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騙す女騙される女  作者: 二階堂真世
3/6

自殺未遂した女

美奈子が目が覚めた時、白い壁や天井に『ここは天国?殺風景な所ね』と思った。そこに、真っ白な天使?いや、看護師が点滴を持って入って来た。「よかった。目が醒めたのね。3日間も意識が戻らなくて、心配したのよ」と、優しく笑顔で言う。「私は、死ねなかったの?」と、一人ごとのように呟いた。「ご両親が、ずっと付き添ってくれていたのよ。何が、あったのかは知らないけれど、もう少し元気になるまで、何も考えず安心して眠ることね。」

体を動かそうとしたが、痛みで、思わず悲鳴が漏れた。「全身打撲で、当分動けないから。今は、ゆっくり何も考えず、日にち薬なんだからね」と看護師は言った。

「誰とも会いたくないの。面会謝絶にしておいて下さい。でないと、舌を噛んで死にます。」と涙を流しながら美奈子は言った。

「大丈夫だよ。安心して眠るといい。なぜ、飛び降り自殺をしようとしたのか?言いたくなったら、いつでも呼びなさい。ここの外科医から頼まれて来た、君の担当する北野隆と言います。こんなに綺麗なお嬢さんが、もったいない」と言う医師を看護師が笑いながらたしなめた。「先生ったら、不謹慎ですよ。山下さん、ごめんなさいね」と叱られて、冗談を交わす姿に少し心がほぐれたのか?美奈子に笑みが戻った。

医師は、山下美奈子のベットの脇の椅子に座って、「辛かったね。もう大丈夫だから。君は悪くない。誰だって、死にたくなることはある。でも、君は神様に愛されているから、こうして助かったんだよ。君を愛して、自分の命を差し出しても助けたいと思ってくれている人がいることを。そして、君を助けるために、必死になった人々がいたことを知ったら、きっと死にたくなくなる筈だよ。君は助かったんだよ。生まれ変わったんだ。次に目が醒めたら、世界は今までとは全然違って見えるはずだよ。だから、安心して、眠りなさい」という、包み込むような優しい声に、まるで催眠術でもかかったように美奈子は眠った。

将司は、出会った時から饒舌だった。どちらかというと、地味で目立たない美奈子の横に座って、他の美しくきらびやかな女性たちに見向きもしないで飲みに誘ってくれた。「僕のストライクゾーンの女性に出会えるなんて、奇跡だ。ねぇ、2人で、別の店で、ゆっくり飲みなおそうよ。」美奈子は「いえ、困ります。私は数合わせで、急に誘われて、そんなつもりで、ここへ来たんじゃないんです」と断っても、全然効果はなかった。ぐいぐい押して来る。こんなに積極的に男性からアプローチされるのは初めてだった。

もうすぐ30歳になる。なのに、まだ男性経験はなかった。国立大学を出て、総合職で中堅の貿易会社に入社して、夢中で仕事に励んでいたら、この年になってしまった。頭が良くて、まじめそうな彼女を誘う男はいない。周囲1キロにバリアを張り巡らせているような緊張感があった。なのに、将司は、そんなバリアなど気にも留めず、ぐいぐい分け入って来る。どれだけ断っても、手を握り、頬にキスまでされてしまった。びっくりし過ぎて、思わず席を立って逃げ帰って来た。なのに、後を追って来たらしく、インターホンを押し続ける。周囲の目が怖くて、ついドアを開けてしまった。酔いのせいにしていたが、そのまま手ごめにされて恋人になった。

自分では下ろせない硬い兜のような貞操観念を、こんなにたやすく突破しまうなんて、信じられなかった。よく見ると、なかなかの好青年だった。自称アーティストだと言っていたが、確かにカラオケも上手かった。メロウなバラードを美奈子の目を見つめながら歌うと、心がとろけそうになる。その、逞しい腕に抱きしめられると、体が金縛りにあったように自由にならない。心のどこかで、彼に征服されることを願っているのがわかる。自分は、こんな淫乱な女ではない。初めて出会った男と、安易に体を重ねるなんて、ありえなかった。。男性に負けないよう、仕事も勉強も頑張って来た。

女であるだけで、男には勝てないことを、わかっていながら闘って来た。かわいげのない女だと、わかっている。若い女性が、入社するたびに、「あんな、お局さんにだけにはなるなよ」と嘲笑する声が聞こえる。無能な男のたわごと。「悔しかったら、営業成績や利益を上げてみろ」と心で、その男を嘲る。ほとんどノーメイクで、いつも紺のスーツ姿。髪も、一つくくりでスキがない。どんなに口説かれても、なびかない。「鉄の女」とも言われたこともある。

