言葉
滝の轟音を聞きながらラッタットの毛皮に鉄製の櫛を通す。櫛を軽く振って脇にこんもりとした毛の山の上に落とす。春の陽気と滝のマイナスイオンを浴びたラッタットはうつらうつらと船を漕いでいる。
「まだ抜けるのか」
何度櫛を通しても絡みつく毛。それを辟易しながら解く。ご飯をあげたときに仕切りに体を掻いていたのでブラッシングしてみた。櫛はアジャ村の畜産農家から借りたものだ。
ブラッシングの手を止めて休憩していると子供が寄ってきた。遠巻きに眺めているだけだったが好奇心に負けたのだろう。朝顔を髪に巻きつけた男の子のエルフだ。
「Kedu ihe ị na-eme?」
キラキラと興味津々な様子で話しかけられた。聞いたことのない言語に目を瞬かせる。
「ごめん、日本語以外はアイドントノー」
今度はその男の子が首を傾げた。ラッタットを指差し再度首を傾げた。
「Gini bu aha gi?」
相変わらず何を言っているか分からない。日本語とも英語とも違う言語だ。多分ラッタットのことを聞いているのだろう。
「ラッタット。タッタタッタのラッタットだよ」
ラッタットの背中を撫でながら名前を呼ぶ。ラッタットが目を開けて鼻をヒクヒク動かした。
「Rattat、Rattat!」
少年が呼ぶとラッタットはそちらの方をちらりと見る。クンクンと匂いを嗅ぐ。少し驚いた様子の少年だったが手を中途半端な位置に彷徨わせている。
「Chọrọ imetụ aka」
多分撫でてもいいか?と聞いているんだろう。笑顔で頷くと満開の笑みを浮かべた。おっかなびっくりとした手つきでラッタットの背中を撫でる。ちゅう、と目を細めながら心地好さそうになくラッタット。
「Daalụ!」
ひとしきり撫で回して満足した少年。手を振りながら走り去ってしまった。まあ多分撫でさせてくれてありがとうみたいなことを言ったんだろう。手を振り返しながら少年を見送った。
◆◇◆◇
村長とローザの姿は見えず、ルチアもなにか作業をしている様子だったので暇そうなカインに白羽の矢を立てた。昼間の出来事を話す。その間カインは崖の岩を使って懸垂していた。
「長耳族は我々人間族と異なる言語で喋る」
カインは体を二本の腕だけで持ち上げ、そのままの体勢を維持しながら答えた。答え終わると懸垂を再開する。いやほんとどういう体の仕組みをしてるんですか。
「だから日本語通じなかったんだね。大人なら会話できるかな」
「ニホンゴ?」
カインが岩から手を離し地面に飛び降りる。解けかけた髪を纏めるリボンを解くき、手際よく撫で付け、結び直す。
「……大人なら神聖語が通じるだろう」
「シンセイゴ?」
互いに首を傾げた。表情は困惑に満ちている。カインの言った神聖語という言語に心当たりがない。もしや私だけ言葉が通じずにハブられるのだろうか。
「私、神聖語って言語初めて聞いたんだけど……」
しばし思索に耽っていたカインの表情が憐憫へと移ろう。気まずそうに視線を逸らした。
「まともな教育を受けられなかったんだな、可哀想に」
いきなり同情の言葉をかけられた。もしやこの異世界では日本語と神聖語なるものが必修なのか。意外と教育に力を入れているのかもしれない。
カインは近場の岩に腰掛け、隣を叩いた。座れってことだろう。提案に甘え、サヤも座る。
「今、俺たちが喋っている言葉があるだろう?」
カインの話に相槌をうつ。優しげな口調に変化したことに違和感を覚えつつも耳を傾ける。
「神様が喋っていた言葉、それが神聖語だ。長耳族が喋っているのは精霊語と呼ばれるものだ」
「私たちが今使っている言語は神聖語なの?」
頷くカイン。表情は真剣そのもので冗談を言っている様子ではない。そもそもカインは冗談を好まないので本当のことを言っているのだろう。はあ、と間の抜けた声をあげる。
「その様子だと本当に知らなかったんだな。そういえばお前、聖書の内容も知らなかったな」
ものすごく憐憫の眼差しを浴びせられているサヤはさらに戸惑った。異世界で日本語が通じることに慣れきっていたが、まさか神聖語なんていう高尚な言語だとは思っていなかった。
「死霊術師のスコルピィに師事していたのなら聖書に疎いのも仕方ないだろう。これから知っていけばいい」
励まされるように背中を叩かれる。バシンバシンと優しさのかけらもない威力に思わずサヤの顔が歪む。カインは特に気にする風でもなく立ち上がった。
「さあ、サヤ。鍛錬を始めるぞ」
「えっ、今から?」
岩に立て掛けられていた剣を取り出す。カインのレイピアとは別のものだ。特に飾りが施されているわけではなく、この世界でよく見かける鉄の片手剣だ。放り投げられたそれをサヤは慌ててキャッチする。
剣とカインの顔を見比べる。今まではカインの攻撃を避けたり体力作りしか行わなかった。サヤが剣を手に取ったのは今日が初めてである。
「ああ、そろそろ剣術を教えてやる」
はえええ