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そっくり

作者: 瀬口利幸

仕事を終えた美奈は、同僚の坂下の住むアパートへと向かっていた。

右手にスーパーのビニール袋をさげて。

昨日、美奈の勤めているスーパーで、ちょっとした事故があった。

在庫置き場に無造作に立てかけてあった鉄製の脚立が、偶然通りかかった従業員の足の上に倒れ、その従業員は怪我をした。

その従業員というのが坂下だった。

そして、脚立を立てかけたのは・・・



美奈は、坂下の部屋の前で立ち止まった。

そして、もう一度、社員名簿から書き写したメモと部屋番号を照らし合わせてから、ドアをノックした。

まもなく足音だけがして、無言でドアが開けられた。

「どうしたんだ?」

坂下は、美奈の突然の訪問に驚いた様子で言った。

「ごめんなさい」

すかさず頭を下げた美奈の目に飛び込んできたのは、痛々しく包帯の巻かれた坂下の右足だった。

坂下は、この怪我のために、今日から仕事を休んでいる。

「あの脚立立てかけたの、私なの」

「そう」

坂下は怒った様子もなく、あっさりとうなづいた。

「上がってもいい?」

「え?」

「お詫びに晩御飯でも作ろうかと思って」

美奈は、手にしていたスーパーの袋を少し上げて見せた。

「ああ・・・どうぞ」

「おじゃまします」



「大丈夫なの?足の怪我」

美奈は、キッチンで料理を作りながら、リビングでくつろぐ坂下に声をかけた。

「たいしたことないよ。無理すりゃ出来ないこともないけど、立ち仕事だからな」

坂下は、精肉部で働いていた。

「労災も降りるっていうし、せっかくだからな。休んでて金がもらえるんだからありがたいくらいだよ」

「それならいいけど」

「お前の方はどうなんだ?」

「何が?」

「男の部屋に一人で来たりして、大丈夫なのか?彼氏いるんだろ」

美奈は、半年前まで同じ店にいた上田と付き合っている。

そして、上田と入れ替わりに入ってきたのが坂下だった。

「どうして知ってるの?」

「どうしてって、有名だぞ。似合いのカップルだって。パートのおばちゃんがよく話してるからな」

「関係ないじゃない、そんなこと。私が怪我させた人のお見舞いに来てるだけなんだから、当然でしょ」

「そりゃまあ、一応筋は通ってるけどな」



「いい嫁さんになるな」

料理を食べ終えた坂下が言った。

「え?」

「うまかったよ、料理」

「ありがとう」

坂下がいい話をふってくれたので、美奈もつい、いきなり核心をついてみる気になった。

「坂下君は結婚とか考えてないの?」

「結婚なあ・・・」

坂下は、タバコを一本取り出し火をつけた。

そして、近くにあった灰皿をテーブルの上に乗せ、話を続けた。

「拘束されたくないからな」

「拘束 ?」

「ああ。他にやりたい事があって仕事辞めようと思っても、制限されるだろ、結婚してたら」

「じゃあ、一人でも生きていけるような、自立した人見つければ?それだったら、気使わなくて済むでしょ」

「そんな女は好きになれないんだよ」

「そう・・・小説?やりたい事って」

「何で知ってるんだ?」

「何でって、有名よ。坂下君は小説家になりたいらしいって」

「パートのおばちゃんか?」

「うん・・・その為に、こっちに出て来たんでしょ?」

「まあな」

坂下は三年前、小説家を目指し東京に出てきた。

