宵闇ゆれて、消えていく涙
夏のホラー2009参加作品です。
死んでしまいそうなほど苦しいくらいが、最高に気持ちいい。
圧力が私の声を殺して、私はひゅーひゅーと喉を鳴らした。突き上げてくる体の芯を支えに、喉元の負荷は強まっていく。
手の力を弱めることなく、彼は体だけを私の方へと倒して、荒い息を吐き出した。
「苦しいか?」
返事など出来るわけもなく熱い息を小さく吐くと、彼はそれを返事と捉えて、ぐっと腰を動かした。
まだ慣れないそこは、じりじりと熱を発し痛む。それでも、体は少しずつその行為を快感だと捉え始めていた。
「もっと、絞めて」
気持ちいいからこそ、「もっと」を求める。
私は知っているのだ。死が近ければ近いほど、この行為にむさぼりつく。
彼の指は、私の首をいっそう強く締め付ける。
頭の奥がじりじりとしびれて、酸素を求める肉体が暴れようと必死になる。
苦しさと快感がせめぎあい、頭の中が真っ白に変わったとき、彼は力を抜いて、私を抱きしめた。
「ごめん」
一瞬、なぜ謝られたのかわからず首をかしげたけれど、すぐに事情を察する。
「大丈夫。ピル飲んでるから」
「……ピルって、なんで? 妊娠したくないから?」
「生理不順だからだよ」
「あのさ、俺以外の男と寝て……ないよな?」
私の隣に横たわりながら、彼は独り言のように呟いた。
「何言ってるの。馬鹿らしい」
「昔は男をとっかえひっかえしてたって、聞いたぞ」
「誰から聞いたのよ? 大体、言ったはずだよ。あんたが初めての彼だって」
彼は「まあな」と不服そうに口を尖らせて、私を抱きしめてくる。煙草の香りがこびりついた布団は、彼のにおいと同じで、それが心地良かった。
「あざにならないといいけど」
そう言って、私の首をそろりとなぜる。少し乾いた彼の手の感触に、私は声を漏らす。
彼の指が好きだ。彼の手が好きだ。
いつでも私を殺せる、この狂気を孕んだ手が、愛おしくてたまらない。
「好きだよ。……お前もそう?」
うなずくだけで、決して言葉は出さない。
愛というものがどんなものかなんて、まだ十九歳の私にはよくわからないけれど、彼のことを愛していると思う。だけど、心の底から、憎んでもいる。
彼は、私にとって『刃』なのだ。
***
彼は、大学の同級生で、同じサークルに所属したことから知り合いになった。
最初は特に意識もしていなかったし、人見知りする彼と話すことも少なかった。ただ、彼の視線はよく感じていた。
サークル仲間にも「あいつ、またあんたのこと見てるよ」とからかわれることも度々あったのだ。
ある日、突然告白されて、断る理由も無いから付き合いだした。学生の私にとって、恋の始まりはそんなものでよかったし、そういうのが嬉しかった。
最初は普通のカップルのようにデートをくり返し、一緒にいる幸せを謳歌していた。けれど、それは少しずつ忍び寄り、少しずつ片鱗を見せていったのだ。
付き合って二ヶ月目だったか。
ささいなことで喧嘩をした。サークルの男の子と私が、夏の合宿について話をしているのを、たまたま彼が見かけたのがきっかけだった。
血走った眼を私に向け、「お前に言いたいことがずっとあった」と涙混じりに訴えてきた。
真剣すぎる眼差しと低く思いつめた声色が怖くて、体中が総毛立ったのをよく覚えている。
腕をつかまれ、ひきずり倒され、髪を引っ張られた。泣き叫び、「やめて」と泣きじゃくる私の腹を殴りつけた。
怖くて苦しくて、「こんな男とはすぐに別れなければ」と思った。
落ち着きを取り戻した彼は、震える私を抱き寄せ、泣きながら「ごめん」と何度もつぶやいた。
「お前が好きなんだ。誰よりも好きなんだ」と懇願する彼を目の前にして、私はたまらず彼を抱きしめていた。
「お前と他の男がしゃべっているのを見るのがつらい。俺を苦しめないでくれ。俺だけのお前でいてくれ」
そう言う彼を、突き放すことなど出来なかった。