なのに、何故?自分でも、この展開が理解できない。朝目覚めて、後悔の念に苛まれる。買ったばかりのマンションに、初めての客が、昨日出会ったばかりの男。しかも、自分の想像を超えた理解できない存在なのだから。ベッドに裸で寝そべる将司を、ゆすって起こそうとするのだけど全然起きない。あと数十分したら家を出なければ会社に遅れてしまう。仕方ないので、サンドウィッチにラップをして、手紙の上に合鍵を置いた。その日は一日中、家に残して来た将司のことが気になって仕事が手につかなかった。「目が醒めて、家の中を色々探られているかも知れない」と、自分の不用心さに、腹立たしかった。急いで家に帰ると、手紙で指示していたとおり、メールボックスには封筒に入れられた合鍵が。中には、汚い文字で「サンドウィッチうまかった。また会える?連絡待ってます」と電話番号も書かれていた。ほっと安心して部屋に入ると、煙草の残り香がした。窓を開け、ゴミを集め、念入りに掃除機をあてた。冷凍庫をのぞくと、ごはんが一つしか残っていなかった。お米をといで、タッパーウエアに残っている総菜を盛り付ける。手早く、野菜を切って、チンジャオロースを作る。半分はタッパーに入れる。次の日の、お弁当に入れるためだ。圧力鍋で、炊き立てのご飯をよそおい、アツアツのチンジャーロースと、ごぼうサラダやひじきや筑前煮の残りを食べる。一日30品目食べるのは、美奈子のこだわり。健康の秘訣なのだ。おこげのある、つやつやの白飯を一食づつサランラップに小分けをして、冷凍庫に入れる。これで今秋のお弁当と夕食の、ご飯は大丈夫。きれいに整理整頓された台所ハ、ピカピカ光っている。無駄なものは一切ない。お洋服もドレッサーに数着しか入っていない。制服のように紺を基調にしたスーツが3着と、式服とワンピースが2着あるだけだ。休みの日も、ジャージ姿で、近くのスーパーマーケットに買い物に行く以外は外出もしない。読みたい本もたくさんあるし、ネット検索しているだけで一日は終わってしまう。友人もいない。恋人もいないし、親からも最近電話もない。あまりに愛想の無い娘に母も話をすることが無いらしい。人付き合いは苦手なので、本当は電話もいらないのだが、前の電話機を持って来ていたのでつけているのだが。勧誘以外で電話もかかって来ないので、止めようと思っている。しかし、なかなか平日、処理できなくて、そのまま置いていた。

その電話がいきなり鳴ったので、驚いて出たら将司だった。「どうして、この電話番号がわかったの?」と不信に思って口調が厳しくなったのがわかる。「いや、電話かかって来ないものだから。そこの電話で僕の携帯に電話かけていて良かったよ。ねぇ、今から会えない?」と言う。「もう、着替えちゃったから無理。休みの前しか、夜は出かけない事にしているの」と言うと「わかった。じゃあ、今週末、食事に行こうよ」とたたみこんで来る。断わる文句を考えていたら、「その近くに有名なイタリアンがあるの知ってる?」とそのリーズナブルで美味しそうなメニューについて語り出すものだから、つい興味を抱いて約束してしまった。

独身生活が長いので、いつも自分で料理を作っているのだが、外食はしないものだからバリエーションもワンパターンになりつつある。たまに美味しい料理を食べて、味覚を磨かなければならないと思っていたので、つい誘いに乗ってしまった。軽い女だと思われているのではないかと思い、当分会わないつもりでいたのに。体が、またほてっている。初体験だったので、まだ痛みがある。それが、生々しく昨夜のベッドインを思い出させるのだ。

将司の馴れ馴れしい会話も気になる。まるで恋人気取りだ。ああ言う関係になってしまったのだから、そう思うのは当然かも知れない。でも、結婚前提で、本気の付き合いでなければ、遊びで恋を楽しむ年でもない。付き合い始めたら、その人が将来共にする相手だと思っているのだ。なのに、将司の強引さがコワイ。嫌いではないが、このまま堕ちてしまうのではないかと、自分が変わってしまうのではないかと恐ろしいのだ。

真面目に生きて来た。今まで、どんな汚点もなかった。なのに、男を部屋に連れ込んで、あんな卑猥なことをするなんて、と思い出しただけで、赤面してしまうのだ。この年になって、処女だというのも恥ずかしい。実はファーストキスだった。もっと甘酸っぱいレモンのようなキスの味なのだと想像していたのに。

男性の力は、あんなに強くて贖えないものなのか?自分の道徳心というのか?常識がコッパ微塵になって、収拾がつかないでいたのだ。しかし、食事の誘いをオッケーしたら、金曜日の夜を楽しみにしている自分に驚いた。買っただけで、まだ着たことのない紫がかったピンクのワンピースを着て、将司とデートしている様子をイメージして、口元が緩む。「何かいいことでもあったんですか?」と後輩の女性から声をかけられドキリとした。「岬さんは彼氏いるの?」と聞いて驚かれる。「先輩にも彼氏できたんですか?」と。「違う、違う」と否定したが、金曜日に初めてワンピースを着てオフィスに行ったものだから、周囲の噂になったみたいだった。念入りにメイクもした。マユが何度書いてもうまくいかないので、後輩に頼んで書いてもらった。化粧の上手い後輩は、自分のメイク用品を出して来て、夢中であれこれしてくれた。上手なだけあって、メイクは他人にするのも好きらしい。「ほら。素敵」との歓声に鏡に写った自分を見て、一番驚いたのは美奈子だった。化粧とは化けると書くが、本当に別人のようだった。「先輩、元が綺麗なんだから、もっとちゃんと、お化粧して下さいよ。もったいないんだから」と言ってくれた。自分のことを綺麗だとは、一度も思ったことがなかった。化粧なんかして、男に媚びを売るなんて、みっともないと思ってバカにしていた。なのに、美しくなった自分を見ると、恥ずかしいやらくすぐったいような女心が、初めてわかった気がした。将司は、こんなに変わった自分を見て、どう思うだろうか?見た目なんて関係ないと思うだろうか?それとも、喜んでくれるのだろうか?将司は売れないアーティストだと言っていた。住む世界が違い過ぎる。でも、だから頑なな自分の世界に入って来たのかも知れない。とにかく、約束したのだから食事には行こう。勇気を振り絞って、約束の店に行った。