別に、田舎にいたらプロになれないというわけではないが、東京に出てきたほうが、何かとチャンスが多いように感じたからだ。

それに、流れを変えたかった。

人生の流れを。

賞に出しても落ちまくり、恋愛もうまくいかなかった人生の流れを。

もしかしたら、それが一番の理由だったかもしれない。

このままじゃいけない。

何とかしないと。

そう思っていたとき、不意に〈上京〉という言葉が頭に浮かんだ。

それが、流れを変えるのに一番手っ取り早い方法だった。

「じゃあ、坂下君の夢に理解がある人見つければいいんじゃない?」

美奈は、話を元に戻した。

「でもな、相手がいいって言っても俺の気持ちがな」

「坂下君の気持ち?」

「ああ、好きな女に苦労はかけたくないからな」

「だったら、充分稼げるようになってから仕事辞めれば?」

「それにしたって同じだろ」

「何で?」

「小説家なんて不安定な職業だからな」

「それなら、一生生活していけるくらいお金貯まってから・・・」

美奈は、そこで言葉を切った。

坂下の、不思議そうな視線に気付いたからだ。

「何?」

「お前、やけにこだわるな。俺の結婚に対して」

坂下は、〈不思議そうな視線〉の作成理由を開示した。

「そんなことないわよ。ただ、同じ28歳として気になったから、つい・・・」

美奈は、洗い物をするために、食器を手に立ち上がった。

しかし、それは、あくまでも二次的な要素で、主目的は、坂下の視線から逃れるためだった。



次の日も、美奈は坂下のアパートを訪れていた。

そして、昨日同様、キッチンで料理を作ろうとしたが、あることに気付き坂下に声をかけた。

「ねえ、他に鍋ないの?煮物作りたいんだけど」

「え?」

ソファーでテレビを見ていた坂下が振り返ると、そこには、取っ手の取れた鍋を手に困り顔の美奈がいた。

「ああ、それしかないんだよ」

「いつも、どうやって使ってるの?」

「そこに鍋つかみがあるだろ」

「新しい鍋買えばいいじゃない。安いのあるでしょ」

「そう思って買いに行ったんだけどな。鍋つかみの方が更に安かったから。世の中、上には上がいるもんだな」

「何よ、それ」

美奈は仕方なく、その心細い戦力で料理を始めた。



美奈が料理を始めてから数十分が過ぎ、いよいよ佳境に入ろうとしていたとき、背後から坂下に声をかけられた。

「何で昨日、うちの店で買い物しなかったんだ?社員割引ききくのに」

振り返ると、坂下は、昨日、美奈が置いて帰ったスーパーのビニール袋を手にしていた。

それは、二人が働いているスーパーとは別の店の物だった。

「別に・・・遠いから。うちの店」

「そんなに変わらないだろ、ここと」

「そうかなあ」

確かにそのとおりだった。

ここから二つの店までの距離は、ほとんど変わらない。

じゃあなぜ、美奈は自分の店で買い物をしなかったのか。

それは、気にしていたからだ。

美奈は、自分の家から遠く、しかも、電車通勤で荷物になるのが嫌だったので、普段ほとんど自分の店で買い物をした事がない。

そんな美奈が買い物をして変な噂を流され、もし、それが上田の耳に入ったら・・・

当然、上田は怒るだろう。

例え、正当な理由があったとしても。

ましてや美奈には、その正当な理由がなかったのだから。

坂下の的確な指摘に、美奈が答えを詰まらせていると、不意に鍋が悲鳴を上げた。

シュー!

