1 どうして混ざった
◇ ◆ ◇
「信じてほしいんだ。この婚約破棄は決して私の意思じゃない。必ず君を元の立場にもどしてみせる。だから、まっていてくれないか。お願いだ、ノエム」
王子は僕の手を取った。熱のこもったまなざしに、僕のほうがたじろいだ。
彼は返事をまっている。
僕はそれに応えられない。僕は、だって、僕は――。
◇
あ。僕、悪役令息だ。
十歳の誕生日のことである。僕はふと思いだした。ノエムート・ル・トルシカとは小説の登場人物であると。
タイトルはたしか、『悪役令嬢と悪役令息、王子をめぐって血で血を洗う』だ。物語の途中で僕は王子との婚約を破棄され、あきらめきれずに悪役令嬢とその座を争う。だが、最終的に王子は聖女がもっていく。
男なのに男と婚約するのとか、悪役令嬢は言うほど出てこないなど、ツッコミどころは多かったのだが、そこに出てくる悪役令息が本当にかわいそうだったのだ。
いちずなんだよね。もうボーイズラブでいいじゃん。王子、コイツと結婚してやれよ!
前世の僕は何度も思った。
小説のなかのノエムと、自分がノエムであることがゴチャゴチャになって、悲しみのあまり僕は一晩中泣いた。
そして目を覚ますと、ポメラニアンになっていた。
「わう?」
なんだこれ? つぶやいたつもりだった。言葉さえまともに話せなくなっている。
僕はイスに飛びのり鏡台をのぞきこんだ。ダメだ。やっぱりどう見てもポメラニアンだ。
これはアレじゃないか? 前世で姉がアツく語っていた現象。極度の疲労や悲しみで、人間がポメラニアンになるとかいう。たしかポメ化なんとか……。
でも、あの小説にこんな設定はなかったはずだ。いや、どうして混ざった?
首をかしげていると、音もたてずに下働きの女が入室してきた。
春先とはいえ朝はまだ冷える。僕が起きるまえに暖炉に火を入れるつもりのようだった。彼女はハッとふりかえり、やけにすさんだ目でつぶやいた。
「なんだこの毛玉」
しゃがみかけていた姿勢も相まって、元ヤンのようであった。
彼女がゆらりと立ちあがる。僕はすっかり動転してしまい、気づけば部屋を飛びだしていた。
僕が部屋にいないことで屋敷は大さわぎになっていた。そうなると犬の姿ではますます出て行きづらい。
「ノエム様~!」
「坊ちゃま~っ!?」
僕は呼び声から逃げるように走っていた。
そのときだった。
「なんのさわぎ?」
従者があけた扉のすきまから、弟のリャニスが顔をだした。彼は父が遠縁からもらってきた養子だ。黒い巻き毛に、つり目ぎみの紫の瞳。子供ながらにきれいな顔だちだ。
カワイイとかキレイだとかいう賞賛の言葉は、それまですべて僕のものだった。彼の登場で僕のかわいいの地位が揺らいだわけである。
それだけならまだしも、彼は非常に優秀だった。たった半年とはいえ年下なのに、僕よりいつもちょっとばかり出来がいいのだ。
いろいろ事情があって、跡目を継ぐのが彼だということもあり、ふたりの仲は微妙に悪い。気まずいあまり後ずさりすると、眠そうに目をこすっていたリャニスがまばたきした。
「……兄上?」
これには僕のほうが驚いて、ぴたりと足を止めてしまった。いったいどうやって見抜いたんだろう。僕はリャニスをぼんやりと見あげた。
「兄上でしょう? なぜそのようなお姿に……」
リャニスはしゃがみこみ、両手を差しだした。
あまりに自然に招くので、僕はぽてぽて近づいた。
僕が犬になっていると屋敷中に知れ渡ると、それはそれで大さわぎになった。なんだかとても恐ろしいことが起きたような気がして、僕はリャニスの腹に顔を押しつけ小さくなった。そして大いに反省した。
できが良すぎる弟に嫉妬して、僕はいつもリャニスに八つ当たりしていた。リャニスは僕がどんな態度を取ろうとも、眉を下げて笑うだけだった。バカにされているのだと思っていた。
前世の記憶をとりもどした今ならわかる。彼は遠慮していたのだ。養子だから。
ただのかわいそうないい子だった!
