 違うよ。殿下の戯れに、僕が過剰に反応しただけで」
あ、やば。思い出しちゃった。王子の指が唇をなぞった、あの感触を。
慌てて口元を押さえ、赤面したせいでリャニスは絶対誤解した。彼はさっと青ざめ、低い声で宣言した。
「抗議いたしましょう。正式に」
うわああ、どうしよう、大ごとになっちゃう!