すぐに気付いた美奈は、慌てて鍋の火を止め、何とかふきこぼれという事態から逃れることができた。

と同時に、坂下の追及の手からも。

それっきり、坂下は、その話題に触れることはなかった。

くしくも、美奈は、取っ手の取れた鍋に、救いの手を差し伸べられた格好となった。



三日目。

その日も美奈は、坂下の部屋を訪れていた。

そして、いつものように料理を作ろうと冷蔵庫のドアを開けたとき、美奈の目に、それは飛び込んできた。

いかにも高そうな箱に入り、異彩を放っているマスクメロンが。

「どうしたの?これ」

「何が?」

「マスクメロン」

「ああ、それな」

「買ったの?」

「いや、もらったんだよ」

「誰に?」

美奈には嫌な予感がしたが、聞かざるを得なかった。

「夏休みに、雑貨でバイトしてた高校生の女の子。名前なんだっけ。お前知ってるだろ、仲良かったから」

「・・・中山さん?」

「そうそう。その娘が今日来て、怪我させたお詫びにって・・・。お前じゃなかったんだな、脚立立てかけたの」

「・・・」

「いいって言ったんだけどな。強引に置いていっちゃったんだよ。せっかくだから、後で食べようか」

何で分かったんだろう。

事故は8月31日、中山香がバイトを終え店を出た後で起こっている。

そして、その日、夏休みが終わると同時に、香はバイトを辞めている。

あの日、美奈は香に頼まれて、最初だけ商品を取るのを手伝い途中でレジに戻った。

在庫置き場で作業をしていたのは二人っきり。

私がレジに戻った後で、誰かに見られたんだろうか。

そんなはずはない。

事故の後しばらく様子を見ていたが、誰も何も言い出そうとはしなかったんだから。

「何で分かったの?」

その疑問が、自然と美奈の口をついて出ていた。

「何が?」

「中山さん。坂下君が怪我したこと」

「ああ、パートのおばちゃんに聞いたんだって。街で偶然会って雑談してたら、俺の怪我の話題になって。で、事故が起きた時間からいって自分だろうって」

美奈は、その話題から逃れるために料理を始めた。

坂下は、そんな美奈を尻目に、一人で話を続けた。

「しかし、お前も人がいいよな」

「・・・」

「商品取るの手伝ったの、最初の方だけだったんだってな。脚立立てかけるときには、いなかったんだろ」

「・・・」

「仲いいからかばったのか?」

違う。

そんなんじゃない。

そんなんじゃ・・・

ただ、利用しただけだった。

坂下に近付く口実が欲しくて。

美奈は半年前、初めて坂下を見たときから、ずっと気になっていた。

しかし、美奈には上田という彼氏がいる。

上田には何の不満もなく、今も付き合っている。

結婚してもいいとさえ思っていた。

坂下が現れる前までは。

坂下に近付きたい。

坂下のことがもっと知りたい。

そう思っていたとき、ふと気付くと、美奈の目の前にそれは転がっていた。

坂下と、二人っきりで会うことができ、しかも、もし、それが上田にばれたとしても、別れにまではいたらないであろう理由が。

美奈は、迷うことなく、その〈理由〉を拾い上げた。

そして、誰にも気付かれることなく、自分の物にしてしまった。

と、思っていたのに。



「やっぱり、うまいな」

坂下は、食後のデザートとして、無邪気にメロンを頬張っていた。

しかし、

「何で食べないんだ?」

まだ全然口をつけていない美奈に気付いて言った。

「え?」

「嫌いなのか?」

「ううん、そんなことないけど。晩御飯でお腹一杯になっちゃったから。ラップしとくから、明日食べて」

そう言ってしまってから、美奈は、ほとんど手をつけずに残っている、自分の料理に気付いた。

「これも」

美奈は、料理とメロンの皿を手に、急いでその場を立ち去った。



「気をつけて」

美奈は、その坂下の声を、玄関で靴を履きながら背中で受け止めていた。

「今まで、ありがとう」

今まで。

その言葉が、美奈の上に重くのしかかり、靴を履き終えた後も、しばらくの間立つことができなかった。

これからは?

そう、未来はどうなるか分からない。

ひょっとしたら・・・

美奈は、その言葉の明るい響きだけを頼りに、勢いよく立ち上がり振り向いた。

「早く治してね。怪我」

「ああ」

美奈は、ドアを開け外に出る。

今にも口から飛び出しそうな、「もう、来ちゃいけないの?」という言葉を必死に抱きとめながら。

そして、静かにドアを閉めた。

二人が、ただの同僚に戻った瞬間だった。



「柴田さん」

出勤して早々、美奈は、スーパーの二階にある事務所で、店長から声をかけられた。

「はい」

「悪いんだけど、今日、鮮魚手伝ってくれないかな」

「いいですけど、どうかしたんですか?」

「パートの山口さんが休んでるんだよ」

「病気ですか?」

「いや、車に撥ねられたんだって」

「え!」

「たいした事はないみたいなんだ。昨日、連絡もらって、すぐにお見舞いに行ったんだけど、元気そうだったから。撥ねられたっていうより、ちょっと当てられただけみたいだから」