将司は先に来て待っていた。自分の姿を見て大袈裟に驚いて喜んでくれた。前と違って、態度が紳士的だった。食事も美味しかった。一人暮らしなら、つい肉料理が多くなる。イタリアンだと聞いていたのに南仏料理だったみたいで、魚介類が多く新鮮だった。オリーブオイルとニンニクの取り合わせが食欲をそそる。そして、スパークリングワインに白と赤のワインを頂くと、ほろ酔いで足元が危なくなった。マンションの近くだったので、将司が支えて送ってくれた。部屋に入ると、ベットに倒れるように横になった。「気分が悪い」と言うと将司は水を口に含んで飲ませてくれた。優しく背中をさすってくれた。その指がファスナーを下す。「苦しいだろう?脱いだ方がいい」と、優しく、強引に。そして、いつの間にか裸にされていた。酔ってしまって、体が思うように動かない。手慣れた将司の愛撫に任せ目を閉じると、海の上に浮かんでいるような錯覚に陥った。耳元に波の音が聞こえて来た気がした。そして、その日から将司、は美奈子のマンションに転がり込んで、同棲してしまった。少しづつ、将司の洋服や、歯ブラシや髭剃りが洗面台の上にも、ドレッサーの中にも増えていく。まるで、新婚生活のように、美奈子は食事を用意し、2人分の選択をし、夜の営みに溺れて行った。美奈子が仕事に行っている間、将司は何をしているのか?美奈子は忙しくて気にもしていなかった。しかし、ある時、通帳から数万づつお金が引き出されているのに気付いた。カードの請求額が、跳ね上がり、マンションのローン返済が足りなくなって気がついた。勝手に将司がカードで買い物をしていたのだ。一度、暗証番号を聞かれたのが悪かった。将司を追求して、怒ると巧に話題を変えられ、愛され許してしまう

。昼間、パチンコや競馬など、ギャンブルにふけっているのがわかって、別れを決意した。しかし、追い出しても、いつの間にか帰って来て甘える。「美奈子が好きなんだ。愛しているんだ。絶対に、別れたくない」と許しを乞い、仕事をすると約束してくれる。しかし、コンビニや飲食店でのアルバイトは、すぐ辞めてしまい長くは続かない。歌は確かにうまいのだが、どこかで歌って稼いでいるとも思えない。付き合って1年になると、お金をせがんで、数日帰って来ない日が続いた。浮気しているのに気づいた時は遅かった。彼の私物は全部無くなっていた。呆然として、ガランとした部屋を眺め、将司の思い出に泣いた。初めての恋。そして、初めての失恋。しかし、そんな甘いものではなかった。ある時、現金を引き出そうとしたら、残金ゼロになっていた。焦って銀行に問い合わせたら全額キャッシュカードで引き出されていた。毎日数十万づつ引き出されていて、残高ゼロになった日に将司は消えていたのだ。いつもの場所に通帳もあった。財布からカードが抜かれていたのだろうが、土日しか買い物もしないので、気がついた時には、全てを失っていた。無くなったのはお金だけではなかった。高級時計やジュエリーも全て無くなっていた。警察に届けたが、同棲していたということで、取り合ってくれなかった。結婚していたり、一緒に家族のように住んでいた者が盗難しても警察には手を出せないようだ。サギだとか、確信犯かも知れないが、証拠が無いので、どうしようもなかった。探偵を雇えるお金もない。仕方なく、やっと手に入れたマンションを貸して、そのお金でローンを払うことにした。しかし、すぐには借り手は見つからない。会社に借金をしても、追いつかないし、信用が無くなる。すでに、30代。結婚にだって、安易に逃げ込めない。いきなり条件が悪くなっているのがわかる。

サラ金で、とりあえずのお金を借りて、どんどん利子が膨らんでいるのがわかる。ヤクザ者がマンションのベルを鳴らし、騒ぎ立てる。会社にも電話が、かかって来るようになって、会社を辞めた。もうブラックリストに乗っているのだろう。お金を貸してくれる所は無い。夕日がベランダの向こうに見える。ドアがけたたましく叩かれ、怒声が聞こえる。イスをベランダに運び、空を仰ぎ見て、美奈子は飛んだのだ。あの美しい夕日をめがけて。


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