暴力をふるわれたのは怖かったけれど、私をこんなにも求める人は、他にいないと思った。
私の髪をなで、額に口付けを落としてくれる彼を、捨てられなかった。
お互いの涙をふきあって、傷を舐めあうように唇を合わせた。
舌を絡ませ、息が出来なくなるくらい求め合い、お互いの存在を確かめ合った。
彼には私が必要なのだと。
私には彼が必要なのだと。
強く、強く感じていた。
***
「お前、あいつとなにしゃべってたの」
「なにって、別に」
「別にって、俺に言えないことなのか」
「他愛も無いことしかしゃべってない」
サークルの集まりでの痴話げんかは、いつものこと。
周りも「またやりだした」と少し呆れた顔をして私たちを見ている。
彼の嫉妬は徐々に悪化していっていた。それに伴って、暴力行為も増してきている。けれど、私を抱きしめてくれる腕や、髪をなでてくれる手はとても優しくて、愛に満ち溢れている。
私を愛してくれていると、手に取るようにわかるのだ。
それが嬉しくもあり、時折、面倒くさいとも思う。こんな風に毎度嫉妬されていては、普通の生活さえままならない。
「他愛も無いことってなんだよ」
「次の飲み会の話をしてただけ。いい加減にして」
「その態度、なんだよ」
彼の逆鱗に触れたことに気付く。だけど、ここにはサークルの仲間がいる。彼の暴力は二人きりの時しか行われない。
今は安全圏にいることを、私はわかっている。
「いい加減にしてって、言ってるでしょ。もううんざり」
わざと大きいため息をついた時、彼の目がギラリと光ったことに、私は気付いていた。
怒りで猛り狂う、獣の目。獲物を捕獲しようとする、肉食獣の目。
あの目を怖いと思うと同時に、愛しささえも抱いている。
彼があの目をむけるのは、私だけなのだから。
***
「い、たい」
訴えても、彼の動きは止まらない。
愛撫も何も無く始まった行為は、私には苦痛でしかない。
痛みのあまり滲む涙をべろりとなめて、彼は眉間に皺を寄せたまま、叫ぶ。
「お前が悪いんだ!」
――なにが悪いというの。
問いかけたくても、声が出ない。
痛みの向こう側にちらつく快感の渦に、飲まれそうになる。
彼の指がゆっくりと私の頬をなで、鷲掴みにして荒く口付けてくる。息継ぎさえ出来ず、彼にされるがままになってしまう。
唇を離した瞬間、エサを求める魚のように口をパクパクと動かした。
そのわずかな隙を突いて、彼は私の首に手を添え、ぐっと力を込める。
「あ、や、めて」
まともな呼吸が出来なくなり、彼の腕をかきむしる。
けれど、彼は手の力を緩めることはない。
「お前が悪いんだぞ。俺以外の男としゃべるなって、言ったのに!」
体の芯が熱くなる。意識は朦朧と彷徨い始め、薄く白い闇の中に彼の言葉が飲まれて消える。
「愛してるんだ。愛してるんだよ。お前を、誰にも取られたくないんだ」
――息が、吸えない。呼吸が、出来ない。
***
窓の外は雲に覆われ、星ひとつ見えない。
カーテンを閉め、私は彼の指に触れた。
この指が好きだ。この目が好きだ。
この指が憎い。この目が憎い。
相反する感情は、言葉の通り『愛憎』なのだと、私だってわかっている。
ベッドに横たわり寝入っていた彼は、私が起きだして何やら触りまくっていることに気付いて、少し腫れぼったくなった目を見開いた。
「な……」
彼が言葉を発するのよりも早く、彼にキスをする。
この人は、わかっているのだろうか。
私が、どれほど苦しんでいるのか。愛しているのか、憎んでいるのか、ぐちゃまぜになり交じり合うヘドロのようなこの思いに、気付いているのだろうか。
苦しい。苦しい。苦しい。
このバカのせいで、私は間違った道に迷い込んでしまった。
苦しくないと、辛くないと。
私は私という存在の価値を認識できない。
火山の噴火のように、突如、怒りが込み上げる。
強烈な嫌悪感をむき出しにして、彼の上に跨ると、彼は蒼白な顔で「なんで」とうめいた。
なんで? ……なんで?
