海鳴りの狭間に君の歌声を
すでに巣へと帰る鳥の鳴き声はなく、鈴虫の音が波の音に混じって聞こえてきた。母さんが帰ってこない。くうくうと鳴るお腹をさすり、椅子の上で足をブラブラさせる。
「遅いな、いつもならもう夜ご飯の時間なのに」
町内会は一昨日行ったばかり、遅くなるなら前もって何か言ってたはずだ。お父さんはよく遅くなるけどお母さんが遅いのは珍しいな。テーブルの上に手を置き、ぴたぴたと何も置かれていないことを確かめる。やっぱり変だな、何かあったのだろうか。探しに行こうかな?
体の向きを変えたところで母の言いつけを思い出す。
『母さんの帰りが遅くなっても絶対にお家の外に出ないで。約束よ、セシル?これは貴方の為なの』
椅子から飛び降り流しで歯を磨く。きっと目が覚めた頃には帰ってきているだろう。迷うことなく自分の部屋の寝室に行き、ベッドに横たわる。生まれた頃から住んでいるこの家。その家具の配置は完璧に記憶している。家の中なら杖は必要ない。
毛布を顔まで引き上げ、体を縮こめる。目を瞑るがなかなか眠気がこない。眠れない時に限って嫌な考えが忍び寄ってくる。もしかしてお母さんはモンスターに襲われたのだろうか。首を振ってその考えを否定する。それなら誰かが知らせに来るはずだ。ただちょっと帰りが遅いだけだ。朝になったらいつも通りパンの焼ける匂いで僕は眼を覚ますんだ。
『お父さんは家のことなんてどうでもいいのよ』
ふとお母さんが言っていたことを思い出す。お父さんは最近帰ってくるのが遅い。お母さんは気づいてないが、朝帰りの時は香水の香りを纏っていることが多かった。そういえば僕の誕生日にお父さん帰ってこなかったからお母さんすごく怒ってたな。お父さんは仕事で忙しいから仕方ないって言い返したからすごい喧嘩になったんだっけ。それからお母さんとお父さんが仲直りしたとは聞いていない。きっとまだ喧嘩しているんだろう。お父さんは家のことがどうでもいいから帰ってこないのかな?
嫌な考えが踵を返してまとわりつく。
お母さんが帰ってこないのは家のことがどうでもよくなったから?お父さんもお母さんも僕のことが嫌いになったの?両手で自分の肩を抱く。違う、と言いたいのに言い切れない。
「セシル、起きてセシル。私よ、アリアよ」
聞こえるはずのない声が聞こえ、ベッドから体を起こす。音は窓から聞こえた。草や鈴虫も寝る時間だ。
「アリアちゃん、どうしてここに?」
「暇だから来たの。セシルも眠れなかったんでしょ?」
窓越しのくぐもった声が響く。
「夜に出歩くのは危ないよ。早く帰らないとアリアちゃんのお母さんが心配してるよ」
アリアに注意する。女の子が夜に一人で出歩くなんてきっとアリアのお母さんも心配しているはずだ。
「それよりウタの練習しましょう、セシル!練習したから上手くなったのよ。だからあの砂浜で歌いましょ?」
返事も聞かずアリアは得意げに歌い始めた。昼間に教えた時よりも確かに上達している。嬉しさを感じつつも首を振る。
「ダメだよアリアちゃん。夜はお家の外に出ちゃダメなんだ」
バン、と窓が揺れる。言うことを聞かないセシルに対してアリアが怒って窓を叩いたのだろう。
「外に出て、セシル」
アリアの声から怒気が滲み出る。冷たい空気が窓の隙間から吹き込んできた。二の腕をこする。
「ダメだ、アリアちゃん。僕は外に出ないよ」
「なんで、セシル。私のことが嫌いになったの?」
震えた声にギョッとして窓に顔を近づける。
「違うよ、違う!そんなことない!!」
慌てて叫べばクスクスとアリアの笑い声が聞こえた。良かった、泣かせたわけじゃなかった。
「また明日、あれ今日かな?とにかくお昼になったらまたあの砂浜で歌おう!だから今は帰るんだよ、アリアちゃん?」
「むう、はぁい。お昼にあの砂浜ね、約束よ」
年下に言い聞かせるように伝えればアリアは渋々と言ったように了承した。遠ざかる足音が聞こえたので安心して毛布に包まる。不思議と眠気がすぐにやってきた。心地よい眠気に意識を委ねながら目を閉じる。
きっともうすぐ二人の内緒の歌は完成するだろう。そしたらお父さんとお母さんに聞かせてあげよう。きっと喜んでくれるに違いない。
静寂に包まれた部屋の中には月光が差し込む。目を閉じたセシルの腕はキラキラと月光を鉛色に反射していた。