「そうなんですか。わかりました」

「フェラーリなんだって、相手の車。たぶん金持ちだろうから、いっぱいふんだくってやるって意気込んでたよ」

坂下の怪我のことを香に話したのは、山口さんなんだろうか。

店長の話を聞いた美奈は、なんとなくそんな風に思っていた。



「柴田さん」

その日の帰り、美奈は、スーパーの通用口を出たところで呼び止められた。

振り返ると、そこには、制服姿の香が立っていた。

坂下を怪我させた娘だ。

「どうしたの?」

美奈がそう聞くと、香はちょこんと頭を下げた。

「すいません。私の代わりに」

「いいのよ。私だって少しは手伝ったんだし。坂下君の怪我は気にしなくていいわよ。たいしたことないみたいだし。わざとやったわけじゃないんだから」

「はい。坂下さんにも、そう言われました」

「そう」

こっちが利用した相手に逆に謝られ、居心地が悪くなった美奈は、話題を変えた。

「坂下君の怪我のことって、誰に聞いたの?」

「え?」

「鮮魚の山口さん?」

「はい、何で知ってるんですか?」

やっぱり。

恐ろしいまでの偶然だった。

〈人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ〉

美奈は、馬が躍動するフェラーリのエンブレムと共に、そんなフレーズを思い出していた。



「初めてね。こんな所に来るの」

美奈は、フランス料理店で、デザートを食べ終えて言った。

「そうだな」

向かいに座っている、スーツ姿の上田がうなづいた。

「この間のガキの使い見た?」

「ああ」

「面白かったね」

「そうだな」

「新しい携帯どう?」

「いいよ、画質きれいだし」

美奈は怖かった。

怖かったからしゃべり続けた。

こんな所に連れて来られた時から、大体予想はついていた。

上田が何を言い出すのか。

何を渡そうとしているのか。

それから逃れるために美奈は・・・

「この前ね」

「ちょっといいかな」

上田は、美奈の話を強引に遮った。

「話があるんだ」

「・・・何?」

「大事な話」

「・・・」

「結婚してくれないか」

上田は、そう言いながら、美奈の前に指輪のケースを置いた。

美奈は、それをじっと見つめる。

受け取ってしまおうか。

そうすれば楽になれる。

上田は社交的で仕事もでき、同僚や上司の受けもいいから、たぶん出世もするだろう。

性格も良いし、見た目も結構かっこいい。

申し分のない相手だった。

ただ一つ・・・

遅かった。

もしこれが半年前だったら、何も迷うことなく、素直に受け取っていただろう。

坂下と出会う前なら。

結婚はタイミングだ、という話をよく聞くけど、まさにその通りだった。

こんな気持ちじゃ受け取れない。

こんな気持ちじゃ。

美奈は、黙って指輪を押し戻した。

「受け取ってくれないのか?」

そんな事は予想もしていなかったのか、上田の顔には戸惑いがあった。

「断るっていう意味じゃないの。ただ、急に言われたから驚いちゃって。ちょっと考えさせて」

「・・・そうか。そうだよな。大事なことだからな。ゆっくり考えてくれればいいよ」

落ち着きを取り戻した上田は、笑顔でそう言った。



それは、何の予告もなく、ある日突然やってきた。

その日、美奈は、いつものように出勤し、売り場で行われる朝礼に出ていた。

店長の訓示に始まった朝礼は、普段どおりに進んでいった。

そして、そろそろ解散かという時になって、再び店長が口を開いた。

「最後に、皆さんにお知らせがあります。坂下君」

店長に呼ばれた坂下は前に出る。

ケガは、すっかり良くなっていた。

「えー、坂下君は、今月いっぱいで退職することになりました。小説家としてデビューすることが決まったそうです」

店長のその言葉で、店内は静まり返った。

いや、実際にはざわついていたのだが、そのざわめきも、坂下の挨拶も、美奈の耳に届くことはなかった。



午後三時。

美奈は一人、休憩室に向かっていた。

いつもなら、休憩室に、誰か話し相手がいて欲しいと思うのだが、今日だけは違った。

とにかく、一人になりたい。

誰もいて欲しくない。

そう願いながら、美奈は、休憩室のドアを開けた。

しかし、中には先客がいた。

一人でテレビを見ている坂下が。

「休憩か?」

美奈に気付いた坂下が声をかけてきた。

「うん」

「これ」

そう言いながら、坂下は、ポケットから取り出した小銭を美奈の前に差し出した。