もう、この感情を抑えることができない。
なぜ、こんなにも憤怒するのか。自分でもわからないのに、凶器は振り下ろされる。
ざくり。
プラプラと、ハサミの持ち手部分が揺れていた。
「私を――」
何を言おうとしたのか、忘れた。
頭の中が真っ赤に染まり、ぬるぬるとした温かい液体の感触しかわからない。
ひゅ、ひゅ、と間抜けな呼吸音がもれるたびに、彼の喉元から深紅の血が溢れ出た。
こぽりこぽり、とまるで湧き水のように。
すっかり焦点をなくした彼の目は、何かを探して宙を泳ぎ、ふと止まる。
私を見つめ、何かをつぶやく。
だけど、えぐられた喉元と口から血をあふれ出させるだけで、彼の声は何も発せられやしなかった。
「ごめんね……」
喉仏は、仏様のかたちそっくりな骨なのだという。
彼の仏を触りたくて、私は傷口に指を這わせる。
真っ赤な血の中に埋まるそれは、姿を見せてくれなかったから、私は固いものに触るだけで我慢した。
「好き」
でも、憎い。
彼の耳元で私の気持ちをささやいても、返事はもう無かった。
***
「うう、うああああ!」
雄たけびをあげ、彼の手を握りしめる。彼は私の手を握り返し、息を荒げる。速度を増す動きが私の呼吸を乱す。
私はただ目をぎゅっとつぶり、終わりを祈る。
――弾け飛ぶ。
「お前は俺だけのものだ」
彼の腕の中でまどろみながら、小さな子供のように彼にしがみついた。
髪の毛をなでてくれる彼の手の大きさが、私には何よりも大切なものに思える。
「どこにも行くなよ」
夢心地で、うなずく。
絞められていた首が痛んで、小さくうなると、彼は私の額にそっとキスをしてくれた。
「昨日のあれは、ひどいんじゃねえの」
甘く柔らかな声に、私も甘えて猫なで声をだす。
「だって」
言い訳を口にしかけて、やめた。
もう、終わってしまったこと。
きっと、私たちの愛が導き出した答えなのだ。
行き着く先は、ここしかなかった。
「まだ、夜なんだな……」
彼の目線は、薄いレースのカーテンの向こうに広がる闇に向けられる。
「夜しか、ないんだよ」
「そっか」
納得したのか、彼は空を眺めるのをやめ、私の胸に顔をうずめた。
「ごめんな……」
ひどいことをするくせに、すぐに甘えて、逃げようとする。
バカな、男。
明けない空。星ひとつない、暗雲の世界に、私たちは取り残された。
ああ。
どうして。
今さら、その事実を思い知らされる。
夢の中にいる時、痛みを感じなければ、それは夢でしかない。
痛みを感じるのならば、それこそが現実なのだと――誰が言い出したのだ。
求めて止まないのは、もう二度と戻ってこないもの。
だからこそ、私は求め続ける。
苦しさと痛みを。
生きているという、実感を。
快感の向こうでは、それはまるで現実のようにそこにいてくれる。
幻想であると、わかってはいるけれど。
「あんたが、私を殺すからいけないんだよ」
映画のワンシーンのように一筋の線を描いて涙が伝う。彼はそれを親指でぬぐい、「好きだから」とつぶやく。
「一生、一緒にいような」
彼と私だけの、小さな秘密基地。誰にも侵入できない、私たちだけの領域。
ここにたどり着いたのは、必然だった。
けれど、ここは安息の場所ではないのだ。
首を絞め、殺し合い、愛し合うことしか出来ないのだから。
牢獄に変えたのは、私なのか、彼なのか……。
消えていく涙は、彼の手の内に。
宵闇は、永遠に。
私たちを、閉じ込める。
お読みいただき、ありがとうございました!
男女のどろどろを描けていたらなーと思います。
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