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夜明けなんて来ない

作者: 香桐れん




 その瞬間、「終わった」と頭の中でもうひとりの自分が絶望に満ちた声で呟いた。

 肩が動かない。緩い傾斜の作られたマウンドの上で膝をつく。コーチやチームメイトが駆け寄って来たが、俺は顔を上げることが出来ない。

 それは脂汗が滲むほどの激痛や、とうとう壊れてしまったという絶望のせいだけではない。

 ただひたすら、悔しかったのだ。

 試合の途中、大勢の注目を浴びている中での出来事ならば、「エースの悲劇再び」として地元紙のちょっとした話題になったかもしれない。

 しかしながら、残念なことに試合中でもなければ、ここはグラウンドでさえない。

 校内の片隅、クラブハウスの裏側にひっそりと作られた、控えチーム用の粗末なブルペンでしかないのだ。

「だからあれほど無茶をするなと言ったのに」

 コーチの呆れ果てた声が聞こえてくる。

「お前はそういうところが……まったく」

 いつもどおりの小言が、うつむく俺に容赦なく浴びせられる。

 背中を押して保健室へ促すチームメイトはいても、慰めの言葉はひとつも聞こえない。

 終わった。

 俺はもう一度、声には出さずに呟いた。


     *


 ――将来の夢はプロ野球選手。

 幼い頃からことあるごとに、幾度もそう言い続けてきた。

 全国大会常連の少年野球チームでエースと呼ばれ、いくつもの大会でチームを優勝に導いてきた俺は、当然のように野球強豪校と呼ばれる高校に進学した。いずれは甲子園のマウンドで歓声を浴びるだろうと信じて疑わなかったし、将来はプロの世界で『甲子園を沸かせたあの投手』だなんて呼ばれる日も来るだろうと夢を見ていた。

 高校入学後、一年生にして主力チームの先発投手を任されるようになると、その夢が現実になるだろうと確信さえ持ち始めていた。

 練習や試合のたびにスタンドに現れる目つきの鋭い大人の数が増え、その視線とビデオカメラが明らかに自分を捉えているのを感じていた。その大人たちがプロの球団や社会人野球のスカウトだと耳にした時、俺は驚きや感動よりも、そうなって当然だろうと納得したほどだった。

 つまり、すっかり天狗になっていた。

 その細い鼻をいとも簡単にぽっきりと折られたのは、二年生となり「先輩」と呼ばれる立場になってからだ。

 無名のクラブチーム出身の、名前を聞いたこともなかったような下級生が、入部直後からベンチ入りを果たした。そいつは着々と出番を増やしていき、一方で俺の登板機会は減っていった。自分の後に続く者だと思っていたのが、あっという間に先を越されたのだ。スタンドの大人たちの視線の行き先が俺からそいつに変わっていったのもわかった。

 焦った俺に出来るのは、冷静になり謙虚な姿勢で練習を続けることだけだったのだと思う。

 冷静になることが出来なかった俺は練習の量と強度を極端に上げた。もう誰にも負けたくなかった。コーチの助言は耳に入らなかった。

 挙げ句の果てに、俺は「最後のチャンス」となるはずの、三年生になったばかりの春のさなか、試合前でもなんでもない通常の練習中に肩を痛めるという最大のミスを犯したのだった。


     *


 病院に連れて行かれた結果、今年中の登板は無理だと診断された。

 つまり、試合に出られないまま、高校生活が終わるということだ。

 高卒でドラフトにかかり、プロの道へ進む。その夢を叶えるためであったら何だってする。――立場を危うくし始めた二年生のあの頃から、俺はそれだけを目標に、一心不乱に練習に取り組んできた。

「野球の神様はきっと見てくれている」。誰かが言ったその言葉を自分の胸に刻みつけ、どんなに出番が減ろうとも、ベンチから外されようとも、ひたすらにボールを握り、腕を振ってきた。少しぐらい痛くても、疲労が溜まっても、そんな弱音を言える立場ではないのだと自分に言い聞かせてきた。