「何よ、これ」

「おごるよ、コーヒー。色々ご馳走になったから」

「何よ、今頃」

「チャンスがなかったから。誰かに見られて、変に誤解されても困るだろ」

美奈は、それを受け取り歩き出した。

そして、自動販売機の前に立った美奈は、坂下にもらった三枚の硬貨を、しばらくの間じっと見つめていた。

振り返ると、坂下は、こちらに背を向けている。

それを確認した美奈は、その硬貨を、そっと自分のポケットにしまいこんだ。

そして、自分の財布からお金を取り出しコーヒーを買った。

コーヒーを手にした美奈は、坂下の向かいの席に座った。

「どうやって決まったの?デビュー」

「前に賞に出した小説があって。で、その賞には落ちたんだけど、別の雑誌の編集長がその小説読んで気に入ってくれて、雑誌に載せてくれるって」

「うれしい?プロになれて」

「まあな。この先どうなるか分からないけど」

「そんなので仕事辞めて、大丈夫なの?」

「何とかなるだろ。一人だし、多少は貯金もあるし」

「そう・・・なんていう雑誌に載るの?」

「え?言っただろ、俺。朝礼の時に」

坂下は、不思議そうに言った。

「ごめん、聞いてなかった。考え事してて」

「文英社のスピーク」

「いつ?」

「12月9日」

「二ヵ月後ね。ペンネームは?」

「まだ、決まってない」

「タイトルは?」

「気が済むまで」

美奈が質問するたびに。

そして、坂下が、その質問に答えるたびに。

それまでは、おぼろげにしか見えていなかった辛い現実が、はっきりと、その姿を美奈の前にさらけ出していった。



送別会の席で、坂下は笑っていた。

そんなにうれしいんだろうか、プロになれることが。

私に会えなくなることは、なんとも思ってないんだろうか。

坂下の笑顔が、美奈の胸を悲しく締め付けた。



酔っ払いの集団が、夜の街を歩いていた。

集団は、二次会の店に向かっている。

やがて、その集団の中の一人が、誰にも気付かれることなく離脱して行った。

そして、それを追うように、もう一人。



「大丈夫なの?主役がこんな所にいて」

一人で公園のベンチに座り、タバコを吸っている坂下に、美奈が声をかけた。

「かまやしないよ。連中は、酒が飲める口実が欲しいだけなんだから」

「・・・」

「現にこうやって、誰にも気付かれずに、こんな所でタバコ吸ってられるのがいい証拠だろ」

「私は気付いたわよ」

そう言いながら、美奈は坂下の隣に座った。

「お前は変わってるからな」

「どこが?」

「アルバイトの女の子かばってみたり、俺みたいな奴の後ついてきてみたり」

「そうか、変わってるか・・・そうかもね」



「そろそろ帰った方が良いんじゃないのか。みんな心配してるだろ。お前は俺と違って、人気あるんだから」

「・・・」

「それに、もし、こんなところ誰かに見られたら」

「いいわよ、別に・・・それならそれで」

美奈は、遠くを見つめながら、つぶやくように言った。

「変だな、今日のお前」

「・・・」

「何かあったのか?」

「うん・・・ちょっとね。悩み事が」

「どんな?」

美奈は、すぐには答えようとはしなかった。

「プロポーズされたの。上田君に」

美奈は、坂下の顔を見た。

一瞬、こわばったようにも見えたが、気のせいかもしれない。

暗さのせいではっきりしなかった。

「何で悩むんだよ。好きなんだろ、そいつのこと」

「うん」

「じゃあ・・・」

「もう一人いるから」

「何が?」

「他に好きな人が、もう一人」

「・・・」

「どうしたらいいと思う?」

「俺に聞かれても」

「分かると思うけどな。坂下君なら」

「・・・」

「その人も、小説家目指してるの。坂下君みたいに」

「・・・」

「参考にするから、聞かせてくれない?男の人の気持ち」

「・・・」

公園のブランコが、風に揺れた。

「そいつは、お前の事どう思ってるんだ?」

「それが分からないから聞いてるの」

坂下は、タバコを取り出し火をつけた。

そして、大きく煙を吐き出してから口を開いた。

「もし、そいつがお前の事を好きだったら」

「・・・」

「上田と結婚して欲しいと、思うんじゃないかな」

「何で?」

「好きな女には、幸せになってもらいたいからな」

「何でその人とだと、幸せになれないの?」

「なれないって訳じゃないけど、確率の問題だよ」

「お金なんてなくてもいいじゃない。一緒に苦労すれば」

「お前は良くても、相手はどうかな。そんなお前の姿見るのは、辛いんじゃないかな」

