幕間 神のシナリオ
王子視点です。
「キアノ。あなたの婚約が決まりました。トルシカ家の次男。ノエムート・ル・トルシカがあなたの妻になります。わかりましたね」
「はい、母上」
キアノは笑顔で母に了解を告げたが、内心では落胆していた。
やはり、婚約者は男だったか。
王子として生まれたものの、キアノの価値は低い。理解してはいた。ただ、現実が追い付いただけだ。
はじめて顔をあわせときから、ノエムートは笑わない子供だった。話しかけてもろくな返事が返ってこない。「はい」とか「いいえ」で終わってしまう。
ずっと、拒絶されているのだと思っていた。
「申し訳ございません、殿下。息子は緊張しているのです」
父親がとりなしても、ノエムは私と目をあわせようとしなかった。
彼にとってもこれは不本意な婚約なのだ。周りがどれほど持ち上げようと、王子の花嫁などという得体のしれない役割を押しつけられた、憐れな少年だ。
だがここでキアノが断ったとしても、彼の将来はそれほど変わらないだろう。ほかの王子にあてがわれるだけだ。
キアノはせめて、彼に優しくしようと決めた。
彼の佇まいには品があった。それに年頃の少女と比べても遜色ない美しい顔をしている。
だが一緒に居て楽しくない。扱いにくい。匙を投げかけたとき、ノエムがポメ化した。
そこから状況は一変した。
緊張していたというのは本当だったようで、ノエムはすっかり気を許してくれるようになった。
そうなると彼は子犬のときの印象そのままだった。つい手を伸ばして、撫でてしまいたくなるような。
ようやく婚約のことを、前向きに考えられるようになったころのことだ。今度はポメ化を理由にノエムを婚約者から外そうという動きが出始めた。
冗談じゃない。キアノはノエムに衣装を贈り、公の場で彼をエスコートし、親密さを周りに見せつけた。
それでもなお、うるさいことをいう連中は絶えなかった。
ノエムが攫われたと聞いたときは、生きた心地がしなかった。無事に帰ってきたノエムを見て、かなり強引に連れ帰ってしまったくらいだ。
ノエムは怒らなかった。その寛容さが、すこし怖い。ノエムはときどき、うわべだけで笑うから。
夢を見るようになったのは、そのころからだ。
ノエムは今よりもすこし成長していて、スクールに通うような年頃に見えた。彼は夢の中で日に日にやつれていく。苦しそうに息をはき、ときおり乾いた咳をする。
なぜか彼は薄汚い部屋に一人でいて、誰もそばにいないようだった。
なにがあったのか問いただしても、キアノの声は届かない。
禍々しい夢に飛び起きて、キアノは顔を覆った。
ただの夢だと言ってしまうには、あまりにも鮮明で恐ろしかった。
思い出したのは、父の言葉だ。
隠しようもないほどくっきりと、頬に涙の紋章が浮かぶ道化の王。
琥珀色の髪に水色の瞳、重そうなまつ毛。涙の形の宝石をいくつもまとい、玉座にその身を沈めていた。
ノエムとの婚約が決まり、キアノは王から言葉を賜った。
「預言者どもが騒いでいた。神の定めたシナリオに、キアノジュイル、そなたの名が記されたようだ。なにが書いてあるのか私も知らぬ。ただ、これだけは言える。運命の神が演目を決めたなら、逆らうことは許されぬ」
「――陛下、それは」
王の指が口元に添えられる。黙れという合図だった。
「そなたは英雄にはなれぬ。魔女になることもできぬ。せいぜい道化を演じるがいい。我が国のために。そして神々のために」
もしかしたらノエムも、神のシナリオとやらに名を刻まれたのではないか。
そうだとすれば、あれは未来か。
不安を抱えたまま春になり、スクールへと旅立つ日が来てしまった。そしてその日以来、ピタリとノエムに会えなくなった。
休みの日を指折り数えてノエムのもとにかけつければ、発疹が出たとかで会わせてもらえない。手紙を送ってもそっけない返事しか返ってこない。
ひどいときなど、足跡ひとつ送ってよこされた。いったいなんの冗談なんだ。
ノエムに会えないまま、夢のなかで彼はだんだんと弱っていく。そして、ある日彼はついに力尽きた。
心配で気が狂いそうだった。スクールを抜け出してノエムに会いに行っても、出てくるのは弟のリャニスだ。
「兄はいま、熱を出しておりまして。ようやく眠ったところなのです」
「ならば、医者を連れてくる!」
「いえ、原因はもうわかっておりますので、お気持ちだけ」
はじめから医者を伴って訪ねれば、医者にまで会わないほうがいいと言われる始末。
「いったい、ノエムの身になにが起こっているんだ」
判然しないまま時だけが過ぎて、舞踏会の日となった。
久しぶりに、ノエムの姿を見たときは複雑だった。思ったよりも元気そうな姿にホッとして、その途端、怒りがこみ上げた。だったらどうして。
けれど間近に顔をのぞきこんで、なにも言えなくなった。
このまま抱き寄せて、淡い緑のふわふわした髪に指を突っ込み、すこし開いたその唇を唇でふさいでやりたいと、邪心がよぎって慌てて掻き消す。
眉を寄せたせいで、怒っていると勘違いさせてしまったようだ。
いや、怒っていたのは確かなのだが。
久々に会ったノエムはそんなものすべて吹き飛ばしてしまうくらい、愛らしかった。
ダンスを楽しいと思ったのは、はじめてだ。この時間だけは、うっとうしい従者も護衛もリャニスも入ってこられない。もっと早く誘えばよかった。
最初は緊張していた様子のノエムも、しだいに笑顔を見せてくれた。
楽しい時間はすぐに終わってしまう。
ダンスの輪の中から出ると、当然のようにリャニスが進み出てきた。
キアノの目の前でダンスに誘う気かと、内心ムッとしていると、そのままどこかへ連れて行こうとする。
「どこへ行く気だ」
引きとめるキアノに対し、リャニスは生意気にもずいぶんと低くなった声で告げた。
「殿下、兄は病み上がりなのです」
「リャニス、僕は大丈夫だから」
「いけません、兄上。すぐにでも、おやすみいただかなくては」
リャニスを押しとどめようとしたのだろう。半端に上げかけたノエムの手を、リャニスが握った。
思わず「あ!」と声がもれた。
リャニスはハッとしたように手を放したが、視線はまだノエムに注いだままだった。
常々、この兄弟は距離が近すぎるとキアノは危ぶんでいる。リャニスに対するその全幅の信頼はなんなんだ。どうしてそんなふうに、気を許した顔で笑うんだ。
腹立たしさはおさまらずとも、体調のことを口にされてはキアノも引かざるを得なかった。
ノエムのことも、よくわからない。懐いてくれたのかと思えば彼はするりと逃げる。ふとした瞬間、壁を感じる。気づけば必死になっているのはキアノのほうだ。
このまま婚約破棄が決まっても、ノエムはあっさり受け入れてしまうのではないか。
けれどそれではダメだ。ひとりになれば、きっとあの未来が訪れる。
キアノのそばにいたならば、あんなふうに一人で死なせたりしないのに。
キアノの目に、リャニスがノエムを攫う悪魔のように見えた。