ごめんね、リャニス。僕は心のなかで何度も謝った。これからはいいお兄ちゃんになるよ。リャニスが気持ちよくこの家ですごせるように、僕が守ってあげるんだ。
たとえ成長した彼が、僕を断罪するキャラクターのひとりになるとしても。
昼すぎになると王子がやってきた。医者をともなって。
「ノエムートが急病と聞いてきたのに、これは?」
王子が困惑するのは当然だ。なんせ婚約者と会うはずだったのに、対面しているのが犬なのだから。
僕も当然ながらとまどっていた。ノエムが小説のなかで王子に向けていたひたむきな想い。それをまざまざと思い出し、どう振る舞えばいいのかわからなくなったのだ。
しかも僕はいま、ポメラニアンだし。
なんなら連れてこられた医者も困ってる。
「殿下、兄がおわかりにならないのですか? よく見てください!」
リャニスが王子を責めるような態度をとるので、ハラハラした。
いや、わからないと思うよ。なんとかなだめようとするが「くうぅん」としか言えなかった。それでも王子の興味を引くことはできたようだ。
「ノエムート?」
おそるおそるといった感じで王子が呼ぶので、ぽてぽて近寄る。小説の表現を借りるなら、王子の瞳はマスカットの色で、髪は三十年寝かせたブランデーの色らしい。どんなんだろうと思っていたが、透明感とツヤのあるきれいな琥珀色だった。
「かわいいな」
ポツリとつぶやく声を聞いて、王子の髪に気をとられていた僕は少しばかり動揺した。それは小説のなかでノエムが渇望し、ついぞ聞けなかった言葉だったからだ。
王子のために自慢の髪をせっせと手入れし、肌にも体形にも気をつかい、品よく賢そうに見えるようにと、涙ぐましい努力をしていたことを思いだす。
「王子、ご不快でないのなら息子をなでてやってくださいませんか」
え!? 父上、なに言ってるの。
あわてるあまり王子にしっぽを向けてしまった。不敬だと気づいてもどろうとするが勢いあまる。もう一周しようとして、そのうち自分のしっぽに気をとられた。ぐるぐる回るうちに、どこが正面かもわからなくなった。
「ははっ!」
あかるい笑い声が聞こえたと思ったら、ひょいと王子にもちあげられていた。
「なにをやっているんだ、それは。うわ、ふかふかだな。それに、ふふっ。ずいぶんとおとなしいじゃないか。本当にノエムートか?」
幼くとも、さすがは王子である。
笑うと周囲がぱっと明るくなるようだった。彼のこんな顔は、いままで見たことがない。
なんかごめんね、ノエム!
いや、いまは僕がノエムなわけだけど。
ポメ化しているとはいえ、王子がキラキラした顔でなでてくれるイベントなんて、彼にはなかったはずだ。
しかも申し訳ないという思いは、すぐにどこかへ飛んでしまった。だってこんなに楽しそうになでられてしまったんじゃ、僕のほうまで楽しい気分になってしまう。しっぽは自然と振っていた。
見るものすべて幸せにしちゃう光景じゃないかな、これ。つられて僕まで微笑んで、我に返った。
王子の顔がすぐそばにあった。あれ、もしかしなくても元にもどってるような?
でも王子は僕から目をそらさないし、まだ髪に触れている感触があるんだけど……。
状況をうまく処理できずにいると、父上が柔らかく微笑んだ。
「ああ、やはりそうですか」
「なにか思い当たることがあるのか。トルシカ」
王子はハッとしたように父上のほうを見た。
「はい。昔読んだ書物に、似たような症例が書かれていたのを思い出しました。獣に変身したものは、愛情を感じると元の姿にもどると」
僕はどちらかというと父親似だ。細身で年齢と性別が迷子。母が無駄に凛々しい分、父のか弱そうな感じが際だつ……、って、愛情!?
ふわふわしながらなに言ってんの父上。
「息子は殿下を慕っておりますので、もしやと思いまして」
それ、暴露しちゃう!?
いろいろ困ってキョロキョロしたおかげで僕は気がついた。王子のまえだというのに寝間着だし、おそらく頭もぼさぼさだ。これはまあ王子がなでていたからだけど。
王子も目を見開いて固まってしまっている。
リャニスなんてちょっと青ざめている。
不敬だよねえ。
「あ、あの殿下。感謝いたします。おかげで元にもどれたようです。このような見苦しい姿で申し訳ありません。一度さがって、身なりを整えたいのですが」
「あ、ああ、許す」
急いで着替えてきたのだが、王子は急用を思い出したとかですでに帰ったあとだった。
ただ、僕がポメ化するようなことがあれば必ず呼ぶようにと、強く言いおいていったそうだから、怒ったわけではないらしい。