「・・・」

「お前には、笑顔が一番似合うから」

そう言って坂下は、携帯用の灰皿に短くなったタバコを入れた。

「それでいいの?坂下君は」

「・・・」

「辛くないの?」

「いいんじゃないかな、それで・・・もし俺が、そいつだったとしたらな」

「・・・」

「現実は時に、醜く姿を変えるけど、思いでは、いつまでもきれいなままでいてくれるからな」

「・・・」

坂下は、腕時計を見て立ち上がった。

「もうこんな時間か。どうする?二次会に戻るか?家に帰るんだったら、駅まで送っていくぞ」

坂下がそう声をかけたが、美奈は、うつむいたまま動こうとはしない。

「どうする?」

坂下がもう一度聞くと、美奈は、やっと口を開いた。

「なに格好つけてんのよ・・・馬鹿」

「・・・」

「一生、一人でいればいいじゃない!」

美奈は、叫ぶように言って、そのまま走り去って行った。



美奈は、ただ、仕事をしていた。

坂下のいなくなったこの職場で、ただ、仕事をしているに過ぎなかった。

坂下は、昨日で仕事を辞めている。

一言も話さなかった。

あの送別会の日から昨日まで、美奈は、坂下と、とうとう一言も話さなかった。

そして、今日の昼、美奈は一本の電話をもらった。

「そろそろ返事くれないか。8時に、いつもの店で待ってるから」

電話の向こうで上田が言った。

美奈は、まだ迷っていた。

どうしたらいいのか。

どうすればいいのか。

散々迷った挙句に、美奈は結論を出した。

もう一度会ってから決めよう。

もう一度だけ、坂下に会ってから。

そう決心した美奈が、なんとなく外に目を向けると、店の前の道を、一台の引越し業者のトラックが通り過ぎて行った。



久しぶりだった。

この感触を味わうのは。

仕事を終えた美奈は、坂下のアパートの鉄製の階段を上がっていた。

そして、坂下の部屋の前にたどり着いたとき、美奈の胸に不安がよぎった。

部屋の明かりが消えている。

美奈は、その不安を打ち消そうと、力強くドアをノックした。

一回。

二回。

三回。

しかし、ノックの音はむなしく響き、その役目を果たすことなく消えていった。

その時、不意に、隣の部屋のドアが開き、四十代くらいの女性が現れた。

「あの・・・」

「そこの人なら引っ越したわよ。今日」

「どこに行ったかは」

「さあ」

それだけ言うと、その女性は、さっさと美奈の横を通り過ぎて行った。

後に残された美奈の脳裏を、今日店で見た、引越し業者のトラックが横切って行った。



「この電話は、現在使われておりません」

駅への道をたどる途中、美奈が携帯で坂下に電話をかけてみると、そんなメッセージが流れてきた。

機械的なそのメッセージは、いつにも増して冷たく感じられ、美奈の心に深く突き刺さった。

当然、行き先など、誰にも教えていないだろう。

美奈と坂下を結ぶか細い糸が、坂下によって断ち切られてしまっていた。

その時、道端にある缶コーヒーの自動販売機が、美奈の目に映った。

その前に立った美奈は、ポケットから、大事そうに三枚の硬貨を取り出した。

「おごるよ、コーヒー」

いつかの坂下の言葉を思い出しながら、美奈は、その三枚の硬貨を強く握り締めた。

そして、一枚ずつ、自動販売機に投入していく。

「さようなら」

と、つぶやきながら。



「いい加減捨てろよ、こんな物」

「いいじゃない、まだ使えるんだから」

「恥ずかしいだろ。誰か来て見られたら」

「大丈夫よ。そういう時は、ちゃんと他の使ってるから」

上田は、その取っ手の取れた鍋を見るたびに、そう文句を言ってきた。

その度に、美奈は、そう言い返していた。

美奈は、どうしても捨てる気になれなかった。

取っての取れたその鍋に、坂下の面影を映し出していたから。

美奈が上田と結婚してから、十年が過ぎていた。

そして、坂下と会えなくなってからも。

あの日、美奈は上田に返事をした。

それは、簡単な選択だった。

それまで二択だった問題が、一択になったのだから。

もう、迷うこともなかった。

今ではこうして、八歳になる一人娘の良美と三人、幸せに暮らしている。

これで良かったんだろうか。

これで・・・

坂下が、今どこで何をしているのか、美奈は知らない。

十年前、坂下の小説は、あの雑誌には載らなかった。

というより、出版社に問い合わせてみて分かったのだが、そんな話は元々なかったらしい。

坂下は、美奈の気持ちに気付いていたんだろうか。