 暗雲立ち込める俺の野球人生にも、いつかは雲間から陽の光が見えるだろうと、そう信じていた。

 それなのに、今、俺のまわりは真っ暗で何も見えない。

 暗闇の中に光が射し込む気配さえない。

 リハビリにも下半身のトレーニングにも身が入らない。

 日暮れ後のグラウンドの片隅で、足元に転がる汚れた白球に無意味な視線を向けていると、監督が俺に歩み寄り、静かに言った。

「諦めるな」

 プロへの道はそう簡単ではない。高校でダメでも大学や社会人で素質を見出される選手も大勢いる。お前の野球人生はまだまだ続くと信じている。――監督はそう言って俺の背中をそっと叩いた。


     *


 翌日から、俺はこれまでどおり朝と夕方の練習に勤しんだ。

 同級生も下級生も、俺を見る目は冷ややかで、哀れみさえ浮かべていた。「もう手遅れだろ」。そんな声が聞こえてくるような気もした。

 それでも俺は前だけを見た。行く先に何があるかなんて闇の中の俺に見えるはずもなかったし、野球の神様なんてもはや信じていなかったが、ただがむしゃらに両手で(くう)を掻き、一歩ずつ地面を踏みしめながら歩を進めた。

 数日後、監督が俺を呼び、妙に険しい表情で言った。

「怪我をしていても、それまでの実績から将来を見込んで育成契約をしてくれる球団もあるらしいな」

 その話と俺とがどう関係するのかまでは監督は言わなかった。俺も「そうですか」としか答えなかった。翌日、俺は以前のように周囲に目を向けた。練習場の隅に視線をやるたびに、学校関係者ではない男性と目が合った。

 故障した肩が癒え、ようやくキャッチボールが出来るようになった夏の初めの頃、俺たちの野球部は地区予選で敗退し、甲子園への切符を逃した。

 ベンチ入りメンバーの三年生が涙に暮れるのを応援スタンドから見つめながら、俺は自分が流している涙の意味は、彼らのものとは違うのだろうとぼんやり考えた。

 引退式が終わり、部活に参加する三年生がほとんどいなくなっても、俺は下級生の練習のかたわらでひたすらリハビリに取り組んだ。


     *


 そうして秋が深まってきた頃。

 プロ野球のドラフト会議が始まる時間、部員の多くが野球部の寮でテレビ中継を見ていた中で、俺はコーチと一緒にトレーニング室にいた。近くの部屋でも誰かがテレビを見ているようで、ひと息つくたびに「第……巡選択希望選手……」とか、甲子園を沸かせた他校の選手の名前とかが途切れ途切れに耳に入った。俺は極力気に留めないように、自分の世界に集中した。

 もう遅いから帰ろう、とコーチに言われて汗を拭っている時だった。

 ドラフト会議は一段落つき、育成選手の選択会議を始めるアナウンスが少し前に聞こえていた。窓の外は陽が沈み、すっかり闇に包まれていた。

 不意にあちこちから悲鳴に似た声が上がった。それはどれも驚きに満ちていて、周囲が急に慌ただしくなった。

「どうしたんだ」とコーチが顔をきょろきょろと動かしていると、バタバタと足音が近づいてきて、トレーニング室のドアが勢い良く開けられた。

「おい! 急いで監督のところに行け!」

 飛び出そうなほど目を見開いた顧問の先生が、ドアを開けるなり俺に向かってそう怒鳴った。

 俺は呆然として声の主を見た。

 先生の背後に続く廊下では、テレビの音が漏れ聞こえる中、次々と大人たちがこちらに向かって駆けてくる。

 そのどこか異様な光景の、薄暗い廊下のずっと先に灯る蛍光灯が、どういうわけか俺の目にはまばゆいほどに光り輝く満月のように見えていた。





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