『知性という幻影』に関する考察に資するための一事実
「先生、ものすごい売れ行きですよ! 文系の学術書としてはここ20年来で有数の、しかもまだ発売半年たってない! 確実に今世紀を代表する10冊に選ばれます!」
身振りまで交えて強調過剰のしゃべりな編集氏へ、クリュードゥムホクワティングル博士は不愉快げにヒレを振った。
「そんなことより、このタイトルはどういうことですかモッキールさん。『知性という幻影』? 私の著述を共通語に直訳するならば『言語により投影される知性』となるはずですよ。これは誤訳ですむ話ではない!」
「ぼくとしても、先生の正確な執筆意図を説明したのですが……。中身はいじらない、タイトルさえ変えれば全太陽系へ配信するといわれましてね。これだけの労作を、エンケラドゥス海洋圏のみに留めるのは、あまりに惜しく……」
モッキールは肩をすくめ、モニタかたわらのデスクへ伸ばした右腕をおいて顔をうつむかせた。クリュードゥム(本名はいささか長いので省略する)は頭頂の呼吸孔からふしゅうと噴気を吐いた。反省だけならサルでもできる、というのは20世紀の言葉だったか。
「中身の改変を阻止してくれたことには感謝しますよモッキールさん。ですがうちのメールサーバはもう満杯です。人間からは恩知らずだの反逆者だの脅迫まがいの抗議が、イルカやサルからはよくやっただのあなたこそ新世紀の予言者だのと無責任な応援が。……まったく、どっちも中身を読んじゃいない!」
「そいつらは、実際読んでないでしょうね。編集部には、好意的意見やなかなか鋭い踏み込みの批評が届いてますよ。迷惑メールは全部消してしまってください、購読証明つきの本物の読者からのメールを転送しますよ」
モッキール編集への怒りこそ収まったが、クリュードゥムはまだ言いたいことを全部すませていなかった。
「……誤導するようなタイトルとセンセーショナルな宣伝をしないでおけば、最初から読む気もない大衆は私の著述になんか見向きもしないんですよ。私は人間教導者観に与してはいませんが、それでも、言語によってこそ己の知性を定量化して表現できることは身をもってわかっている。どうして人間に喧嘩を売るような真似を」
「売れると判断したからですよ。そういう意味では、我が社の連中は優秀です、読みを外しはしなかった。ぼくも悩みました、先生のお説そのものを改変するわけではないにせよ、看板を架け替えていいものか。ですが、先生がこれを、地球に残っている保守派同胞へ向けて書いたのだと、原稿を読んでいて気がついたんです。エンケラドゥス海洋圏限定ではなく、地球にまで届けるためであれば、多少の妥協は許されると……。独断でしたが」
クリュードゥムは言葉を失っていた。モニタ越しでやりとりこそするが、直接会ったことはない、ジュピター・エウロパ出版タイタン支局勤めのオランウータンが、自分のもっともよき読者であったとは。
中継衛星が食の域に入って映像が固まってしまったのかと、モッキールは首をかしげた。
「……先生?」
「あ、いや、すまない。ありがとうモッキールさん、私は、地球まで自分の著述を届ける方策なんて、考えてもいなかった。あなたが担当編集でいてくれて、本当によかった」
「とんでもない、上に一読で売れると直感させた、先生のお力です。聞くところによると、先生のお説を読むために、地球のイルカの中にはそれまで拒否していた言語導入処置を受け入れることにしたかたもいるとか。まだ確認はしていませんが、もしいま届いていなくとも、遠からず地球のイルカからも感想や批評のメールがきますよ」
「楽しみです。同時に、ちょっと怖くもあるな」
映像でしか地球を知らないクリュードゥムにとって、母星の青い海で暮らす同胞たちは想像の存在でしかない。『言語により投影される知性』はまず第一にクリュードゥムの内面から湧き出した思想を言語化したものであり、地球の、いまだ明確な言語で考えてはいないが知性は備えている仲間たちへのメッセージは二義的だ。
届くと思って書いたわけではなかっただけに、はたして、本当に語りかけるべきであったのかどうか、クリュードゥムは一抹のおぼつかなさを覚えた。
・・・・・・
オルカ族を盟主とする全地球ホエール・ドルフィン諸連合が人類に対し宣戦布告をするのはこの60年後のことであり、クリュードゥムホクワティングル博士はエンケラドゥス海洋圏のイルカたちを率いて、すでにグリーゼ581を目指して恒星間航行へ進発したあとであった。