そのうえで、美奈に気を使わせないために、あんな嘘までついて身を引いたんだろうか。

今となっては知りようもない。

せめて、坂下の書いた小説だけでも読んでみたかった。



日曜日。

美奈は、娘の良美と二人、デパートに買い物に来ていた。

上田は、友人とゴルフに行っている。

特に、買いたい物があるわけではなかった。

二人分の昼食を作るのが面倒だったから、ここで一緒に済まそうと思っただけで。

「可愛いお嬢さんですね」

子供服を見ていた美奈は、女子店員に、そう声をかけられた。

「どうも」

「お母さんにそっくり。きれいになるんでしょうね、将来。お母さんみたいに」

きれいかどうかは別として、美奈は、確かによく言われた。

親戚や友人に、近所の人。

会う人ごとに、

「良美ちゃんは、お母さんにそっくりね」

と言われる。

そして、美奈自信もそう思っていた。

良美は日に日に、美奈に似てきていた。



美奈は良美と二人、停留所で、のんびりと帰りのバスを待っていた。

そして、手持ち無沙汰に辺りを見回していると、美奈の目に、それは飛び込んできた。

20メートルくらい先の路上で、本を売っている坂下の姿が。

横顔しか見ることはできないが、確かに坂下だった。

思わず歩き出しそうになるのを、美奈は必死で我慢した。

「良美ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

美奈は、良美の前にしゃがみ込んで言った。

「何?」

「あそこにね、白い服着た人が座ってるでしょ」

美奈は坂下を指差す。

「うん」

「あの人の所に行って、これで、あの人が売ってる本買ってきてくれない?」

と言って、美奈は、財布から二千円を取り出し、良美に渡した。

「一人で?」

「うん。お母さん、電話しなきゃいけないところがあるから」

「うん、いいよ」

良美は、初めて美奈にお使いを頼まれたのが嬉しかったのか、元気に走り出していった。

「気をつけてね」

美奈は、良美の背中に声をかけた。

美奈には勇気がなかった。

坂下と会う勇気が。

もし、会ってしまったら。

もし、話してしまったら。

自分がどうなるか分からなかった。

それが怖くて・・・

まもなく、良美は、坂下の所にたどり着いた。

すると、目の前にある映画館からどっと人があふれ出してきて、二人の姿は、完全に見えなくなってしまった。

不安げに見つめていると、やがて、その人ごみの中から良美が顔を出した。

両腕で、しっかりと坂下の本を抱きかかえながら。

その時、ちょうどバスが来て、美奈は、良美と共に乗り込んだ。

「はい、これ」

席に着くと、良美は美奈に本を差し出した。

「ありがとう」

美奈に本を渡した良美は、もぞもぞとポケットを探り出す。

そして、出てきた物は、美奈が渡した二千円だった。

「どうしたの?これ」

「いいって」

「どうして?」

「そっくりなんだって、私」

「そっくり?」

「うん。昔、大好きだった人に」

「・・・」

「おじさんが昔大好きだった人に、私がそっくりだから、お金はいらないって」

まもなく、バスは発車した。

そして、坂下の前に差し掛かると、良美が、坂下に向かって手を振り出した。

それに気付いた坂下も、笑顔で手を振り返した。

その目はいつしか、良美ではなく、美奈を見つめていた。

美奈は、良美に覆いかぶさるようにして、小さくなっていく坂下を、いつまでも見つめていた。

やがて、バスは交差点を曲がり、美奈は静かに腰を下ろした。

やっと別れることが出来た。

やっと、ちゃんと別れることが。

十年経って、やっと・・・

「どうしたの?お母さん」

「・・・」

「どうして泣いてるの?」

美奈は、良美の質問に答えることも出来ずに、ただ、じっと、坂下の本を抱きしめていた。




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― 新着の感想 ―
[一言]  良い作品です。  結婚を考えるぐらいですし、美奈さんは上田のことが嫌いとか気に入らないというのではないのでしょう。だがなんとなくしっくりこない気持ちなのかしらん。上田の登場する場面はたった…
[一言]  選択肢は少ない方がいいのかなと思いました。
2021/07/28 08:24 退会済み
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